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蘭丸、再び 第八話

第八話 流されるもの

◇ 第一部 ◇茶屋の姫


 春の終わりを告げる風が、路地裏の小さな蔵の戸を、ふわりと揺らした。

 京の一角、目立たぬ茶屋の裏手。ここに身を寄せてから、幾月が過ぎただろうか。私は今、台所の片隅で、干した豆を小袋に分ける作業をしていた。湯気の向こうで立ちのぼる煮炊きの匂いは、いつしか私の心を和らげるものになっていた。

 「姫様、今日の天気は、ええですねえ」

 声をかけてくるのは、この店の下働きの娘である。もう“姫様”などではないと、何度も言ったはずなのに、彼女は頑として呼び方を変えなかった。

 「ええ、ほんとうに、ええ陽気ね」

 私はにこりと微笑んで応えた。心からの笑みだった。土間に射し込む光が、うすい埃を照らし、浮かび上がる粒子が小さな銀の舞のように見えた。昔の私なら、こんな光景に心を寄せることなどなかったかもしれない。

 本能寺の夜から、私は“濃姫”であることをひとまず棚に上げて生きている。名を捨て、立場を捨て、妻であった記憶すら、胸の奥へしまい込んだ。だが、捨てたそれらの断片が、ある種の自由をくれたこともまた事実だった。

 「蔵の整理、今日中に片付きそうです」

 声をかけてきたのは、蔵番を任されている若い者。手ぬぐいを首にかけ、額に汗を滲ませながら笑う姿に、どこかかつての城下の若武者たちを重ねてしまい、私は小さく会釈をした。

 私はここで、米俵の重さを知り、炊いた豆の甘さを覚え、日々の営みに身を委ねていた。ただ、ひとつだけ、忘れたことのないものがある。

 信長様の言葉だった。

 ――美しきものを、愛せ。

 その意味を、私はずっと探していた。



 その日の午後。町の雑踏の中で、ふと耳にした声が、私の胸を打った。

 「信長公は、茶の湯の席で、静かに……倒れたらしい」

 それは、まことしやかな噂だった。誰が言い出したかは分からない。けれど、その口調に、明らかな“意図”を私は感じ取った。

 なぜ、今、その語りが流れ始めたのか。

 誰が、何のために。

 火と血の夜に倒れたはずの信長様が、茶の香りの中で静かに目を閉じた――と語られる。それは、まるで、残された者の心に、やすらぎを与えるための言葉のようだった。

 私は、思った。

 この噂が、ただの偶然であるはずがない。

 誰かが、語ったのだ。

 信長様の死を、美しく語ろうとした“誰か”がいる。



 その夜、私は一碗の茶を点てた。

 わずかに湿った夜風が、格子を揺らす。

 私はそっと目を閉じ、心の中で呟いた。

 ――誰が語ろうとも、あの方は、あの夜、美しかった。

 けして、炎のなかに埋もれるお方ではなかった。

 私は、今日も、名を名乗らず、名を偽って生きている。だが、たしかに私は、信長様の妻だった女。誰よりも、その死を、美しく想いたい者のひとりであった。

◇ 第二部 ◇語りの香り


 茶屋の帳場に灯る明かりは、いつもより心なしか穏やかだった。雨は降っていないのに、町を覆う空気はしっとりとして、まるで昔日の夢を包むような湿り気を帯びていた。

 私は、台所の隅で湯を沸かしていた。火加減を見ながら、釜の音に耳を澄ます。ごう、ごうと静かに響くその音が、なぜか懐かしく感じられた。

 ふと、格子の向こうに気配がする。

 帳場の主が、誰かと話している。

 「……利休殿が、怒っておられるそうだ。信長公の死について、妙な語りが広まっておるとか」

 囁くような声だったが、私の耳にははっきりと届いた。

 私は思わず、手元の柄杓を止めた。

 利休――かの茶の道を極めた男。

 そして、かつて信長様と膝を交えた人でもある。

 「茶の湯で倒れた、という話でしょうか」

 問いかけたのは、若い見習いらしい。声に幼さが残っている。

 「そうじゃ。まことしやかな噂として広まり、今では上方の町人まで口にしておるとか。利休殿は、面子を潰されたと感じたのじゃろうな」

 私は、その場に立ち尽くしていた。

 ――やはり、あの語りは、誰かの意思で始まったものなのだ。

 それが誰であろうと、私はその想いに、静かに感謝した。

 茶の香りの中で目を閉じた信長様。それは、残された者にとっての救いであり、癒しであった。



 だが、利休にとって、それはどう映ったのだろう。

 自らが設えた茶席で、何があったのか。

 あの夜の真実を知っている者が、どれほどいるのか。

 「殿下も、その噂を耳にされたようです」

 帳場の声が続く。

 「利休殿は、その場で申し開きを求められ、言葉に詰まったと」

 私は、湯の音が落ち着くのを待つふりをしながら、そっと耳を傾けていた。

 「……切腹を命じられるやも知れぬ」

 淡く呟かれたその言葉に、私は心の底から冷たいものが広がるのを感じた。

 利休が――命を絶たされる?

 もしそれが真実なら、この静かに流れた“語り”の波紋が、一人の命を奪うことになる。



 私は手を止め、湯気にかすむ空を仰いだ。

 誰が語ったかは、知らない。知らなくていい。

 けれど、その語りには、たしかに“祈り”が宿っていた。

 信長様の最期を、炎ではなく、静けさの中に置き換えようとした祈り。

 美しきもののために。

 私は、そっと唇を閉ざしたまま、今日という一日が流れていくのを、ただ静かに見守った。

◇ 第三部 ◇濃


 利休がこの店を訪れたのは、明け方よりも少し前のことだった。

 私は蔵の帳面を整理していたが、彼の歩みは、紙を繰る音さえ吸い込むほど静かだった。

 背筋を伸ばし、裾を乱さず、年の割にしっかりとした足取り。

 「お早うございます」と声をかけると、利休は一礼し、小さな湯飲みに手を添えた。

 「ここにいると、時が穏やかに流れますな」

 それだけを言い、彼は奥の一角に腰を下ろした。

 何も尋ねず、何も語らない。けれど、その沈黙の中には、まるで何百もの言葉が折りたたまれているようだった。



 昼過ぎ、使いの者がやってきた。見慣れぬ顔で、見慣れぬ文を手にしていた。

 利休はそれを見て、わずかに頷き、立ち上がった。

 「お世話になりました」

 それだけを言って、深く頭を下げた。

 私は返す言葉を見つけられず、ただ背を見送った。

 白茶の羽織が、差し込む日差しに揺れていた。

 どこまでも静かで、どこまでも潔い、背中だった。



 その夜、町の片隅で噂が流れた。

 利休が、殿下により切腹を命じられた、と。

 理由は定かでない。けれど、人々は囁く。

 「信長公は、茶の湯の席で静かに倒れたらしい」
 「最期は、香り高い茶の湯の中で……」
 「その語りが、誰かの怒りを買ったと聞いた」

 私は火を落とした蔵のなかで、その噂を聞いた。

 利休の背中とともに、静かに目を閉じた。

 語られるということは、ときに美しくも、ときに残酷でもある。

 けれど、誰かが語らねば、真実は土の下に沈んでいく。

 今宵、空はよく晴れていた。星の光が、木箱の隙間からこぼれてくる。

 私はただ、両手を重ね、胸元でそっと祈った。

 語った者の覚悟に。
 消えゆく者の誇りに。
 そして、信長様の魂に。

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