夫の椅子
『いつもの場所に座って』というテーマを見たとき、思わず笑ってしまった。視界の端には、お気に入りの椅子でiPadを読みながらくつろぐ夫の姿。彼にとってその椅子こそが“いつもの場所”で、旅行中もよく『そろそろあの椅子が恋しいな』と言う。
ボタンひとつで足置きが出て、背中がぐっと倒れるリクライニングチェア。座り心地は抜群だ。今のマンションのリビングに置くには少し大きすぎるけれど、体の大きな夫にとっては、そこに座ってくつろぐ時間が何よりの癒しになっている。
出会った頃、彼は別のマンションに住んでいて、赤い布張りのロッキングチェアを愛用していた。ずいぶん使い込まれた古い椅子で、離婚後に前の家からわざわざ持ってきたほどの愛着があるらしい。私は当時、夫の自宅の家具があまり好きではなく、同棲を始めるときに「家具は新しく買い替えてほしいな」と思っていた。その時代遅れのロッキングチェアも処分してほしかった。
でも、その時点でさすがにそれは言えなかったし、夫はその椅子で新聞紙を読みながらくつろぐ時間を何より大切にしていた。私は毎日のように「もっと新しい椅子を買えばいいのに」と心の中でつぶやいていたけれど、そうなる兆しはまったく見えなかった。
ある日、その椅子に座って新聞を読んでいる夫の膝に、私がふざけて無理やり座ってみた。二人でぎっこんばったんと揺らして遊んでいたら、突然、椅子が音を立てて壊れてしまった(笑)。静まり返った部屋に、少しの沈黙。そして、夫がぽつりと言った。
「君の願いが叶ったね」
もちろん、「椅子が壊れればいい」なんていう意地悪な気持ちはまったくなく、ただ「新しいソファをそろえたいな」と思っていただけなのに、なぜかそういう形で叶ってしまった。
数日後、気を取り直した夫と一緒に家具屋へ行った。私が前から願っていたような、明るいベージュのソファセットを見つけると、セットには革製の一人がけリクライニングチェアがついていた。夫はその座り心地に感動し、「これにする!」と即決。私も長椅子タイプのソファが気に入り、ふたりの意見はぴたりと合った。その日のうちに、それを購入することにした。
その後、私たちは今のマンションへ引っ越した。夫の椅子は部屋の角近くに置かれているので、コーナーチェアと呼ぶようになった。私はときどき冗談めかして「コーナーへ行ってて」と言う。まるで愛犬に「ハウス」と言うみたいに(笑)。夫もそれを気に入り、“My Corner Chair”と呼ぶようになった。それが、彼の“いつもの場所”になったのだ。
アメリカでは新聞を取る人がどんどん減り、デジタル化が進んでいる。夫も今では新聞を広げるかわりに、その新しい椅子に身をうずめ、iPadでニュースを読むのが日課になった。
半年前のフランス旅行中、ブルゴーニュ地方のポマールで借りた部屋には、小さなリーディングルームがあった。隠れ家のような静かな空間で、一人用の椅子がぽつんと置かれている。夫はそれを見つけて「自分のコーナーチェアがあった!」と大喜びし、そこでiPadの新聞を読む時間を心から楽しんでいた。
パリでの滞在を終え、旅も二週間を過ぎたころ。手狭な部屋が続いていたので、この小さなリーディングルームでようやく本当の意味でくつろげたようだった。
先月、日本滞在中に借りていたマンションでは、小さなソファにちょこんと座りながら「窮屈でくつろげないなぁ」と言っていた。5週間ほどそこに滞在していたので、その姿を見て少し気の毒に思い、次に借りる部屋ではソファの質も考慮しようと思った。
そして今朝。ヨガから戻った夫は、自分で丁寧にカプチーノを淹れ、コーナー席に座って新聞を読んでいる。出会ってからほぼ5年。いろんなことが起き、環境も変わったけれど、夫が“いつもの場所”に座ってリセットする習慣だけは変わらない。
そんな姿を見ながら、感謝の気持ちが沸いてくる。明日は結婚記念日。日本滞在中からすでに、夫がレストランを予約してくれていた。どんな時間になるか楽しみだ。
#いつもの場所に座って
いいなと思ったら応援しよう!
応援ありがとうございます♡