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喜びにピントを


朝、近所の友人から夫にメッセージが届いた。彼は現役バリバリの医師。世界中の研究機関からラブコールが絶えず、いわゆる「超」がつく多忙な日々を送っている。リタイアして遊び暮らしているうちの夫とは、実に対照的。同い年ではあるけれど。
私とはヨガのクラスで顔を合わせるが、最後までいたためしがない。15分も早くクラスを抜け出してシャワーを浴び、大急ぎで着替えて自分のオフィスに戻って行く。

「そろそろ引退しようかなあ」という言葉が口癖なのだけれど、現実はそう簡単ではないらしい。 というのも、彼は「テニュア」という、アメリカでは一生クビにならない魔法のような権利を持っているから。病院や大学側からすれば、そう簡単には手放したくない存在なのだ。
彼の研究は難関の審査を突破し、日本円にしておよそ3億円の助成金をアメリカ政府機関から受けた。医療界に貢献する大きなプロジェクトを担っている。すごい人であるが、私といるときは難しい話は一切しない(笑)。

私たちの別の友人である経済学者の彼女も、同じ魔法のカードを持っている。けれど彼女の場合は、キャリアのスタートが遅かった分「蓄えが足りなくて辞められない」という、これまた切実な事情を抱えているらしい。

そんな彼から「今日は僕の誕生日なんだ。妻は外せない急用で遠出していて夜までいないから、ディナーに来てくれたら嬉しいな」とお誘いがあった。
なんで当日の、しかもそんな直前に?と思いつつも、私たちは二つ返事でケーキを買いに走り、夕方になると彼のお宅へ向かった。

アメリカ国内だけでも5つの物件を持っている彼は、海外出張もとても多い。そして母国に自宅を建設中。地球のあちこちを飛び回る様子を想像するだけで疲れるが、彼の人生のメインは仕事でもある。子供たちも医者になりつつある。私と夫から見たらすごすぎる人なのだが、唯一私の夫の方が勝ってるところがあるとしたら、それは家事ができること(笑)。多忙な医師の彼はさすがに家事まで手がまわらない。看護婦として働いている奥さんが完璧に家事をこなしているそうだ。もちろん育児もばっちりだったんだろうなと思う。私と年齢は近いと思うが、すべてにおいて私の手の届かない人である。

その奥様が不在ということで、夕食はレストランのテイクアウトだった。もちろん私たちに異存はないが、他に2人のゲストもいて合計5人だったのに料理の数は今一つ足りなかった。それらを温めるてさばきもぎこちない。お皿がどこにあるのかすら把握していない彼が、ケーキを切る段になって持ってきたのは……

なんと、日本で買ったという「出刃包丁」。

「え、それで切るの?」と一同大爆笑。
照れながらキッチンにかけもどり、ケーキナイフを無事に見つけた。

ハッピーバースデーの歌をみんなで歌うと、子供みたいに喜んでいた。ビデオをまわして、すぐに奥さんにも送っていた。 奥さんに頭が上がらない彼だが、まめにスマホで連絡を取り合ってる。会話にも彼女の名前がよく出てくる。成人した子供たちとの仲の良さもうかがえる。その姿から溢れる家族愛に、心がじんわりと温かくなった。

数年前の私だったら、こんな絵に描いたような幸せを眩しく感じすぎて、今の自分と比べては胸を痛めていたかもしれない。 でも今は、他人の幸せをそのまま「お福分け」として受け取っている自分がいる。 輝かしい幸せの裏側には、きっとそれぞれに複雑な事情が絡み合っていることも、今は少しだけ想像がつくから。

結局、現実をどう見るかは、自分の心が決めている。 不安の種を探すのをやめて、目の前の喜びにピントを合わせる。 ただそれだけで、世界はこんなにも優しく、ときめきに満ちた場所に変わる。

それをずっと、体感し続けている。



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