見出し画像

光秀を討つ 第七話

第七話 影のゆらぎ

(前編)堺の崩れ


 堺の空は、いつもより少し霞んでいた。
 早朝の風が静かに茶屋の格子を揺らし、港町の活気がまだ目覚めぬまま、私は茶を一口啜った。

 信長様の命で、この地に滞在して数日になる。
 武将の鎧よりも、商人の声が幅を利かせるこの町には、戦の臭いがなかった。
 私はこの穏やかな空気のなかで、次の時代について思いを巡らせていた。

 その平穏は、突如破られた。

 「御屋形様――!」

 障子が荒々しく開け放たれ、使者が息を切らして駆け込んできた。
 顔は土のように青く、目は泳いでいた。

 「信長公が……本能寺にて……討たれたと――」

 時間が止まった。
 いや、心が一瞬で凍ったのだ。

 「本能寺が、燃えています……明智光秀公の謀反にございます……」

 私は茶碗をそっと置いた。
 わずかに揺れる茶の水面を見つめながら、頭の中で言葉を反芻する。
 信長様が、燃える? 討たれる? ――明智が?

静寂の破綻


 周囲はすぐさま騒然となった。
 警護の者たちは刀を抜き、家臣たちは自害の支度に動き始めていた。
 誰もが、これが“終わり”であるかのように振る舞っていた。

 だが私は、座したまま動かなかった。
 この報せは、あまりにも整いすぎている。

 なぜ、堺にまでこれほど速やかに伝わる?
 なぜ、敵の名がはっきりしている?
 なぜ、火なのだ?

 そして、なぜ――遺体が見つからぬ?

 あまりにも、都合がよすぎる。
 まるで、誰かに語ってほしいような“筋書き”ではないか。

家康、動かず


 「殿、お覚悟を!」

 近侍の一人が、短刀を差し出してきた。
 自害を促すその手は震えていた。

 私は、何も言わずにそれを撥ね退けた。

 「……まだ早い」

 声は冷たく響いた。

 「信長様が討たれた。それは事実かもしれぬ。だが、それだけでは足らぬ。
 誰が得をした? 誰が語った? 誰が火を点けた?」

 その問いに答えられる者は、いなかった。

影の決断


 私は静かに立ち上がった。
 壁の掛け軸が揺れていた。信長様が贈ってくれた書である。
 「天命を知る者は、動ぜず」

 私は、自らの天命を悟った。
 それは、死ぬことではなかった。
 “語られた真実”を、そのまま呑み込むことでもなかった。

 私は――生きて、確かめる。

 「すぐに支度をせよ。京を離れる。伊賀を抜け、三河へ帰る」

 その命令に、家臣たちは一瞬ためらった。
 だが、次第に全員の目が定まり、動き始めた。

炎の記憶


 出立の準備をしながら、私は脳裏に“火”の光景を思い浮かべていた。
 いや、私が見たのではない。
 誰かが、そう語った火の形――
 本能寺に立ち上る煙、燃え尽きた寺の柱、焼け残らぬ遺体。

 それは、事実ではなく、事実として語られた像だ。
 ならば、その像を描いた者こそが、この劇の作者であるはず。

 信長は死んだ。
 だが、その“死に様”には、まだ語られていない何かがある。

山へ向かう足音


 堺の町を離れ、私は山路へ向かった。
 風は冷たく、背には炎の幻影が残っていた。

 私は、生き延びねばならない。
 信長の死を、“誰が語ったのか”を見極めるために。

 沈黙は、やがて語りとなる。
 語られすぎた真実の隙間から、もう一つの物語が、ゆっくりと立ち昇ってくるのを待ちながら――。

第七話 影のゆらぎ

(中編)山の記憶


 雨上がりの道は滑りやすく、草の根がぬかるみに埋もれていた。
 山の奥、足を踏み入れたことすらないような古道を抜け、私は三河を目指していた。

 伊賀は危険だった。
 地侍、山賊、野伏、誰が敵か味方かも分からない。
 それでも、私は行かねばならなかった。信長の死に、“語られぬ理由”を感じていたからだ。

 そして私は、道中で思い出す。
 かつて私の前を歩き、あるいは佇み、あるいは笑っていた男たちのことを。

一 信長という“火”


 初めて信長様と対面したのは、十代の終わり。
 今川義元を桶狭間で討った直後、私の評価はすっかり変わっていた。

 「小僧と思っていたが、なかなか面白い男よ、徳川よ」

 そう言って、彼は私の肩を叩いた。
 威圧感、軽口、そして、あの目。
 すべてが“覇”だった。

 あの人には、決して正義などという言葉は似合わなかった。
 彼の思想に近いのは――焚き火だ。

 「焼いてしまえばよい。腐った木を残すな。新しきものは灰の中から生まれる」

 火は、道具であり、象徴だった。
 そしてそれは、彼自身の在り方でもあった。

 その彼が、まさか火に焼かれて死んだという。
 それは、あまりにも皮肉で、あまりにも象徴的で――あまりにも、出来すぎていた。

二 光秀という“間”


 明智光秀と初めて会ったのは、信長様の宴席だった。
 彼は寡黙で、酒の場でも声を荒げることはなかった。
 だが、目は笑っていなかった。常に、何かを測っていた。

 「家康様、義とは思慮と忠誠の中間にございますな」

 彼はそう言った。

 信長に仕えながらも、伊賀の血を引くその背景を、私は知っていた。
 信長が伊賀を焼いたとき、光秀は目を伏せていた。
 だが、命令には従った。それが、忠義というものだと、私もまた信じていた。

 その光秀が、本能寺で火を点けた?
 その行動は、義か、復讐か、誰かの計略か。
 ――わからない。

 だが、確かに一つだけ覚えている。

 「義とは、声にはせずとも、黙して選ぶものでございます」

 彼はかつて、そう言った。
 そして、あの夜――彼は、黙して“語られた”。

三 秀吉という“語り”


 羽柴秀吉。
 誰よりも饒舌で、誰よりも腰が低く、誰よりも“掴めぬ男”だった。

 信長様が死んだという報を受けてから、秀吉は一歩もたがわず“正しい道”を歩んでいる。
 光秀を討ち、信長の仇を取り、天下の名を語り直している。

 早すぎる。
 上手すぎる。
 整いすぎている。

 かつて彼は言った。

 「家康様、“物語”というのは語った者の勝ちです。
  真実などは、そのあとで、帳尻が合えばよい」

 私には、到底言えぬ言葉だった。
 だが、民はそれを信じる。
 整った語りは、乱れた真実よりも、遥かに心地よいのだ。

 それが彼の武器だった。
 火の後に残る“語りの煙”を、彼は自在に操っていた。

四 官兵衛という“眼”


 黒田官兵衛。

 信長亡き後の世において、唯一、秀吉を静かに見つめ続ける男。
 私はその名を、山中にいても忘れることはなかった。

 「我らは語らぬ。記すだけです」

 官兵衛はそう言った。
 その言葉に、私は深く頷いたことを覚えている。

 語る者は語る。
 だが、語らぬ者は、語られた後を、見抜く。
 火が点けられ、煙が広がった後で、その“焚き付けた者の影”を追いかける。

 私は、官兵衛がどこまで知っているのかを知りたい。
 彼ならば、火の痕から、言葉の跡から、何かを掴んでいるかもしれぬ。

五 語られた炎、語られぬ影


 私は今、炎から逃れている。
 信長の死が生んだ混乱から、物語が収束しつつある世界から、ただ一人、離れようとしている。

 だがそれは敗北ではない。
 私が見たいのは、語られた真実の“下”にある、語られなかった記憶だ。

 信長が死んだことは、もはや誰も疑わない。
 だが、なぜ、あの夜、あの場で、あのように、あのような“語り口”で――それは誰が定めたのか?

 道はまだ続いている。
 雨は止んだ。風が乾いている。
 私の前に、火の残り香が漂っていた。

第七章 影のゆらぎ

(後編)沈黙の器


 伊賀を抜け、ようやく人里の灯が遠くに見え始めたころ、私は馬を下りた。
 体の疲労は限界に近かったが、心の中には、まだ剣のような緊張が残っていた。

 三河は、もうすぐだ。
 だが、戻るということは、“語られる戦場”へ戻ることでもあった。

 私は、自分がどう在るべきかを考えていた。

一 語られた者たち


 火に焼かれた織田信長。
 火を点けたと語られる明智光秀。
 火を討ち、語り直した羽柴秀吉。
 火の影を静かに記す黒田官兵衛。

 彼らはいずれも、語られた。
 勝手に語られた者もいれば、自ら語った者もいる。
 だが、いずれにせよ、“語られる”ということは、他者に身を明け渡すことでもある。

 私は、語られたくはなかった。

二 沈黙の戦術

 信長様が生きていたころ、私は常に“副将”であった。
 主の影に徹し、矢面に立たず、最後に動く者。
 それは決して卑怯ではない。
 むしろ、最後に立っている者こそが、未来を選ぶ資格を持つのだ。

 語る者が道を作り、語らぬ者がその下に道筋を読む。

 「天下を語るは、勇。
  天下を語らぬは、忍。」

 誰かがそう言っていたか、それとも自らそう定めたのか――もはや定かではない。

 だが今、私は確かにそう感じていた。

三 “語らなかった”記録者


 官兵衛がもし、信長の死に別の解釈を持っているとすれば、私は彼を見ておくべきだろう。
 秀吉が勝者として物語を固めた今、それに抗い得るものは“語られぬ記録”しかない。

 その記録が、後の世に何かを遺すのかどうかは分からない。
 だが、いま語られた物語が、果たして“真実”であるかどうか――
 それを、沈黙のうちに見守る者が必要だ。

 私はその役を買って出る。
 記さず、語らず、ただ残る。

 語らぬという選択は、逃げではない。
 それは、時に最も強い選択なのだ。

四 静かな着地


 夕暮れ、三河の国境に立ち、私は馬の背で目を閉じた。

 信長のように燃えることは、できない。
 秀吉のように語ることも、できない。
 光秀のように裏切ることも、官兵衛のように読み解くことも、私はできぬかもしれない。

 だが、私は残る。

 語られなかった記憶を、沈黙の中に保ち、
 誰よりも長く、世界の変転を見届ける。

 それこそが、私の役目だ。

五 影は、語らず


 火のように明るくなく、
 水のように穏やかでもない、
 ただ、光を遮り、物の形を示す“影”。

 私は影であればよい。
 炎が照らすものを映し、真実の歪みを浮かび上がらせる存在として。

 信長が死に、光秀が死に、秀吉が語るこの時代に、
 誰かが、語らないまま、残らねばならぬ。

 私は、沈黙を選ぶ。

 影の中で。

いいなと思ったら応援しよう!

北南屋 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!