【注目記事】エッセイ|黒い匣――好奇心につきノロイ?
【本稿について】
これは二〇二三年三月から二〇二四年七月にかけて私が体験した実話です。
医学的には「偶然」で説明できる出来事ですが、私自身は今も疑問を抱いています。
読者の判断にお任せします。
なお、本文中に登場する「匣」については、現在も所在不明です。
もし類似の物品を発見された場合、安易に触れないことを推奨します。
プロローグ:誰?
壁の向こうから、声が聞こえる。
ここはICU。
五階。
壁の向こうは外だ。
看護師はそう言った。
でも声は確かに聞こえる。
早送りにされた会話。
誰かの叱責。
聞き覚えのある音。
最後に、笑い声。
複数の人間が、何かを嘲笑している。
――匣を返さなければ。
意識が途切れる前に、私はそう思った。
これは二〇二三年三月三十日、私が倒れた日から始まる実話である。
第1部:匣
■恐怖を書けない、ホラー作家
二〇二三年三月まで、私は健康だった。
二十代後半。
七年間エンジニアとして働き、休日にホラー小説を書いていた。
大きな病気をしたことはなかった。
ホラーを書くには致命的な欠陥があった――
怖がらなかった。
小説を読んでも、映画を観ても、恐怖を感じなかった。
頭では理解できる。
でも、胸が締めつけられる感覚がわからなかった。
怖さを知らない人間が、どうして人を怖がらせることができるのか。
書けないという不安。
それだけが、私にとって唯一のリアルな恐怖だった。
だから本物の恐怖を知ろうとした。
■コレクターの男
二〇二三年三月上旬、ひとりの男を思い出した。
彼の名前はS。
一年前、居酒屋で知り合った。
呪物を集めているという変わった趣味を持っていた。
転職が決まり、新しい環境に飛び込む前に何か刺激が欲しかった。
軽い気持ちで連絡を取った。
数日後、以前と同じ居酒屋で会った。
*
痩せていた。
一年前より、明らかに痩せていた。
頬がこけ、目の下に深い隈ができている。
でも、それだけではなかった。
目が、怯えていた。
何かに追われているような。
何かから逃げているような。
そんな目だった。
私「お久しぶりです」
声をかけると、びくりと肩を震わせた。
まるで、予期していなかったかのように。
S「……ああ、お久しぶりです」
声は掠れていた。
席に着くと、Sは何度も店の入口を振り返った。
誰かを待っているのか。
それとも、誰かが来ないか確認しているのか。
ビールを注文したが、Sはほとんど口をつけなかった。
私は違和感を覚えていた。
でも、その違和感の意味を理解したのは、ずっと後のことだった。
■暗闇の夢
しばらく他愛のない話をしてから、私は切り出した。
私「そういえば、あのコレクション、まだ集めてるんですか?」
ジョッキを持ったまま、少し黙った。
S「……実は、全部手放したんです」
あれほど情熱的に語っていた趣味を、辞めたという。
私「なんで急に?」
視線を落とした。
S「あるものを手に入れてから、体調がおかしくなって」
私「体調?」
S「病院行っても異常なしっていわれるんですけど……夢を見るようになって」
私「夢?」
S「暗い夢です。ただ暗闇の中に立ってるだけの」
手が、わずかに震えていた。
S「怖いんです。家にあるのが」
私は食いついた。
私「どんな物なんですか?」
スマートフォンを取り出し、写真を見せた。
黒ずんだ木の匣。
手のひらに収まるサイズ。
S「開かないんですよ。開け方がわからない」
私「コトリバコみたいな?」
S「似てるかもしれないです。寄木細工だと思うんですけど」
私は興味を持った。
いや、興奮していた。
私「どうやって手に入れたんですか?」
首を横に振った。
S「それは……いえないです」
それ以上は追及しなかった。
聞いてはいけない気がした。
S「捨てようと思っても、できない。売ろうとしても、買い手がつかない」
私の目を見た。
S「……もし良かったら、実物見ますか?」
その言葉を聞いた瞬間、私は頷いていた。
なぜそうしたのか、今でもよくわからない。
■渇望を吸い取る匣
数日後、Sの自宅を訪ねた。
実物は写真より小さく見えた。
でも、手に取るとずしりと重い。
見た目の三倍は重い。
木の表面は滑らかだが、妙に冷たい。
触れていると、指先が少しずつ冷えていく。
不意に、かすかな臭いがした。
土と、湿った木と――
それを見ていると、視線が吸い込まれる気がした。
表面の木目が蠢いている。

S「大丈夫ですか?」
その声で、はっと我に返った。
手のひらに、冷たさが残っていた。
私「どういう逸話があるんですか?」
首を横に振った。
S「詳しくは聞いてないんです。というか、聞きたくなくて」
S「ただ……ひとつだけいわれたことがあって」
私「何ですか?」
S「この匣は、誰かの『渇望』を吸い取って重くなるって」
私は匣を見た。
S「最初、俺が手に入れた時はもっと軽かった」
私「……今は?」
S「俺の分が加わった」
手が震えていた。
S「ただ、開けちゃいけないってことだけはいわれました」
S「……欲しければ、あげますよ?」
声が、妙に軽かった。
私「わかりました。いただきます」
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