ウエルビーングという名の、あきらめと解放
人生の中で、人は何度も「離れる瞬間」を経験する。 大切な人と距離が生まれるとき、そこには寂しさだけでなく、ぬかるみのような罪悪感が顔を出すこともある。
海外生活が長い私は、日本への一時帰国を繰り返すたびに、その感情に足を取られてきた。家族と過ごす時間が濃ければ濃いほど、離れる日が近づくにつれて心は揺れ、最終日には決まって涙がこぼれる。離れている間に募るのは、恋しさよりも「自分だけが遠くにいていいのか」という罪悪感。そんなループを、私はもう何年も繰り返してきた。
けれど、それは物理的な距離だけの問題ではない。 きっと国内での別離であっても同じこと。成長しつつある子供に対しての感情も、違うようでどこか似ている。ずっと一緒にいたいわけではなくても、大切な存在と切り離される瞬間、人は言葉にできない鋭い痛みを感じる。
五年前、日本のデパートの、可愛らしいファッション雑貨が並ぶフロアを歩いていたときのこと。 最高に楽しい時間の真っ最中だったのに、突然、胸の痛みに襲われて自分でも驚いた。 実家はすぐそばにあり、母も健在。息子と私は近くに部屋を借り、何不自由ない「理想的な一時帰国」を謳歌していたはずだった。
それなのに、きらきらと輝く照明の下で、子どもの成長や親の老い、自分のあやふやな未来が頭をよぎった瞬間、強烈な孤独に殴られたのだ。
「もう、こんな感情に振り回されるのは、うんざりだ」
心の底からそう思った。
幸いなことに、私は、どうすればいいのか、その頃にはすでに知っていた。
これまで幾度となく、思考の扱い方や、内側を整えることで現実がどう変わるかを実践し、その手応えも掴んできた。ただ、この強烈な孤独を前にして、私は改めて自分に誓ったのだ。
「いつか」のために今を削って未来を保証しようとする無駄な抵抗を、もう、あきらめる。 条件さえ整えば、いつか安心が手に入る。そんな風に外側を塗り固めても、不安は順番待ちをして次の席に座るだけなのだ。
私は、もう二度と「条件」に振り回されない。 代わりに、今この瞬間の「ま、いっか」という安心に、これまでの知識と経験のすべてを注ぎ込み、意識を全振りすることにした。
すると、長年抱えていた罪悪感の正体が、ただの「壮大な思い込み」だったことが露わになってきた。不思議なもので、私が「誰かを不幸にしているのではないか」という呪いを手放すと、周囲の人との関係も形を変え始めた。 自分の幸せのために、誰かを犠牲にする必要なんて、最初からなかったのだ。
自分が満たされていなければ、相手を幸せにすることなんて到底できない。 けれど、自分が勝手に満たされて生きてみると、驚くべき事実に気づく。 「ああ、周りの人たちも、勝手にすでに満たされていたんだ」ということに。
幸福は奪い合いの先にあるものではない。 損得勘定や不安、不満がゼロになるわけでもないけれど、それらを抱えたままでも、世界はなぜかうまく回っていく。その潤滑油になるのが、感謝という名の、もっと静かで図太い感情なのだと思う。
ウエルビーングとは、抵抗をやめ、自然な流れに身を投じる感覚。 それは必死に努力して掴み取る戦利品ではなく、余計な自責を手放したあとに、そこらへんに転がっていたものだと気づくプロセスなのかもしれない。
いいなと思ったら応援しよう!
応援ありがとうございます♡