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エッセイ|雪の降る日は、霊界との境界線が薄くなるらしい

雪が降ると、世界は音を失う。

科学的には「吸音効果」と呼ばれる現象。雪の結晶が空気中の音波を吸収し、街のざわめきや車のエンジン音を奪っていく。

だが、作家である私にとって、あの静寂は別の意味を持つ。

雪が降る夜、消えるのは音だけではない。

生者と死者を隔てる境界線そのものが、白く塗りつぶされていく。

   *

あれは数年前の冬、大晦日を数日後に控えた深夜のことだった。

北陸にある実家へ帰省していた私は、一階の居間で家族とテレビを見ていた。画面の中では芸人たちが大声で笑い合い、母はお菓子を食べながら、父は晩酌をしながら、妹はスマホをいじりながら、それぞれが緩やかに同じ空間を共有していた。

ごく普通の、平和な年末の光景。

その時、私のスマホに表示された。

バッテリー残量5%の警告。

「……充電しなきゃ」

充電器を二階の部屋に置いてきたのを思い出す。明日の帰りの新幹線は、年末の帰省ラッシュで指定席が取れるかどうか微妙なタイミングだ。予約画面を確認しておかなければならない。

一階は暖房が効いている。外は氷点下だ。

当然、二階も凍えるほど寒い。

築40年の木造二階建ては、一階と二階で別世界のように温度が違う。できれば朝まで暖かい居間にいたかったが、背に腹は代えられない。

「ちょっと部屋に忘れ物」

誰も反応しない。テレビの笑い声だけが、私の背中を見送った。

   *

階段を上がった瞬間、空気が変わった。

一階の暖かさが嘘のように、頬を刺すような冷気が肺に流れ込む。廊下の電気をつけると、蛍光灯が何度か明滅してから、ようやく青白い光を放った。

自分の部屋ーーといっても、もう何年も使っていない元・子供部屋――のドアを開け、机の上に放置してあった充電器を掴む。

よし、これで一階に戻れる。

かかとを返し、廊下へ出た。

その時だった。

ガサッ。

ズズ……。

廊下の突き当たりから、何かを引きずるような音が聞こえた。

雪が屋根から落ちる音だろうか。

違う。あれは外からではない。明らかに家の中、それも廊下の奥からする。

家鳴りか。

古家だし当然だと思った。雪の重みで柱が軋むことはよくある。

そう自分に言い聞かせたが、音は止まなかった。

ズズ、ズズ……。

まるで、濡れた段ボール箱を畳の上で引きずっているような、粘り気のある音。

廊下の突き当たりにあるのは、祖父の書斎からだ。

祖父が亡くなって三年。母は「落ち着いたら片付ける」と言いながら、結局あの部屋には誰も手をつけていない。

もしかして、ネズミでも入り込んだのだろうか。

それとも、雪で家が歪み、中の荷物が倒れたのか。

放っておけばいい。

頭ではそう思った。

だが、もし遺品が荒らされていたら、母が悲しむ。

そう自分に言い訳をしてーー今思えば、あれは言い訳に過ぎなかった――私は書斎のドアノブに手をかけた。

   *

ドアを開けた瞬間、鼻を突く匂いがした。

線香と、カビの匂い。

窓は閉まっている。鍵もかかっている。

なのに、まるで数分前まで誰かがここにいたかのような、生温かい気配が部屋の中に漂っていた。

月明かりと、窓の外で降り続ける雪の反射で、部屋の中は不自然なほど明るかった。青白い光が、祖父の遺品を照らし出している。

机の上には、中身の抜けた補聴器。

壁には、半分だけ宛名が書かれた年賀状。

本棚には、背表紙の色褪せた文庫本。

すべてが、三年前のまま止まっていた。

音はもう聞こえない。

静寂。

ただ、窓の外で雪が降る音だけが、耳の奥でシュルシュルと響いている。

その時、視界の端に映ったものがあった。

部屋の隅に置かれた、大きな鏡台。

祖母が使っていた古い三面鏡。

鏡の中に、自分の姿が映っている。

暗い廊下を背にした、こちらを見つめる私。

そして、その背後――

開け放したはずの襖の隙間から、何か白いものが見えた。

最初は、服の糸屑が襖に引っかかっているのかと思った。

だが、それは動いていた。

ゆっくりと、這い出してくるように。

一本、また一本。

白い、細長い、指。

いや、指ではない。指の「」だけ。

第一関節から先しかない、不完全なそれが、襖の隙間から無数に這い出してくる。

心臓が口から飛び出しそうになった。

振り返る。

現実の襖を見る。

誰もいない。

何もいない。

ただの、薄暗い襖の隙間があるだけだ。

ゆっくりと、もう一度鏡を見る。

鏡の中では、あの「指」の数が増えていた。

判別できるだけで数十本、数えきれないほどの白いそれが、私の背後から這い出し――

《縺薙▲縺。縺ォ来い》

視界の縁から集合体が迫ってくるのが見えた。

《縺薙▲縺。縺ォ来い》

そして、私の肩に触れようとしていた。

   *

階段を転げ落ちるように、一階へ逃げた。

居間に飛び込むと、テレビからは相変わらず下品なまでの笑い声が流れている。

お茶の匂い。

暖房の温かさ。

父のビールを注ぐ音。

そのすべてが、耳に刺さるほど鮮明で、同時にこの上なく愛おしかった。

「どうしたの、顔色悪いよ」

母が心配そうに声をかけてくる。

「……ちょっと寒くて」

それだけ言って、私はソファに座った。

言えなかった。

言ったところで信じてもらえない。

それ以上に、口に出した瞬間、あの「何か」が実在してしまうのが怖かった。

テレビの笑い声だけが、部屋に響いている。

私は、二階を見上げることができなかった。

その日は、一階で寝た。

   *

翌朝。

雪は止んでいた。

窓の外は眩しいほどの快晴で、積もった雪が朝日を反射して、家の中まで白く照らし出している。

母が作った雑煮の湯気が、居間に優しく立ち上る。

「今日は良い天気だね」

父が新聞を読みながら言う。

「新幹線、混むだろうなあ」

妹がスマホを見ながら呟く。

ごく普通の、年末の朝。

昨夜の恐怖は、ひどい寒暖差が見せた幻覚のように思えた。

あれは夢だったのかもしれない。

そう思いかけていた。

   *

帰る時間が近づき、荷物をまとめに二階へ上がった。

明るい陽光の中では、二階の廊下もただの古い廊下に過ぎない。

部屋に入り、鞄に充電器を詰め込む。

ふと、廊下の奥が気になった。

書斎。

昨夜、あれほど恐ろしかった部屋。

今は、ただの物置にしか思えない。

確認しておこう。

そう思って、もう一度書斎のドアを開けた。

陽の光が差し込む部屋。

遺品たちは、昨日と変わらずそこにある。

そして、鏡台。

鏡の表面を見る。

最初は、ただの汚れかと思った。

誰かが触ったような、指紋のような跡が、鏡の表面にびっしりとついている。

「……掃除してないからな」

そう呟きながら、顔を近づけた。

その瞬間、全身の毛穴が逆立った。

それは人間の指紋ではなかった。

一つの手形に、指が無数にある。

細長く、関節の位置がおかしい指の跡が、鏡の端から端まで、まるで内側から外へ出ようと暴れたかのように、何層にも重なり合っていた。

鏡の表面を、無数の「手」が叩き続けた痕跡。

《縺薙▲縺。縺ォ来い》

それは、内側から。

あちら側から。

私の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。

   *

雪が溶ければ、境界線はまた引き直される。

生者の世界と死者の世界は、再び分かたれる。

だが、一度薄くなった境界線は、すぐには元に戻らない。

雪の降る日は、鏡を布で覆っておいたほうがいい。

あちら側には、指の数も、倫理も、私たちとは違う住人が溢れているのだから。

そして彼らは、いつもこちら側を――

数えている。




というフィクションです。
普段はこんな感じのホラー小説を書いてます。

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椿 喜介 ありがとうございます😭