光秀を討つ 第六話
第六話 火の中の忠臣
火の匂いは、いつもと違っていた。
薪の香ではない。炭の焼ける匂いでもない。
もっと刺すような、鉄と油と、何か焦げついたような……これは、人の焼ける匂いだと、すぐにわかった。
「蘭丸!」
信長様の声が響いた。
私は跳ね起き、脇差を手に寝所を飛び出した。
すでにあちこちで炎が上がっている。回廊の先、僧房の屋根、庭の草木――本能寺が焼け落ちようとしていた。
一 忠義とは、何か
「敵か!」
「……わかりませぬ!」
駆け寄った僧の一人が、恐怖に声を震わせていた。
「夜襲です! 多勢にて、明智の兵かと――!」
明智?
光秀様が?
そんなはずが――
私は口を閉じた。
光秀様なら、あり得る。そう思ってしまった自分が、何より怖かった。
信長様は、すでに甲冑を着けず、槍も取らず、ただ燃え広がる回廊を見ていた。
「囲まれたな」
その声音に、怯えも、怒りも、なかった。
あるのは、ただ、淡い納得だった。
「蘭丸」
「はい!」
「……逃げよ。おぬしだけでも、生き延びて、儂の死を伝えよ」
「できませぬ!」
私はその場でひざまずいた。
逃げるなど、あり得ぬ。主を置いてなど、生きられぬ。
「忠義とは、死ぬことではないぞ、蘭丸」
信長様は私の頭に手を置いた。
幼き頃より、ずっとそうしてくださったように。
二 炎の中で見るもの
それでも私は、離れなかった。
逃げられぬなら、燃え尽きるそのときまで、目を閉じるわけにはいかなかった。
あちこちで火が唸りを上げ、煙が目を焼いた。
周囲の者たちは逃げ惑い、あるいは死んだ。
僧の叫び声、兵の断末魔、建材が崩れ落ちる音。
信長様は、それらを聞きながら、ただ黙って燃えゆく天井を見ていた。
「この国は、もうすぐ変わる」
「……は?」
「儂が、変えた。変えてしまった。だが……変えきれなかった」
私は答えられなかった。
何を変え、何を変えられなかったのか――今の私には理解できなかった。
「光秀か。伊賀の血がそうさせたか。あるいは……誰かの“語り”か」
その言葉は、炎にまぎれて消えた。
三 最後の主従
やがて、敵兵の影が見えた。
「織田信長殿、もはやこれまで――!」
「そうか」
信長様は、そう言って静かに立ち上がった。
私は咄嗟に立ちふさがろうとした。だが、手で制された。
「よい」
「……なぜ、戦わぬのです!」
「戦うための火ではない。これは、儂が“消える”ための火だ」
その言葉の意味を、私は知りたくなかった。
だが、それは確かに“覚悟”ではなく、“選択”だった。
「蘭丸、おぬしは忠義を知る者だ。ならば、火のそばで散れ」
「はい……!」
涙が頬を伝った。煙か涙かもはやわからなかった。
信長様は微かに笑った。そして、炎の奥へと歩いていった。
四 語られぬ命
のちに、私の死は多くの者に語られたと聞く。
「蘭丸、信長を守って壮絶な最期」
「蘭丸、信長とともに燃え尽きた」
「蘭丸、最後まで戦った」――
どれも、少しずつ違う。
私は、守れなかった。
私は、戦わなかった。
私は、ただ、一人の主の最期を見届けただけだ。
だが、それこそが、忠義だったのかもしれない。
主の命令に逆らい、主の最期に寄り添い、共に火に包まれる。
誰が正しかったかなど、もうわからない。
ただ、この火の夜が“語られる夜”になることだけは、知っていた。
主は、自ら燃えたのではない。
燃えるべき“何か”の象徴として、そこに立ち続けたのだ。
私はそれを、きっと忘れぬ。
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