見捨てちまった悲しみに 不適切にもほどがあるフェリーニの「道」
10代にこたつに入って見てうたた寝してしまった「道」を50代で再見。もしかしたらこれ、戦争で愛する者を見捨ててしまった人たちの共感を集めたのでは、と思ったりしたわけですが。
【ねたバレありです】
白状すると途中、ほとんどうたた寝してしまったわけです。NHKで放映されたフェデリコ・フェリーニ監督の「道」。

映画はテレビで見るものだったその昔。「自転車泥棒」も「太陽がいっぱい」も、トリュフォーの「暗くなるまでこの恋を」さえ東京12チャンネルの「午後4時のロードショー」で観たんですから。「道」も確かNHKで観たんです。
冬でした。10代の少年がこたつでみかんを食べながら観るにはあまりに地味な展開。気付いたらあの有名な砂浜での号泣シーンになっていたのです。
時は45年ほど経て少年は白髪のおやぢに変身。よだれを垂らしてラストシーンをぼんやり眺めた「道」をPrimeVideoで見られると知り、早速再見しました。
そして思ったのです。改めて主人公のザンパノ。ひどい奴だなと。
■とにかくひどい主人公ザンパノの不適切さ
冒頭から人身売買。もう一人の主人公ジェルソミーナを金策尽きた母親から買う場面から始まるわけです。あらすじ紹介では「頭の弱い」「白痴」などと表現されているジェルソミーナの天使のような振る舞いが救いですが。というか、この映画、ジェルソミーナの魅力がなかったら見てられなかったでしょう。
ザンパノの不適切さは現代人から見たら、定職にもつかず育ての親の家を訪れては喧嘩を売って惚れた腫れたと大騒ぎする寅さんも比べ物にならない。金で買ったジェルソミーナを妻として労働者としてこき使う。グラマーな女を見ると平気で一晩過ごす。当然怒るジェルソミーナに罵詈雑言を浴びせ、暴力を振るう。お世話になった教会で窃盗すら犯して平気の平左なんだから質が悪いったらありゃしない。

そのくせできることと言ったら体に縛りつけた鎖を引きちぎるだけ。それで観客料をせしめるんだから。寸劇も演じるものの、素人芝居もいいところ。ジェルソミーナがチャーミングでなかったら誰も見向きもしないはず。
そんなザンパノがうっかり人を殺めてしまうわけです。殺意はなく、うかつなだけではあったものの、純粋なジェルソミーナをそれを機に心を病んでしまう。
あらすじだけ読んだら誰だって見たくなくなるのでは。
ところが最後まで見ちゃうんですね。
ジェルソミーナ役のジュリエッタ・マシーナの名演がまずいい。「ゴッドファーザー」でも知られるニーノ・ロータの音楽も美しい。古い映画に多い、小さなエピソードを丁寧に描いて積み重ねていく展開が弛緩の間に緊張を生み、非情さの合間に愛情を挟み込んでリズムを構築している気が。

そして今時の無難な展開の作品に慣れている観客からすると驚く展開を迎えちゃうわけです。
気のふれたジェルソミーナが仕事の邪魔になったザンパノは、体調を崩した彼女を見捨てて逃げ出してしまうわけです。
被人道的な行為に、現代のテレビドラマなら視聴者からクレームが相次ぎ、スポンサーがおりてACのCMだらけになるでしょう。
で、もしかしたら、と思ったわけです。
第二次大戦が終わってわずか9年後の1954年。この映画を見た多くの人が、我が身を振り返って涙したのではないかと。
戦火に友人や親戚や、いや妻か夫を、もしかしたら我が子さえも見捨てざるを得なかった人たちが、ザンパノに自らの姿を投影したのではないかと。
漫画「はだしのゲン」にもありましたよね。燃え落ちた屋根の下で助けを求める家族を見捨てる場面。映画「ソフィーの選択」を思い出してください。主人公ソフィーが、死の待ち受ける収容所送りの列車に乗せられそうになった息子を助け、娘を見捨ててしまった場面。
戦争とは関係ありませんが、トルコ映画「路」の「人生には説明できないことがある」という台詞を思い出します。

いや、勝手な推測なんですが、壊れた建物の壁の陰に横たわるジェルソミーナを見捨てて車を走らせるザンパノの姿に、愛する者を見捨てざるを得なかった人たちが自らの姿を投影してもおかしくない。もしかしたらこの荒っぽくて地味な映画がここまで名作とされるのは、表には出せない感動を覚えた多くの観客たちがいたのではないかと。
ラストシーンを見るまで結構しんどいです。いやラストシーンを見てもしんどいかも。でも50代になってあの号泣に、「見捨てちまった悲しみ」を見たような気がしたのです。
いや、まあ所詮、妄想なんですが。
