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ボディポジティブと絶望のしょぼくれバストのはざまで

「バレない! 自分の脂肪で自然な美しさ」
「あなた史上最高の自信、取り戻そう!」

SNSを開くと、今日も豊胸手術の広告が延々と流れてくる。あんたたち、なんで私が貧乳に悩んでること知ってるの?

中には、若い女性が術後の胸を手鏡で見て「夢みたいです。ずっと隠して生きてきたので……」と涙を流している動画広告もあり、広告だとわかっているのに「よかったね……わかるよ、今まで辛かったね、これからは胸張って生きるんだよ」と涙ぐんでしまう。カモすぎる。

思い返すと私の胸へのコンプレックスは子どものころからあった。

性的な象徴に対するドキドキ、直視できない後ろめたい気持ち、自分の体が大人の女に変わっていくことへの抵抗感などとごちゃまぜに、大きくて美しくて柔らかそうな「おっぱい」への憧れがあった。意識しすぎて「おっぱい」と呼ぶのが恥ずかしくて、頑なに「胸」と呼んでいた。

いつ膨らんでくるんだろう。期待と不安にドキドキしていたが、小学5年生で初潮を迎えても、中学生で彼氏ができても一向に大きくならない。

172cmの身長に、色黒の肌、肩幅ガッシリのゴツい体つき、控えめな胸のまま大人になってしまった。

「なんか違う……」

こんなんじゃ彼氏に嫌われる。男はみんな胸が大きい子が好きに決まっているのに。

あの頃の私は、自分という商品を「男性市場」に出荷するつもりでいたのだと思う。古い価値観だ。巨乳=最高の武器。 誰に教わったわけでもないのに、その公式を信じて疑わなかった。

ああ、羨ましい。大きくて美しくて柔らかそうなおっぱいを持つ女性にいつも嫉妬している。研究しまくった結果、女性の胸を見れば「あれは寄せて上げてる」「これはシリコン」「これは天然」と5秒で大体わかるようになった。

あと2カップ大きかったらどれだけ自信が持てただろうか。大好きだったのに付き合って半年で「ナミって重いんだよね」と去っていった彼も、もっと私のそばにいてくれたかもしれない。

もし私に、たわわな胸があったなら、嫌な上司に小言を言われても、満員電車で足を踏まれても「ま、いっか。だって私、Fカップだし」と寛大な心でスルーできるような気がする。いつも心に余裕があって、もっと穏やかでいられて、人生バラ色だったかもしれない。

私がこんなに卑屈で拗れた性格なのは、胸が小さいからなんじゃないの?

そんな私の他力本願ならぬ「乳力本願」な夢が、思いがけない形で叶う日が来た。 妊娠、そして出産だ。臨月を迎える頃、鏡の前には見知らぬ女が立っていた。 

胸に確かな質量がある。ブラジャーに背中や腹の肉を寄せて集めなくても、そこに深い谷間が存在している。 私は歓喜した。これだ。私がずっと欲しかったのは、このシルエットだ。

ついに「持てる者」の仲間入りを果たしたのだ。

ところが、やっと手に入れた憧れの巨乳だったが、産後、ガチガチに張り青筋が表面を覆ったその戦闘モードのおっぱいは、私の性格を1ミリも良くしなかった。

「ま、いっか。だって私、巨乳だし」なんて余裕をかますどころか、ホルモンバランスの乱れと睡眠不足でかつてないほどイライラしていた。

また、その豊かな胸が「男性市場」で評価されることもなかった。評価してくれるのは生まれたばかりの我が子だけ。私の巨乳はセクシーな魅力を放つ武器ではなく、3時間おきに強制起動される給水タンクだった。

思ってた巨乳と違う……。私はこんな風に酷使される給水タンク工場ではなく、眺めてウットリ、触ってとろける、憧れの「おっぱい」が欲しいんだ。

卒乳から数年。私の胸は今、人生最大のしょぼくれをみせている。かつてのサイズに戻るどころか、そこからさらに若さという支えも失い、重力と疲労になすがままにされ、余った皮だけが寂しくそっぽを向いている。

本来ならここで「母になった勲章として、今の自分を愛することにしよう」なんてまとめるのが現代のエッセイとしての正解なのだろう。

私も文章を書く人間の端くれとして頭では分かっている。ルッキズムの弊害も、ボディポジティブの重要性も、多様性の美しさについても書いてきた。巨乳が羨ましいなんて時代遅れもいいところだ。

社会が押し付ける「理想の体型」に価値を見出すのはやめて、ありのままの自分を愛そうという理念は素晴らしいし、否定するつもりはない。
けれど、ここは深夜の喫茶室だから、こっそり本音を言わせてほしい。

やっぱり、巨乳が羨ましい。

私は、このしぼんだ風船のような胸を愛せない。 鏡で見るたびに「ああ、いやだな……」としょんぼり悲しくなるのだ。

 「ああ、いやだ……」

冷静に考えれば無駄なこだわりではある。夫との関係はとっくに穏やかな家族のそれになり、ときめくような性生活があるわけでもない。年齢的にも、もう胸を露出するような服は着ない。巨乳を武器とみなす男性市場に合わせる必要もない。それなのに、なぜ私はこれほどまでに執着するのか。

これまでに何度か男性に聞いたことがある。
「例えば中身が同じ人で、おっぱいの大きさを選べるんだとしたら、もちろん大きい方がいいよね?」
ほぼ誘導尋問だ。

結果は意外なものだった。
夫は(本音を言っていない可能性はあるが)、「別にそんなのあんまり関係ないよ。大きくたって、3つあったって何とも思わない」と答えた。いや、3つはさすがに何か思えよ。

また、他の男性にも聞いてみると、なんと5人中2人が「大きさは関係ない」「小さい方がいい。自信を持っていい」と答えたのだ。
え? 男性は100%みんな巨乳が好きなわけじゃないの?

けれど、私はその言葉を聞いてもなお「嘘だ!」と叫んでしまう。そんなの、どうせ私をはげますための嘘に決まってる!

彼らの優しい言葉を「本音では大きいほうがいいくせに」と、どうしてもねじ曲げて受け取ってしまう自分。もう誰にも見せないのに胸を大きくしたい欲望に気づいたとき、私はハッとした。

ーああ、そうか。私自身が巨乳至上主義者だったのだ。

男性が巨乳好きばかりではない(本心かどうかは別として)と知った今でも、誰にも見せる機会がなくなった今もなお、私は大きな胸に憧れを抱いている。

それは数十年にわたり、男性社会が反映された漫画やテレビなどのメディアから「豊かな胸=女としての勝利」という図式を刷り込まれ、私の思考が洗脳されてしまった影響もあるだろう。しかしそれ以上に、単純に動物的で根源的な憧れがそこにあるのではないだろうか。

胸の大きさは、理屈抜きで「生命の豊かさ」の象徴のように感じられるのだ。

私は誰のためでもなく、私自身の体に、あの大きくて美しくて柔らかそうなおっぱいが欲しいのだ。

というわけで、私は毎日必死にバストアップのトレーニングをしたり(いくらやっても肩周りばかりパンプアップして胸は一向に大きくならないの、なんで?)、暇さえあれば豊胸手術の症例写真を眺めて「脂肪注入ならバレないか……?」と真剣に算段したりしている。

往生際が悪いと笑われるかもしれない。古い価値観に縛られていると批判されるかもしれない。しかし私はまだまだ「ありのまま」を愛せない。

今夜も私は「頼む……もっと大きく……!」と唱えながら、せっせと胸のリンパマッサージをする。この満たされない渇望こそが、私がまだ枯れていない何よりの証拠だと信じて。


おしまい


エッセイスト・斉藤 ナミ プロフィール

婦人公論.jp」「ランドリーボックス」「ねとらぼ」など、さまざまなWebメディアで執筆。note主催「創作大賞2023」エッセイ部門にて幻冬舎賞を受賞。著書に『褒めてくれてもいいんですよ?』(hayaoki books)
https://x.com/nami5711




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