光秀を討つ 第五話
第五話 炎の前夜 ――濃姫の記
あの人は、よく火を見つめていた。
薪の音が弾けるたびに、眉をひそめ、目を細める。
時折、何かを問うように火に語りかけることもあった。
「火というのは、面白い。焼くくせに、照らす。照らすくせに、影を深くする」
私には、その意味がわからなかった。
けれど、ただ黙って、湯を差しながら、その横顔を見つめていた。
一 政略の娘
私は美濃の斎藤道三の娘として生まれた。
父は油商人の成り上がりで、己の力を信じる者だった。
そんな父が選んだ政略の道――それが尾張の織田信長との縁組だった。
嫁ぎ先で見た信長は、噂とは少し違っていた。
「うつけ」ではない。むしろ、他の者には見えぬものを見ている目をしていた。
冷たいとも違う。熱いとも違う。
燃え盛る炎の芯のように、静かで、けれど触れれば火傷するような――そんな人だった。
私は最初から、この男を愛するとは思っていなかった。
ただ、理解したいとは、思った。
二 本能寺の日々
本能寺に滞在することは珍しくなかった。
信長は京に出るとき、時折私を伴った。
表向きには“妻としての同行”だが、実際には、彼が“記憶を共有する者”として私を置きたがったように思う。
あの人は、一人ではなかった。だが、孤独だった。
光秀、秀吉、家康――家臣たちは皆、有能であったが、彼の心を覗ける者はいなかった。
家臣に心を見せれば、弱さと取られる。それを彼は誰より知っていた。
だからこそ、私は言葉を慎んだ。
問いたださず、笑わず、肯定もせず。
ただ、そこにいることを続けた。
「濃……おぬしは、変わらぬな」
時折、そう言って笑うことがあった。
その笑みに、私はわずかに救われたような気がした。
三 光秀の足音
本能寺の庭に、新しい木を植えることになった。
信長の命ではなく、光秀の進言だった。
「これよりは、日差しも強くなりましょう。御屋形様の読書の邪魔にならぬよう、日陰を作ります」
そう言って植えられた木が、今思えば、どこか冷たかった。
信長は頷いたが、目を細めていた。
「光秀は、よく働くな」
「はい、賢い方です」
「賢すぎるのは、時として業病よ」
私はその一言の意味を、すぐには理解できなかった。
けれど、それが恐れだと気づいたのは、数日後のことだった。
四 伊賀の炎と夢
ある夜、信長は私の寝所に来た。
珍しいことだった。
「濃、儂は伊賀を焼いた」
「存じております」
「子も、女も、焼いた。……光秀の母も、伊賀の出だ」
「……」
「儂が焼いたものは、村ではなく、“帰る場所”だったのかもしれぬな」
そのとき、私は初めて、信長が“人を焼いた”ことを悔いていると知った。
いや、悔いているのではない。ただ、“記しておこう”としていた。
信長にとって、世界は常に“動かす”ものだった。
だが時に、それが“壊す”ことでもあると――彼はうっすらと気づいていたのかもしれない。
五 最後の茶
本能寺にて、最後の夜。
私は、信長に茶を点てた。
彼はいつものように、それをすすった。
そして、静かに言った。
「おぬしにだけは、残っていてほしい」
「私は、どこにも参りません」
「違う。生きて、記せ。……わしが、何をしたかを」
私は頷くことができなかった。
それが“遺言”に近いものであると、どこかで感じていたからだ。
夜が更け、灯りが揺れた。
その顔を見ながら、私は思った。
この人は、誰よりも火を恐れず、火に焼かれることを望んでいたのかもしれない。
六 朝の煙
朝、鳥の声がしなかった。
空は重く、灰色の雲が流れていた。
そして――炎が上がった。
本能寺の一角から、煙が立ち昇ったとき、私はすべてを悟った。
信長は、燃える道を選んだのだと。
敵は誰か。理由は何か。そんなことは、もはや関係なかった。
あの人は、自らの最後を“火”に託したのだ。
私は、炎に包まれた庭を背に、寺を出た。
誰にも気づかれず、誰にも呼び止められず、私は“影”のように消えた。
七 語らぬ者の記録
私は今も生きている。
名を隠し、姿を変え、ただ静かに暮らしている。
秀吉が天下人となるのを見た。光秀が語られる“逆臣”になったのも知っている。
だが私は、語らない。
信長が本当に何を望んでいたか、それを記すことも、語ることも、許されないと感じている。
ただ、忘れぬ。
あの火の色、茶の香、そして――
「おぬしにだけは、残っていてほしい」
その言葉だけが、今も胸に灯っている。
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