光秀を討つ 第十話
第十話 山崎の戦い
前編
六月の湿った風が、兵たちの間をすり抜けていった。
山崎の地に陣を敷いた我らの軍は、戦を目前にしているはずだった。
しかし、空気は奇妙に澄み、重くもなければ殺気立ってもいなかった。
まるで、すでにすべてが決まっている戦場に、ただ向かっているような気がした。
一 語りが先にある
「信長様の仇を、必ずこの手で討ち果たす!」
豊臣秀吉の号令が高らかに響き、兵たちは声を上げた。
怒り、忠義、名誉――さまざまな思いがその声に乗り、空へと放たれた。
だが私は、その整いすぎた声の波の中に立ち尽くしていた。
黒田官兵衛として、語りが現実を先導しているという不穏さを、ひしひしと感じていた。
誰も、疑ってはいなかった。
信長を討ったのは光秀。討つべきは光秀。正義の名のもとに。
――だが、その正義は、果たして誰の口から生まれたものか。
二 静かなる疑念
私は、密かに密偵を放っていた。
狙いはただひとつ、明智光秀の血筋――特に「伊賀の血を引く」とされたその出自の検証である。
秀吉様が語った構図があまりに完璧すぎるためだ。
信長の伊賀攻め。
それにより家族を失った光秀が、復讐の念に駆られた。
この語りは、確かに兵と民の心を動かす。だが、事実かどうかが不明瞭なまま広まっている。
もしこの戦が、語られた物語の上に構築されているとすれば――
それはすでに、“語られた勝利”として書かれてしまっている。
三 戦なき道
進軍は滞りなく進んだ。
だが、滞りなさすぎた。
敵の斥候は見当たらず、進路に罠も伏兵もない。
まるでこちらの動きが読まれているかのように、何一つ抵抗を受けなかった。
「……おかしい」
蜂須賀小六が小声で言った。
「道が、用意されておるようじゃ」
私は頷いた。まるで我らの進軍が予定調和であるかのような、整った道のりだった。
四 光秀の陣へ
やがて辿り着いたのは、明智光秀の本陣とされる屋敷だった。
門は閉ざされていたが、門番の姿はなく、応じる者もいない。
命を受けた兵が突入すると、やがて報告が戻ってきた。
「兵の姿、まったく見えませぬ」
中は、しんと静まり返っていたという。
戦の場にあるはずの気配――緊張、守り、覚悟――
そのすべてが、そこにはなかった。
五 戦の影のなさ
私も屋敷に入った。
庭には足跡がなく、廊下には風が吹き抜けるだけ。
道具の一つひとつに、生活の気配すら薄い。
もはや、戦う意志を示す者は、最初からここにはいなかったのではないか――
そう思わせる空虚さだった。
「……殿」
戻ってきた兵が告げた。
「ひとつ……なきがらがございました」
六 語られるべき結末へ
胸が、すうっと冷えた。
まだ焼かれてもいない屋敷、静まり返った戦場、そして誰にも守られなかった主の遺体。
これは戦ではない。
これは、語られるべく仕組まれた“結末”の場だ。
私は、いまだ戻らぬ密偵からの報せを待ちつつ、
この場に立って、確信に近い思いを抱いた。
――この戦は、始まる前から「勝利」として語られていた。
だとすれば、敵はもはや“討たれる”ことをも望まれていなかったのではないか。
第十話 山崎の戦い
後編
屋敷の奥の一室。
風の流れを遮る格子の間に、ひとつのなきがらがあった。
斬られた形跡はなく、腹を割くようにして死んでいた。
血はすでに乾き、肌には虫がたかっていた。
一 光秀の最期
「……死後、三日は経っておりますな」
蜂須賀小六が屈み込み、なきがらに目をやったまま、低く言った。
私もひざを折って顔を伏せた。
この死に方は、武将としての死ではなかった。
戦場で討たれたのではなく、すでに死んでいた者が“討たれたことにされる”場所へ運ばれてきたような――そんな違和感が、強くあった。
ここには、戦の名残も、抵抗の痕跡もない。
ただ、ひとりの男の、終わった命だけがあった。
二 火を命ず
「……焼け」
秀吉様の声がした。
私は顔を上げた。
その命令は、大声でもなければ、怒気もなかった。
ただ、語る者としての“終幕の演出”に過ぎなかった。
兵たちは黙って火を放ち、油を撒き、焔が屋敷を包んだ。
夜空に昇る煙は、ただの煙ではない。
語られた歴史を固める“演出の火”だった。
三 密偵の報せ
その夜遅く。
私のもとに、密偵が戻った。
「報告いたします。明智光秀の母は、伊賀の者ではありませぬ」
「――ほう」
「尾張の地侍の娘にございます。伊賀とのつながりも、記録にはございませぬ」
私はゆっくりと目を閉じた。
「……では、秀吉様が語られた“伊賀への復讐”は、作られたものか」
「恐らくは……」
それ以上、私は何も問わなかった。
事実が語られたのではない。
語られるべき筋書きが、事実に“されていた”だけだった。
四 火の跡に立つ者
翌朝、私は焼け跡に立った。
柱は崩れ、瓦は崩れ落ち、跡地にはもう、何もなかった。
あの場にいた光秀のなきがらも、もう灰になっていた。
だが、私は覚えていた。
その死が、誰かに語られるために、どこかで整えられていたことを。
そして、その語りが、勝利を導いたのだということを。
五 語らぬ者、記す者
秀吉様は火の前に立ち、ひとことも発さなかった。
その背中は、勝者のそれだった。
語った者として、最後まで語り切った者として――彼はもう、語らなくてもよい立場にいた。
私は、筆を取った。
「敵、抵抗なくして死す。死後数日。屋敷、焼かる。語り、勝利を導く」
これは誰に見せる記録でもない。
ただ、語られなかった真実が、たしかにここにあったという証を残すための一行である。
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