「何もない私」に、マルを出せるか
先日のオリンピックのアイススケートの演技を見て、思わず涙がこぼれた。 というメッセージをいただいた。私も同じで、あまりの感動にボロボロ泣いた。
競技ではなくても、プロのダンスシーンを見て目頭が熱くなることもしょっちゅうある。たった数分間の輝きに視線が釘付けになる。どうして、私たちはその動きに、あんなに魂を揺さぶられてしまうんだろう?超人的な努力や才能に感動しているのは、間違いない。あのひたむきで純度の高いエネルギーに、共鳴しちゃうからかもしれない。
「何もない私」に、マルを出せるか
「頑張る」って素晴らしいし、能力がある人は羨ましい。 でも、いざ自分に置き換えたとき、なかなか結果が出なくてションボリすることもある。周りに認めてもらえなかったり、思うような展開にならなかったり。
「いつになったら報われるの?」なんて思い悩み、キラキラした人を羨ましく思ってしまう。まあ、それって普通なんだけど。
でも、もしも「認められないと不安」「結果が出ないと価値がない」という思いがあるなら、ちょっと立ち止まってみて欲しい。
「まずが自分が自分を認める」 といった言葉。
もう何年も前から、耳にタコができるほど溢れているけれど、この言葉自体に振り回されて疲れちゃっている人はすごく多い。
厳しいことを言うようだけど、 「頑張っている自分なら認められる」と思っているうちは、まだ本当の意味で自分にマルを出せていない。
本当の土台は、そこじゃない。 特別な能力がなくても、これといった努力をしていなくても、まずは「今、ここに生きている自分」を無条件に認めること。
正直なところ、大した努力もせず、自由に豊かに暮らしている人や、素敵なパートナーシップに恵まれている人って世の中にたくさんいる。 それを「あの人は運がいいだけ」で片付けるのは簡単だけど、実はその「ラッキー」は自分で創れるものでもある。
たとえ今、どんなに厳しい境遇にいたとしても、 まずは「無力なままの自分」の存在を、自分自身が受け入れることからしか始まらない。そこに「正しさ」なんて概念はいらない。だってあなたは、これまでずっと、頑張って生きてきたのだから。ただ、「ああ、私、生きてるな。それでいいんだな」って、降参しちゃう感じ。
「存在給」という、心地よい基準
数年前にネットで見つけた「存在給」という言葉が、私はずっとお気に入り。
機能給:スキルや成果、労働の対価として受け取るもの
存在給:自分が自分であるだけで、受け取っていい豊かさの基準
この「存在給」の設定が高い人は、愛もお金も喜びも、抵抗なくスッと受け取れる。 逆に低い人は、「何か役に立たないと、愛される資格がない」と自分を追い込んでしまう。
私はオリンピック選手のような大きな努力はしていないけど、頑張らないから成長が止まるなんて思ってない。努力はしていないけれど、好きなことはやっている。それは他人から見たら、ある意味、努力かもしれない。
もし私が「私なんてダメだ」なんて拗ねようものなら、夫や息子、友人が、私の「豆粒ほどの小さな頑張り」をリストアップして教えてくれる(笑)。 これは私が特別だからじゃなくて、本当は誰もがそうなのだ。
もし、自分一人ではどうしても「自分に価値がある」なんて思えないなら、誰かの手を借りたっていい。ここは本当に大切だから。
生きてるだけで、価値がある。 それこそが無条件の愛。
能力があるから自分を愛するのではなく。 「私だから、愛して当然」 そう思えたとき、世界は優しくなってくる。誰もあなたを能力でジャッジしなくなってくる。
そして自分が選んだ行動は、多くの場合において、「苦しいもの」から「心地よい刺激(イタ気持ちいいくらいの!)」に変わっていく。
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