蘭丸、再び 第四話
第四話 茶の湯の記憶
慶長元年の春、伏見城下にて。
黒田家に、一通の招きが届いた。
主催は太閤・豊臣秀吉。催されるは、千利休による「月下の茶会」。
その名が添えられただけで、諸将は緊張を顔に浮かべた。
黒田官兵衛は病と称し、若き長政を代参させることにした。
出立の夜、栗山利安が声をかけてきた。
「話すな、とは言わぬ。ただ、“問われねば語るな”とだけ申しておこう」
「心得ました」
私はうなずいた。
そのとき栗山は、ふと真顔で続けた。
「この世には、“語ることで人を動かす者”と、“語らぬことで世を動かす者”がいる」
「……語らぬことで、世を?」
「話さぬのではない。沈黙の中に語る者だ。利休は、そういう男よ」
その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。
だが、茶室に入ったとき、私はようやく“それ”を知ることになる。
◇
茶室「時雨庵」は、伏見の町から離れた小高い丘に建てられていた。
月光の射す薄明かりのなか、白砂が静かに光り、庭の飛び石が水墨画のように並ぶ。
草履を脱ぎ、にじり口をくぐると、茶の香りが鼻をくすぐった。
それはどこか懐かしく、胸の奥に触れる匂いだった。
主座に座す男が、静かに顔を上げた。
千利休――それが、初めて見る“語らぬ者”の姿だった。
痩身。白髪まじりの髷。
黒の無紋の衣をまとい、目はやや伏しがち。
何も言わず、ただ湯の音と香の中に座している。
秀吉はすでに到着しており、笑顔で諸将に挨拶を交わしていたが、利休にだけは、何も言わなかった。
利休も、何も言わなかった。
だが、その沈黙は、言葉よりも重く、誰の空気よりも支配的だった。
私は一礼し、座に就いた。
茶が点てられる。
所作は静かで、無駄がない。
湯を注ぐ音、茶筅の震える音、そして香。
──その香りが、私の胸を突いた。
喉の奥がかすかに熱を帯びる。
記憶の扉が、わずかに軋んで揺れた。
「この香……」
思わずつぶやいていた。
それを、利休が聞いていたかはわからない。
ただ、わずかに目が動いたようにも見えた。
◇
第四話 茶の湯の記憶(後半)
茶の香が、再び鼻腔を満たす。
湯の音が、耳の奥でゆらめく。
不意に、私は“あの夜”の空気に包まれていた。
襖の向こう、火が走った音。
畳にこぼれた茶の緑。
崩れる白い袖、倒れる影、鉄のにおい、香の煙。
「殿……」
自分の声が、遠くから響いた。
目を開けると、私はまだ茶室にいた。
だが、その一瞬で、胸の奥の何かが軋んだ。
利休は、私を見ていた。
何も語らず、ただひとつ、湯をひと啜りした。
その所作が、どこか奇妙に感じられた。
いや、異様だった。
何かを伝えている。
いや、何かを伏せている。
語らぬということが、これほどまでに重く、濃く、沈むものなのかと、私は息を詰めた。
◇
茶会が終わると、庭先に利安が立っていた。
「……あれが、利休殿ですか」
私は問うた。
利安はうなずいたあと、ふと遠くを見ながら言った。
「昔、あの男が秀吉殿にこう言うのを聞いたことがある」
「なんと?」
「ち。お。さんずい。が、成就した。──そう、言った」
「……それは?」
「意味は、わからぬ。ただ……なぜか、その言葉だけが耳に残ってな。今でも忘れられぬ」
私は、胸の内にざわりと何かが走るのを感じた。
“ち”。“お”。“さんずい”。
まるで、何かを伏せて、何かを暗示する、そんな言葉だった。
利安は首をかしげたまま、ゆっくりと背を向けた。
「語らぬ者ほど、厄介なものはない。……そう思ったのは、あの夜が最初だった」
私は立ち止まり、夜空を見上げた。
月は、音もなく、ただ白かった。
茶の香が、風に紛れて消えていった。
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