光秀を討つ 第四話
第四話 火と影の昔語り
山崎の野に、湿った風が吹いていた。
翌朝、軍は動く。豊臣秀吉、明智光秀――いずれかが、炎のごとく討ち果たされる。
それを目前に控えながら、私は主の隣で静かに湯を沸かしていた。
「黒田よ、火は好きか?」
不意に、秀吉公がそんなことを言った。
「好きも嫌いも、ようわかりませぬ」
「そうか。儂はな、火というものが好きでな。焼き尽くすくせに、残すものもある。灰にも、灯りにも、なる。人と似ておるよ」
私はすぐに察した。
今夜は、過去を語る夜なのだ。
一 若き秀吉
初めて秀吉公に出会ったのは、まだ信長公の天下が遠くに霞んでいた頃だった。
彼は百姓出ながら身軽で、周囲の大名の将たちとはどこか空気が違っていた。無理に威張ることもなく、笑いながら本音を隠すような男だった。
ある時、彼の兵が木陰で火を使って乾飯を炙っていたのを、信長が咎めたことがある。
「火は敵に見られる。貴様ら、戦の理も知らぬのか」と。
その夜、秀吉は叱られた部下の前で小さな火を焚いた。
そして言ったのだ。
「火は確かに目立つ。だがな、目立つ火の裏に、隠れた動きができる。戦とは、そういうもんだ」
私には、それがただの言い訳ではないとすぐにわかった。
彼は常に表の騒がしさの裏に、静かな意図を仕込んでいた。
そのときから、私は一つ学んだ。
この男は、騒いでいる時ほど、何かを隠している。
二 甲賀と信長――密書の夜
「黒田よ、儂が“影”というものを初めて理解したのは、甲賀と出会った夜じゃ」
秀吉公は火の奥を見つめながら言った。
語り口は穏やかだが、声に揺らぎはない。
「信長様がな、儂に命じおった。“あの家老を消せ”と。討てではない、“消せ”じゃ」
「跡形もなく、ですか」
「名も、声も、血もな。痕跡ごと拭い去れ、という命じゃ。で、儂は甲賀の忍びを使った。四人で夜に入り、家老は翌朝には“初めから存在しなかった者”になっとった」
信長は何も問わなかったという。ただ一言。
『よい手際じゃ。忠義の仮面でもかぶせておけ』
「そのとき、儂はわかったよ。忠義とは、差し出すものじゃない。使うものなんじゃ」
彼はそう言って、笑った。
「儂とそなたも、甲賀の端くれよな」
「はい。父祖は“記す者”でございました」
「そりゃあ重い仕事じゃ。“見たこと”を“残す”とはな」
そのとき私は、自分が単なる記録者で終わってはならぬと感じた。
歴史は語る者が作る。語られぬ真実は、残らぬ。
そして、秀吉公は語る者になろうとしている。
私は、その語りに潜む“仕掛け”を見抜く者であろうと心に誓った。
三 伊賀と信長――炎の谷
「だが伊賀は違った」
秀吉の声が、少しだけ沈んだ。
天正七年。信長は二度目の伊賀攻めを命じ、二万の兵で谷を焼いた。
女子供も容赦なく、忍びの血を引くというだけで、斬られ、火をかけられた。
私はその戦に記録役として随行していた。
だが、何より記憶に残っているのは――光秀の背だった。
炎の前で、剣も抜かず、ただ立ち尽くしていた。
顔は凍りついていた。いや、凍りすぎて何も感じていないようにも見えた。
「明智殿……よろしゅうございますか?」
問いかけると、彼はわずかに頷いた。
「……よろしいわけがない。しかし、命は命だ」
のちに知った。あの谷には、光秀の母の実家があったという。
伊賀の名家。信長はそれを知っていた。だが、焼いた。
光秀も知っていた。だが、止めなかった。
その夜を境に、光秀は変わった。
静かに、ゆっくりと、だが確実に。
四 語りと策略
「光秀も、火を見て何かに気づいたのじゃろうな」
秀吉は湯をすすった。
「忠義というのは、結局、燃えやすいんじゃ。儂はな、芯を湿らせとる。だから焼けんのよ」
「火のそばにいる者は、焼かれる覚悟がいるかと」
「儂は火のそばにいるが、焼かれぬ方法も知っておる」
その目は静かだった。
「黒田、語るというのは、力よ。真実かどうかじゃない。人が納得できる話を“先に言った者”が勝つ」
「では光秀殿は、語られた者にすぎぬと」
「そうだ。だが、語られた者も必要だ。信長様が焼かれた。では、誰が火を点けたのか? ――答えねばならぬ」
「それが、真実でなくとも」
「真実は、後の者が書けばよい。儂は勝つために“今”を語る」
この男は恐ろしい。
だが、これほど現実を直視できる者を、私は他に知らなかった。
五 官兵衛の決意と影の指令
秀吉が立ち去ったあと、私は火の傍に一人残った。
帳の影に向かって小さく合図を送る。
密偵が現れ、膝をついた。
「件の者、京を離れ伏見へ。動き、早うございます」
「追え。“語った者”の裏に、影がある。語らせた者の存在があるかもしれぬ」
私は低く指示を出す。
「伊賀と甲賀、両方を探れ。火を“点けた”者と、火を“語った”者の足跡は違う」
密偵は頷き、闇へと消えていった。
私が記すべきものは、物語ではなく、語られなかった事実だ。
六 記録者の視線
私は筆を取り、こう書いた。
《信長公は、火にて討たれたり。されど火を点けた者、未だ定かならず。》
《秀吉様、物語を以て天下をつかまんと欲す。光秀殿は、その物語の“焚き付け”となりぬ》
《黒田如水、今より影にて動き、火の真を探らん》
焚火は静かに、灰となった。
私はその残り香の中に、信長が焼かれた夜の煙の匂いを感じていた。
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