光秀を討つ 第三話
第三話 甲賀と伊賀
火を操る者の足跡は、灰の中にだけ残る――
その言葉を、幼き日の私は父から教わった。
黒田家は、甲賀の里にその血を引く。
表の顔は播磨の武家だが、裏の系譜は「観察と残滅」を任とする忍びの末。
私は武士として育てられたが、その本質は、見て、覚えて、記すことにあった。
ゆえに、私はあの火をただの“業火”とは思えなかった。
誰かが用意し、誰かが狙い、誰かが逃げ道を閉じた。
焼かれたのは本当に信長公か?
焼いたのは本当に光秀か?
その答えを探すため、私は己の中の“甲賀”を解き放つ覚悟を決めていた。
京から戻った密偵が、書状を携えて参上したのは、その翌日である。
雨は止み、戦支度の陣が音を立てて動き始めていた。
私は急ぎ、その報告に目を通した。
――光秀の母方が伊賀の出であるという記録。
――本能寺の改修に関わった大工が、伊賀の者に通じていた証言。
――失踪した炭焼き職人が、信長の警固と同日に寺を訪れていたという供述。
――火元と目された一角に、伊賀で使われる“火走り縄”と同じ結び目が残されていた。
証拠は点でしかない。だが、その点は確かに“ある方向”へと伸びていた。
「伊賀か……」
呟いた私に、部屋の奥から声がかかった。
「伊賀といえば、光秀じゃのう」
秀吉公が現れた。鎧はまだ着ていない。だが、目には戦の色が宿っている。
「母が伊賀、か。噂には聞いておったが、ここへきて浮かび上がるとはな」
「それを、どうお考えに」
「血じゃ、黒田。血には逆らえぬ」
秀吉公は、どこか遠くを見るように言った。
「儂も、そなたも、甲賀の血を引いておる。して、光秀は伊賀。主を焼いた火の出所がどこか、わかるであろう」
私はその言葉に、すぐに頷くことができなかった。
確かに我らは甲賀の末。しかし、火を使うことに長けていたのも、また甲賀である。
甲賀と伊賀、似て非なる忍びの里――互いを意識し、警戒し、時に争い、時に交じった。
そして今、その“血の対立”が戦国の表舞台へと押し上げられようとしている。
「……秀吉様は、光秀が“その血”に従って、信長公を討ったとお考えで?」
「逆じゃ。血に従ったのではない。血を守るために、火を点けたのじゃ」
私は目を見開いた。
「伊賀は……滅びかけておった。信長公は、あまりにも伊賀に冷たかった。もはや、討つ以外に救う術がなかったのだろう」
「では、光秀には正義があったと……?」
「それは知らぬ。ただ――敵として討つには、十分な物語じゃろう」
その一言は、明確だった。
真実ではなく、“語られるに足る物語”が必要だと。
私は沈黙した。
そのとき、私は秀吉という男のもう一つの顔を見た気がした。
「黒田。そろそろ時ぞ。山崎にて決着をつける」
「心得ました」
「そしてな……」
秀吉は振り向かず、言葉を落とした。
「儂がなぜ、甲賀の里を見限らなんだと思う?」
私は答えられなかった。
秀吉は薄く笑い、去っていった。
残された私は、心の奥に広がる“伊賀と甲賀”の影を見つめていた。
この国には、二つの忍びの血がある。
だがそれは、主のために流す血ではなく――血の中に“主”を作り上げていく業なのかもしれぬ。
私は筆を取り、日録を記した。
《光秀、伊賀の血を引くとされる。信長公の伊賀粛清の方針と照らせば、明確な火種たりうる。》
《秀吉様、明言せぬも、己が血を知り、用いる術に長けておられる様子。》
《いずれにせよ、信長公の死は、軍の業ではない。忍びの業にて行われし“消去”の色、濃い》
夜、遠くで雷が鳴った。
空が火の音を予告しているように思えた。
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