見出し画像

小作品集Sédouze「ダゲレオタイプ」制作小話(詩作・入山夜鷸編)

音楽と詩で紡いだ最後のダゲレオタイプ

こんにちは。キセル詩担当の入山夜鷸です。
先日公開した、Sédouze最後の作品「ダゲレオタイプ」。
その制作の裏を、詩担当の目線でお話します。

詩担当・入山夜鷸の声

この作品は曲を先に頂いて、あとから詩を書いたものです。

初めて聴いた時、なんとなくラヴェルの「メヌエット」(組曲「クープランの墓」より)に似ているなと感じました。

本作の音源を聴きながら歩いていたら、大きな古い病院の前に出まして。
幼少期ぶりだなと思って病院を見上げると、雌雄一対の蜻蛉がたくさん飛んでいました。

秋だ、と思うと同時に、どうしても頭を過ったのは “生と死” について。

そこから「このカメラは生者のみならず、死後写真も撮っていたのではないか」と想像して、この詩ができています。

ダゲレオタイプカメラが出始めた頃、死後写真──ポストモーテム・フォトグラフィというものも撮られていたことを、ご存じでしょうか。
当時、愛する人、特に我が子を亡くした人は、生者のように調えられたご遺体の写真を求めたりしました。

ダゲレオタイプの写真は複製ができない一点物、そして贅沢品。
1枚撮るのに20分も同じポーズでいる必要があります。
とりわけ生きている子どもや病人は、動き出したり咳込んでしまったりと被写体に不向きでした。

せめて最期の姿を生きているかのように残そう、という死後写真。
存命の家族が一緒に写るものも多く遺されており、インターネットなどで公開されているものもあります。

と、ダゲレオタイプと死後写真の話はそこそこにして。

今回は「印象派っぽくいきましょう」という白葉さんの提案を基に、  「写真」という言葉を使わずにカメラや写真を描いた詩を目指しました。

コリントス、というのはコリントスの娘という逸話がモチーフです。
愛しい人との別れ際、その影を壁に映し取ったそう。

その次のデクレシェンドとフェルマータは瞳孔を表しています(フラッシュが無く感度も低い当時のカメラは、撮影環境がうんと明るくなければなりませんでした)。

貴重なカメラで一瞬を切り取れる有難さ、尊さ。
銀板写真のぼんやりとした感じ。
伝わると嬉しいです。

今回は、今までの音源と似たハーモニーが聞こえるほか、主題が戻ってきた時のハーモニーが不思議な雰囲気に変わっています。

それに合わせて、登場する「夢」という言葉が指すものも前後で変化していますので、よろしければ考察してみてください。


Sédouzeをご覧いただきまして、ありがとうございました。
それでは、次のシリーズもお楽しみに。











いいなと思ったら応援しよう!