一日置きの彼女 第5章「声」後編
「殺したのは、私ではない私。」
「声」④
「違う……違う……違うの!」
冴子が突然、椅子から立ち上がる勢いで叫んだ。
声は思ったより大きく、面会室の天井に響いた。
「やめてって言ったじゃない!」
鋭い声に、面会室の空気が裂けたように感じた。
高山は無言で座ったまま、冴子の目を見ていた。驚いた様子はなかったが、その顔はわずかに強張っていた。
冴子は自分の腕を抱きしめるようにして、肩を震わせている。
「裕二はいたのよ! 確かにいたの!」
その言葉の背後から、まるで場面が切り替わるように、冴子の脳裏にいくつもの情景が押し寄せていた。高山の目の前にいる冴子ではなく、どこか遠い記憶の中にいる冴子が、それらを見ていた。
◇◇◇
――深夜のコンビニ。レジ袋を持った男の背中。
のぞみの手を引いて、一緒に家に帰る途中だったはず。
照明に照らされたその人影は、笑っていた。
でも、その顔は、どうしても思い出せない。
◇◇◇
――ベビーカーを押すのは自分ひとりだった。
振り返っても、誰もいなかった。
でも、「あなたがいてくれて助かった」と、誰かに言った気がする。
声は、誰のものだったか。
◇◇◇
冴子は両手で頭を抱えた。
「わたし、必死だったのよ……。のぞみを一人で育てて、仕事もして……夜泣きもあって、怒鳴られたり、無視されたり、全部一人で耐えてたの……」
目の焦点は合っていなかった。
「ごはん、つくって。洗濯して。笑って。ちゃんとお世話してるのに、『母親失格』って言われて……」
高山は一切言葉を挟まなかった。ただ、静かに見つめ続けていた。
冴子はふらふらと歩き、面会室の壁にもたれかかった。
「わたし、悪くない……! 精一杯やってた! ……でも、でも……わたしが、ちょっとだけ目を離したときに──」
呼吸が荒くなり、口元が引きつった。
「のぞみは、いなくなったの!」
沈黙。
その静寂のなかで、冴子の声が低く、抑えきれない激情を孕んで、絞り出された。
「のぞみは──死んだの! 誘拐されて、殺されて、バラバラにされて、排水溝に捨てられたの!」
その言葉は、爆弾のように落ちた。
部屋の空気が止まった。
時間が動くのをやめたかのようだった。
高山は、言葉を失っていた。
冴子は、何かを言いかけたが、声にならなかった。
唇だけが震え、涙が一筋、頬を伝って落ちた。
「見つかったのは……髪の毛と、小さな指だけだった……」
その場に座り込み、膝を抱えた冴子の姿は、あまりに小さく、痛々しかった。
高山は、椅子の背もたれに寄りかかりながら、天井を見上げた。
無言だった。
ただ、呼吸だけが重く、部屋を満たしていた。
面会室の空調の音すら、消えているように思えた。
凍りついたような静けさだった。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
いま、この場にいるのは、「冴子」と「高山」──
それだけのはずだった。
なのに、もうひとつ、何かがそこにいるような気配がした。
言葉にならない、名のない何か。
それは、冴子の声の中に宿っていた。
「声」⑤
「……冴子さん」
そう声をかけたつもりだった。
しかし、それが自分の口から出たものなのか、自分の耳が捉えた幻聴なのか、判断がつかない。
高山は座ったまま、じっと冴子を見つめていた。
しかしその視界は、かすかに揺らいでいた。
冴子の姿が、霞んで見える。
いや、それだけではない。
どこかで聞いたことのあるような声が、耳の奥で囁いた。
「──のぞみなら、笑ってたよ」
誰の声だ。
のぞみ?
いや──これは、自分の声だ。
「のぞみは、そんなこと、言ってない」
高山はそう思った。
思ったはずだった。
けれど──
その瞬間、冴子がゆっくりとこちらを振り返った。
涙の跡が残る頬に、淡く光が射し込んでいる。
そして──口元が、ほんのすこし、歪んだ。
その表情を見たとたん、背筋が凍った。
鏡を見るようだった。
冴子の顔の輪郭が、ほんのわずかに、自分と重なって見えた。
高山は反射的に面会室の壁に設置された小さな鏡を見た。
そこに映っていたのは──冴子だった。
彼女が、こちらをじっと見つめていた。
鏡越しに。
──いや。
あれは、自分の顔だった。
自分が、冴子の顔をしていた。
「……なんだこれは……」
唇が震え、言葉にならない音が喉から漏れた。
床が、傾いた。
立ち上がったわけでも、歩いたわけでもないのに、視界が斜めになる。
面会室の空間そのものが、ゆっくりと傾き始めていた。
目を閉じると、強い浮遊感に襲われた。
重力が狂っていた。
心が、体の奥から沈んでいく。
何かに、深く引きずられていく感覚。
──沈む。
この場所ごと、自分ごと。
ふいに、日記が目の前に落ちていた。
冴子が差し出した、あの赤いノート。
拾おうとしたその瞬間、表紙の端がめくれていた。
高山は、思わず指をかけた。
めくったページには、文字が並んでいた。
震えた文字。
くり返される「のぞみ」の名前。
そして──最後のページ。
そこに書かれていた一文を見て、高山は凍りついた。
「今日、私はのぞみを殺した。」
目が眩んだ。
一瞬、光が強すぎて、視界が白く染まる。
頭の中に、冴子の叫び声がこだまする。
「──違う、違うの!」
また聞こえた。
それは冴子の声のはずなのに、自分の声に聞こえた。
耳をふさいでも、止まらない。
声はどんどん大きくなり、やがて怒声に変わっていった。
そのとき、高山は気づいた。
その声を、これまで何度も、夢の中で聞いていたことを。
何度も──何度も──
あの声で、自分を責めていたことを。
「どうして、見ていなかったの?」
「なぜ、守れなかったの?」
誰が。
誰を。
──私だ。
私が、冴子だった。
のぞみの母親だった。
高山は、自分の名を言おうとした。
けれど、言葉にならなかった。
鏡の中の自分が、ゆっくりと微笑んだ。
まるで、ようやく思い出せたね、とでも言いたげに。
床は完全に沈んだ。
まるで深海のように、音も光も消えた空間へ。
そして、最後に脳裏に浮かんだのは、
白いワンピースを着て、振り向いたのぞみの姿だった。
「──ママ、どこ?」
その問いに、高山──いや、冴子は、何も答えられなかった。
──────
───
─
私が誰だったか、今も思い出せない。
完
★創作大賞2025ミステリー小説部門にエントリーしています。
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