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蘭丸、再び 第三話

第三話 黒田の子として



 朝の風は冷たかったが、剣を振るうたびに額から汗が滲んだ。

 「構えが甘い」

 背後からの声は、厳しいがどこか温もりがある。
 私は木剣を握り直し、正面の稽古相手に向き直った。

 名を「長政」と授かってから、三年が経っていた。

 屋敷の者たちは皆、私を黒田官兵衛の子として扱ってくれた。
 血のつながりがないことは明かされていなかったが、私は自分が“他所者”であることを、どこかで感じていた。

 それでも、学ぶべきことは山ほどあった。

 兵法、地理、和歌、弓術、乗馬。
 日々が、知ることで埋め尽くされていった。

 私は、強くなりたかった。

 なぜか――それはわからなかった。
 だが、心のどこかが、そう求めていた。

 ◇

 夕刻、庭に座して湯を飲んでいると、官兵衛が静かに現れた。

 「今日の構えは、昨日より少しだけ良かったな」

 その言葉が、どれほど嬉しかったことか。
 だが、私は笑わなかった。ただ一礼し、湯呑を置いた。

 官兵衛は隣に腰を下ろし、遠くの山並みに目をやった。

 「人は名を得て生きる。だが、名だけでは生きられぬ」

 「……はい」

 「おぬしは、“長政”という名でこれから歩む。だが、その中には“かつての誰か”が、確かに眠っている」

 その言葉に、私は一瞬、息を止めた。

 「忘れよとは言わぬ。思い出すなとも言わぬ。
 ただ――語らぬこともまた、力になる」

 私はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

 だが、官兵衛の横顔は、どこか寂しげで、そして、誇り高かった。

 「語れぬ者にしか見えぬものもある。
 おぬしは、いずれ、それを知るだろう」

 私は黙って頷いた。

 その夜、私は久しぶりに、夢を見た。

 炎。
 茶の香。
 崩れる柱。
 白い小袖。
 誰かの手。
 「逃げよ」と言った声。

 目が覚めたとき、手が震えていた。

 ◇

 その日、私のもとを一人の客が訪ねた。

 黒ずくめの衣に、控えめな所作。
 若くもなく、老いてもいない、どこか影を帯びた武士。
 それが、栗山利安であった。

 廊下に控えた私を見ると、彼は軽く目を細めた。

 「大きくなったな。……よう、生きていてくれた」

 私は、深く礼をした。

 「……あなたが、私を救ってくださったと」

 「そうだ。あの夜、本能寺で、おぬしを抱き上げたのは私だ」

 言葉を聞いた途端、胸の奥に沈んでいた“熱”が、音もなく膨らんだ。
 炎、煙、誰かの手のぬくもり――それは、確かに、あのときの感触だった。

 「名も、記憶も、戻らぬか?」

 私は首を振った。

 「夢は見ます。けれど……それが本当だったのかどうか、確信はありません」

 「それでいい」

 栗山は、膝をついて目線を合わせると、言った。

 「思い出そうとするな。忘れようともしなくていい。
 大切なのは、“残ったもの”を信じることだ」

 「……残った、もの」

 「そうだ。人は、生き残るだけで、何かを語る資格を得る。
 だが、語ってよいかどうかは、選ばねばならぬ」

 その言葉を、私は静かに飲み込んだ。

 「……私は、“語る者”なのでしょうか?」

 栗山は、少しだけ笑った。

 「語れる者ではある。だが“語るかどうか”は、おぬしが決めることだ」

 そのとき、遠くで鐘の音が鳴った。
 寺の時を告げる音が、やけに長く尾を引いた。

 ◇

 その夜も、私は夢を見た。

 白い小袖が、ゆっくりと倒れていく。
 その手を取ろうと伸ばす私の腕が、血で染まっている。

 火が襖を焼く音。
 柱が軋む音。
 誰かの声――「蘭丸」

 呼ばれた。
 確かに、呼ばれた。

 その声に応えようと、私は喉を開いた。

 だが、声は出なかった。
 煙が、茶の香が、私の胸を塞いだ。

 ◇

 目が覚めると、枕元に官兵衛がいた。

 「夢を見たか」

 私はうなずいた。

 「名を呼ばれました。“蘭丸”と」

 官兵衛は目を細めた。
 だが、何も驚かなかった。

 「そうか」

 「私は、その者だったのでしょうか」

 官兵衛は少し黙り、それから静かに言った。

 「その名が、おぬしの胸に残っているのなら――それが真実かもしれぬな」

 「……語っても、よろしいのでしょうか」

 「語ることは、時に刃となる。
 だが、誰かを守るために語るなら、それは“術”にもなりうる」

 私は、その言葉を、しっかりと胸に刻んだ。

 それからの日々、私は書を読み、人の話に耳を澄ませるようになった。
 剣と弓だけではなく、“語る力”とは何かを、自分なりに考え始めていた。

 生き残った者として、語るとは何か。
 沈黙のなかに宿る、言葉にならぬ想いとは何か。

 私はまだ名を思い出さぬまま、
 しかし確かに、森蘭丸としての“影”と向き合い始めていた。

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