2026年度 三位一体の祭日(A年)の説教
◎ 出エジプト記 34章 4b~6, 8~9節
◎ 第2コリント13章11~13節
◎ ヨハネ3章16~18節
◆ 説教の本文
〇 教会の祝祭日のほとんどは、救いの歴史の出来事を祝うものです。しかし、三位一体の主日はちょっと毛色が違います。
神学的祝日 (idea feast)と言われることがあります。「父なる神」と「子である神」と「聖霊なる神」が、「三」にして「一」であるということをどう説明するかには、古代から様々なアプローチがあります。
その説明の難解さがある種の神秘性を持ち、信者たちの尊敬を呼び起こしたので、そう呼ばれるようになったのでしょう。
しかし、説明の仕方 (神学)が、教会の祭日になるというのはやはりおかしいのです。 一体この日は何を祝う日なのでしょう。
このあたりの事情、信徒の間における、この祭日の位置づけについて、私が2023年にした説教は役に立つのではないかと思うので、ほぼそのまま再録します。
〇 30年ほど前に、御受難会の主催講演会が池田教会でありました。スピーカーは国井健宏神父でした。講演が終わって、質問タイムになったのですが、真面目そうな男性が立って、質問をしました。
「三位一体とはどういうことでしょうか?」
講演のテーマは「イエス・キリストの御受難」でしたから、まったく関係のない質問でしたが (よくあることです)、国井神父は驚いた様子も見せず、即座にこう答えました。
「三位一体とは、神様の御家の事情です。」
それに続く説明は、私にはきわめて興味深いものでした。しかし、彼が答え終わった後、質問者は不満そうな表情で、こう言いました。「さっぱり分かりませんね。」
私がなぜこのシーンをよく覚えているかというと、三位一体という難問をめぐる信徒の状況を表している気がするからです。
まず、この男性は、なぜ唐突に三位一体について質問したいと思ったのでしょうか。三位一体という神秘に関心があるからでしょうか?
そうではなくて、三位一体という名前が有名だからと思います。三位一体はキリスト教の教義の最奥の部分だとはよく言われていることです。
そして、「三にして一」というのはすごい深遠な真理を言っているような気がする。何の話だかわからないが、どうも気になっていた。それで、いかにも博学そうな神父が演壇に立ったのを見て、この機会に、つい質問したくなったのでしょう。
では、なぜ答えを聞いた後、いかにも不満そうな顔で「さっぱり分かりませんね」と、一生懸命答えてくれた人に失礼な言い方をしたのでしょう。質問して答えがよく分からないことは珍しいことではありません。でも、あの時の男性の態度には、単に分からないというのでないフラストレーションが感じられました。
「何の問題に答えてもらったのか、さっぱり分からない」というフラストレーションです。それはそうでしょう。質問者自身、何の問題に答えてほしかったのか、分からないのです。
実は、この時の国井神父の答えは、「三位一体論とは何を問題にする議論なのか」という問いに対する答えなのだと思います。
〇 国井神父はこう答えました。「三位一体とは、神様の御家の事情だ」。私は「イエス・キリストの実家の事情だ」と言いたいと思います。
私は神戸の東灘区で育ちました。今は宝塚に住んでいます。阪神地方のこの辺りの山沿いには、大きなお屋敷が点在しているます( 私の実家はごく庶民的ですが)。
東京の田園調布は高級住宅だと言いますが、私は初めて上京して田園調布を見た時、これが高級住宅街だとは思えませんでした。ちょっと大きめの住宅に過ぎない。
しかし阪神地区のお屋敷には、周りを高い石垣で囲んで、中が容易には見えないくらい、奥深い、大きなお屋敷があるのです。そして、そういうお屋敷にはだいたい誰が住んでいるか、分からない。流行に乗った会社の社長とか、有名な芸能人とかじゃないのです。国井神父の三位一体の説明は、こういうお屋敷の近くに住んだ経験があるとよく分かるでしょう。こんな大きなお屋敷に一体誰が住んでいるのかと、前を通りかかるたびに思います。私が国井神父の答えに引きつけられたのは、私が子どもの頃、そういう地域に暮らしていたからでしょう。
〇 国井神父の話はこうです (私なりの再話です)。
大きなお屋敷の近くに住んでいると、門前をよく通りかかる。一体、このお屋敷にはどんな人が住んでるんだろうと思っていた。
ある日、門からひょっこり出てきた人に出会う。縁があるのか、何度も出会い、挨拶するようになって、しだいに仲良くなる。イエスという名前らしい。お屋敷の使用人ではなく、主人らしい。とても良い人のようである。世の中のこともよく知っている。
すっかり親しくなって、喫茶店で話しこむこともある。ある日などは、誘い合わせて、地域の募金活動に参加した。
門から家族らしい人が出て来ることもある。「聖霊」氏 (飄々した雰囲気)と「御父」氏 (立派な風采の紳士)というらしい。紹介されたことであるが、イエス氏ほど親しくなれない。
だんだんにイエス氏がこの大きなお屋敷の中でどんな暮らしをしているか、知りたくなった。特に、「聖霊」氏、「御父」氏と一緒にどう暮らしているのか。
そこで、イエスの言葉の端々から、お屋敷の中の生活を推測するようになった。たまたま門が開いた時に中を覗きこむ。そうして、垣間見たお屋敷の生活を、たとえ断片的にでも表現しようとするのが、三位一体論という議論です。私も垣間見たと思うことがあります。いつか、それを説教で話すこともあるでしょう。
〇 お屋敷の中の生活を知りたいという好奇心を、今のところは持たない人もいます。確かに、お屋敷の中でどんな暮らしをしているのかが分かれば、イエスのことがもっとよく分かるようになるでしょう。
しかし、慌てることはありません。とりあえずは、イエス・キリストと親しくなることで十分です。私たちはよく生きることができます。
聖パウロはこう書いています。「イエス・キリスト、 それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた・・」(第一コリント2.2)
また、ヨハネ福音書にはこうあります。 「私を見たものは父を見たのである。」(ヨハネ14.9)
ただ、毎年一回、この祭日にキリスト教信仰にはこういう分野があることを思い出しましょう。三位一体 についての短い文章を何か 読んでみましょう。いつか、大きなお屋敷の中の暮らしを知りたくなるかも知れません。 (了)
