エッセイ|10万字を削除した夜──余白という名の恐怖を学ぶまで
完成した。
10万字のホラー小説。
主人公は、古い洋館で一人暮らしを始めた女性。
夜ごと、壁の中から子どもの泣き声が聞こえる。
彼女は壁を壊し、真実を探す──。
私はこの物語に半年を費やした。
恐怖の描写を丁寧に積み重ね、伏線を張り巡らせ、クライマックスで全てを回収した。
完璧だと思った。
友人に読んでもらった。
返ってきた言葉は、「説明が多くて、疲れる」だった。
その一言で、半年分の人生が崩れ落ちた。
早朝の執筆、休日のすべて、推敲を重ねた無数の夜。
それらが、たった九文字で否定された。
2025年4月
何が間違っていたのか、わからなかった。
私は壁の中の秘密を、読者のために丁寧に書いた。
たとえばこんな風に。
「壁の中から聞こえる泣き声の正体は、100年前にこの洋館で亡くなった少女の霊だった。彼女は母親に虐待され、壁の中に閉じ込められて餓死したのだ。だから今も、彼女は──」
すべて、読者を怖がらせるために書いた。
でも、誰も怖がらなかった。
原稿を開くたびに、自分の文章が嫌いになった。
朝4時に目が覚めて、ベッドの中で天井を見つめた。
布団から出られない。
パソコンの前に座れない。
コーヒーを淹れても、カップを持つ手が震えた。
それでも、書き直すことにした。
なぜなら、10万字を書いた時間は消えても、その過程で掴みかけた何かは、まだ私の中にあるはずだから。
2025年5月
書き直しながら、私はようやく気づいた。
私は、恐怖を説明しすぎていた。
壁の中に何がいるのか、なぜ泣いているのか、その正体は何なのか──すべてを語り尽くしていた。
読者の想像する余地を、一つも残していなかった。
ホラーは、余白で生まれる。
語られない真実こそが、人を怖がらせる。
私は、壁を壊すシーンを削った。
主人公が真実にたどり着く場面を削った。
泣き声の正体を、最後まで明かさないことにした。
「壁の中から、泣き声が聞こえる。それだけだった。」
削れば削るほど、物語が怖くなった。
でも、不安だった。
削りすぎたのではないか。
読者は意味がわからないのではないか。
私は何度も、Ctrl + Z(元に戻す)を押しかけた。
指先が、その誘惑に負けそうになって、震えた。
2025年7月
書き直した原稿を、別の友人に見せた。
「これ、めっちゃ怖い」
その瞬間、削除ボタンを押した意味がわかった。
たった一言で、十分だった。
私が半年かけて積み上げた10万字より、削ぎ落とした6万字の方が、確実に怖かった。
量ではなく、質だった。
情報ではなく、余白だった。
その時、私は理解した。
物語において真に恐ろしいのは、壁の向こうで泣いている「声」ではなく、なぜ泣いているのかを説明されないまま、ただ聞き続けなければならない「時間」なのだと。
説明は、恐怖を殺す。
余白は、恐怖を生かす。
10万字を書いた経験は、無駄ではなかった。
あれがなければ、何を削るべきかもわからなかった。
失敗の10万字が、成功の6万字を生んだ。
2025年11月
今年、私が学んだこと。
それは、「創造とは、付け加えることではなく、取り去ることだ」という、あまりにも痛い真実だった。
そしてこの真実は、創作以外の「学び」にも通じる。
私たちは何かを学ぶとき、つい情報を積み上げようとする。
もっと知識を、もっと説明を、もっと根拠を。
でも、本当に必要なのは、何を残すべきかを見極める目だ。
10万字は、6万字を書くための授業料だった。
そして6万字も、次の4万字のための授業料になるだろう。
私は今も書いている。
今も削っている。
そして今も、怖がらせることに失敗している。
でも、それでいい。
なぜなら、その失敗もまた、次の物語のための授業料だから。
削除ボタンを押した、あの夜。
私は自分の指で、血と汗の結晶を消し去った。
その瞬間、私の中で何かが壊れ、新しい何かが静かに生まれた。
私はまだ、壁の中の泣き声を聞いている。
今度は、説明しない。
ただ、あなたの心の中にある「説明のつかない泣き声」に、静かに耳を澄ませる物語を書きたい。
壁の向こう側で、何かが泣いている。
それだけで、読者は十分、怖がるだろう。
(了)
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