川霧の渡し場
Mさんがその話を聞いたのは、祖父の葬儀で久しぶりに故郷のR県Y町へ帰った時だった。
町の外れには大きな川が流れている。
今は立派な橋が架かっているが、祖父が若い頃までは小さな渡し船が人や荷物を運んでいたという。
葬儀を終えた夜、親戚が昔話をしている中で、一人のおじさんがこんなことを口にした。
「霧の日だけは、古い船着き場へ近寄るな」
子どもの頃から何度も聞かされてきた言葉だったらしい。
理由を尋ねても、おじさんは笑うだけだった。
「近寄らなきゃ、それでいい」
翌朝、Mさんは散歩に出た。
空は晴れていたが、川だけは白い霧に包まれていた。
橋の上から見下ろすと、川岸に古びた木の杭が何本も残っている。
昔の渡し場の跡だった。
近くへ行ってみようと思い、土手を下りた。
草が生い茂る中に、朽ちた板が数枚並んでいる。
人が訪れた形跡はほとんどない。
その時だった。
ちゃぷん。
舟を漕ぐ櫂の音が聞こえた。
霧の向こうから、小さな木舟が現れる。
船頭は麦わら帽子をかぶった老人だった。
ゆっくり岸へ近づき、何も言わず舟を寄せる。
Mさんは観光用の催しでもあるのかと思った。
「まだ乗れますか」
そう尋ねると、老人は首を横へ振った。
「今日は迎えだけだ」
意味が分からなかった。
「迎え?」
老人は川の向こうを見たまま言った。
「もう一人来る」
そうして櫂を止めた。
しばらくすると、後ろから砂利を踏む音がした。
振り返ると、杖をついた高齢の男性がゆっくり歩いてくる。
近所の人だろうと思い、軽く会釈をした。
男性は返事をせず、そのまま舟へ乗り込んだ。
老人は黙って舟を岸から離す。
舟は霧の中へ消えた。
ほんの数分の出来事だった。
昼食の席で、その話を親戚へすると、場の空気が変わった。
誰も箸を動かさない。
やがて、おじさんが静かに尋ねた。
「杖をついていたか」
Mさんが頷くと、おじは深いため息をついた。
「顔は見えたか」
「いえ、帽子でよく見えませんでした」
その答えに、おじは少しだけ安心したようだった。
その日の夕方、町内放送が流れた。
近所に住む高齢の男性が、自宅で亡くなっているのが見つかったという知らせだった。
親戚が写真を見せてくれた。
そこには、昼に舟へ乗った男性に似た背格好の人物が写っていた。
亡くなった時刻は、朝早くだった。
Mさんが川で見かけるより前だった。
数日後、東京へ戻る前にもう一度だけ川へ立ち寄った。
今度は快晴だった。
霧はない。
渡し場の跡も静まり返っている。
その時、土手の草むらで小学生くらいの女の子が石を積んで遊んでいた。
「ここで何してるの」
そう声を掛けると、女の子は川を見ながら答えた。
「船を待ってるの」
「誰が乗るの?」
女の子は少し考えてから、
「今日は来ないよ」
と言った。意味がわからずMさんが考えていると、
「晴れてるから」
そう言うと、女の子は石を一つ川へ投げた。
ぽちゃん、と音が響く。
水面には波紋が広がった。
その中心に、小さな木舟の影だけが映った。
見上げても、川には何もない。
影だけがゆっくり岸へ近づき、波紋が消えると同時に木船は姿をなくした。
慌てて女の子を見る。
女の子はいつの間にかいなくなっていた。
積み上げていた石だけが残っている。
帰る前、おじさんは駅まで送ってくれた。
別れ際、こんな話をした。
「昔の渡し船は、人を乗せる前に必ず人数を数えた」
「どうして?」
「間違えて迎えじゃない人を乗せないようにな」
おじさんは笑ってそう言ったが、その目は少しも笑っていなかった。
