楽と楽しいは赤の他人
タッチパネル式、近頃はどの店に入っても、これしか見かけない。
年寄りには不評だ。ついていけない、と嘆く声もよく聞く。実家の両親も、コーヒー一杯を頼むだけで疲れる、とこぼしていた。
しかし慣れてしまえば、これほど楽なものはない。画面を指でなぞるだけで注文は完了する。店員と目を合わせる必要もなければ、愛想笑いを作る必要もない。
人と接するのが苦手な人間にとって、この機械的な沈黙はむしろありがたかった。余計な会話をせずに済む。余計な気疲れを背負わずに済む。それだけで、世界はいくらか生きやすくなる。
考えてみれば「楽」という字は妙なものだ。
「楽しい」の楽でもあり、「楽をする」の楽でもある。この二つを最初に同じ字に押し込めたのは、いったい誰なのか。
だが実際には、双子どころか赤の他人だ。
楽だから楽しいわけではない。楽しいからといって楽なわけでもない。
山に登る人間が「楽だから登るんだ」と笑ったなら、こちらはどこか裏切られた気分になる。息を切らし、足を震わせ、何度も引き返しかけながら、それでも頂上を目指す。そういうものだと、誰もが勝手に思い込んでいる。
楽しみながら山に登る者はいても、楽をして登る者には物語が足りない。それを許せるだけの余白が、こちらの中にないのだ。
もしかするとそれは山の話ではなく、苦労の先にしか本物はないと信じたい、僕ら自身の話なのかもしれない。人は気づかぬうちに、そういう古い迷信に縛られて生きている。
昼になり、近所のマクドナルドへ足を運んだ。平日の地方都市とあって、店内は閑散としていた。
入口の先で待っているのは店員ではなく、一枚の光る板。注文も支払いも、その無機質なガラスの向こうで完結する。
スマイル0円を求める人間には、味気ない時代になったものだ。作り笑いという名の社交辞令を財布にしまったまま、バーガーだけを受け取れる。そんな時代を、案外気に入っている自分がいた。機械には愛想笑いがない。だからこちらも、愛想笑いを返さずに済む。
人間より先に、機械のほうが人見知りを理解してくれた。そういうことらしい。
慣れた指先でエビフィレオのセットを選ぶ。サイドはポテトとアイスコーヒー。画面を二、三度なぞり、カードをタッチすれば、それで昼食の約束は成立する。
番号札だけを手に、席へ向かった。
二分と経たないうちに、エビフィレオは静かに目の前に置かれた。
あまりにも滞りがない。あまりにも無駄がない。味気ない、とつぶやこうとした言葉さえ、口に出る前に置き去りにされる。そんな静けさがそこにはあった。
まるで時間そのものが、人間のためらいを邪魔者扱いしているようだった。
運んできた店員の顔は、思い出せなかった。
ほんの数分前の出来事だというのに、記憶に残っていない。視線はずっとスマートフォンのニュースアプリに向いていた。いや、正直に言えば、顔を合わせたくないからこそスマホを見ていたのだ。だから相手が男だったのか女だったのかさえ、今となっては曖昧だった。
トレイからポテトを一本つまみ、口へ運ぶ。その瞬間、すべてが崩れた。
揚げたてではない。時間が経っているのだろう。歯を立てても、軽やかな音は返ってこない。CMで見るような、折った瞬間に湯気が立ちのぼるポテトとは、まるで別物だった。代わりに、湿った油が舌にまとわりつき、べたついた不快な感触だけが残る。
時間は、熱よりも先に食べ物の誇りを奪う。残酷なことだ。
画面は注文を正確に受け取ったが、「揚げたてでお願いします」という、ほんのひと言までは拾ってくれない。
カウンター越しに店員と向き合っていた時代なら、その一言は自然に口から出ていただろう。そんなことを考えながら、行き場のない苛立ちとともに、湿ったポテトを口へ押し込んだ。腹は満たされても、心は満たされない。
冗談じゃない。
だからタッチパネルは嫌いなんだ。
楽でもなければ、楽しくもない。
