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【創作エッセイ】鍵垢の観測地点

二〇二六年、七月上旬。 梅雨明け前の東京は、巨大な透明のゼリーの中に街ごと沈められたかのように、重たくて息苦しい湿気に支配されていた。 朝七時四十五分、JR三鷹駅の上り線ホーム。 灰色の分厚い雲が空を覆い尽くし、太陽の輪郭すら見えないというのに、アスファルトからはねっとりとした熱気が立ち上っている。制服の半袖ブラウスの下で、じわりと汗が滲むのを感じた。私は、ホームの端、エスカレーターから一番遠い柱の陰に立ち、オレンジ色の帯を巻いた中央線の電車がドアを開くのを待っていた。

右手には、私の世界のすべてを手のひらサイズに圧縮した黒い長方形――スマートフォンが握られている。 画面はダークモードに設定され、輝度は極限まで落としてある。周囲から覗き込まれても、黒い板をただ見つめているようにしか見えないはずだ。その暗い液晶画面の中で、私はたった一人、誰にも邪魔されない安全圏から、同級生たちの狂騒を観測していた。

私たちの通う高校の教室は、見えないけれど絶対に踏み越えてはならない、強固なヒエラルキーによって分割されている。いわゆる「スクールカースト」という使い古された言葉では到底説明しきれない、より複雑で、より残酷で、よりデジタルに可視化された生態系だ。 カーストの頂点に君臨する一軍の女子たちは、常に最新のiPhoneのProモデルを見せつけるように持ち歩き、トレンドのコスメで武装している。彼女たちの世界の中心はInstagramだ。ストーリーズの更新頻度は異常に高く、息をするように動画をアップする。そこには、放課後のカフェでの「映える」ケーキ、プリクラ機の極彩色、そして何より「私たち、こんなに仲良くて最高でしょ」という暴力的なまでの自己肯定感がパッケージされている。 彼女たちの間で最も重要なのは、アイコンの周囲を縁取るリングの色だ。「親しい友達」にのみ公開される緑色のリング。自分が誰の「親しい友達」に入っていて、誰から外されたのか。その緑色の輪っか一つで、教室内のパワーバランスは日々音を立てて変動する。昨日は親しげにタグ付けし合っていた二人が、今日は互いのストーリーズに一切登場しなくなる。表面上は「おはよー!」と高い声で笑い合いながら、水面下では血みどろの冷戦が繰り広げられているのだ。

そして、二〇二六年の今、その息苦しさに拍車をかけているのが「BeReal(ビーリアル)」のような、リアルタイム性を強制するアプリの存在である。 いつ鳴るかわからない通知。通知が来てから二分以内に、内カメラと外カメラで同時に写真を撮り、無加工でアップロードしなければならない。この「無加工・リアルタイム」というルールが、教室にどれほどのプレッシャーをもたらしているか、大人は誰も知らない。 授業の合間の休み時間、誰かのスマホがブルッと震え、ビーリアルの通知を知らせる。その瞬間、一軍の彼女たちは獲物を見つけた肉食獣のように素早く集まり、完璧な角度と、計算し尽くされた「偶然の笑顔」を作り出す。ピースサインの角度、誰の肩に顎を乗せるか、誰が画面の端に追いやられるか。そのわずか二分間のうちに、彼女たちは自分がクラスの「中心」にいることを証明しなければならないのだ。 もし、一人でトイレの個室にいる時に通知が鳴ってしまったら? もし、休日に一人で部屋にいる時に通知が鳴ってしまったら? 彼女たちは、その「充実していない自分」をさらけ出すことを極端に恐れている。だからこそ、常に群れ、常に連絡を取り合い、常に「誰かといる」ことを確認し合う。 承認欲求という名の怪物に餌を与え続けなければ、自分という存在が希釈されて消えてしまうのではないか。そんな見えない恐怖に怯えながら、彼女たちは今日も、精一杯の愛想笑いを浮かべて教室の空気を読んでいる。

私はといえば、そんなヒエラルキーの底辺、いや、ピラミッドの外部にいる「観測者」にすぎなかった。 属するグループを持たず、休み時間は常にイヤホンで耳を塞ぎ、机に突っ伏すか、図書室に逃げ込むかしている。誰かの「親しい友達」に選ばれることもなければ、ビーリアルの通知に慌ててピースサインを作ることもない。AirDropの設定は常に「受信しない」にしてある。教室という密室で、私はひたすら気配を消し、背景の一部と同化することに全力を注いでいた。

プシューッという空気の抜ける音とともに、中央線快速のドアが開いた。 三鷹駅からの乗車は、まだ少しだけ車内に余裕がある。私は迷わず端の席、手すりに寄りかかれる特等席を確保し、小さく息を吐いた。 電車が動き出す。吉祥寺、西荻窪、荻窪と駅に停まるごとに、車内は少しずつ、しかし確実に人々の体温と湿気で満たされていった。サラリーマンの整髪料の匂い、女性の柔軟剤の甘い香り、湿った傘の匂い。それらが冷房の風に乗って混ざり合い、独特の淀んだ空気を作り出す。 私は再びスマートフォンの画面に視線を落とした。 開いているのは、X(旧Twitter)のアプリ。もちろん、本名や学校の友達と繋がっている表のアカウントではない。プロフィール画像は初期設定のまま、自己紹介文も空欄の、真っ黒な鍵付きアカウントだ。 フォロワー数は「0」。フォロー数も「0」。 このアカウントの存在を知る者は、世界に私一人しかいない。ここは、私が教室の息苦しい空気から逃れ、毒にも薬にもならない真っ黒な本音を吐き出すための、唯一の排泄器官だった。

『A子、今日のストーリーの緑リング、わざとB子を外してる。昨日B子がC男と話してたからだろうな。バカみたい。』 『今日も教室の空気が薄い。全員で窒息ゲームでもやってんのかな。』 『誰か私の首を絞めてくれないか。あるいは、このまま透明人間になりたい。』

フリック入力の速度だけは、誰にも負けない自信があった。感情の起伏を一切表情に出さず、ブルーライトに照らされた無機質な指先だけが、恐ろしいスピードで液晶の上を滑っていく。 誰にも見られることのないタイムラインに、私の淀んだ思考が文字となって堆積していく。 教室の連中は、他人の「裏垢」を特定することに血道を上げている。インスタのフォロワー欄の隅から隅までチェックし、少しでも病んだ投稿をしている鍵垢を見つければ、スクリーンショットを撮って裏のLINEグループで共有し合う。 「これ、絶対Dちゃんだよね。やばくなーい?」 そうやって他人の弱みを握り、嘲笑することでしか、自分たちの脆弱な連帯を保てないのだ。 彼らの情報戦の滑稽さを、私は冷徹な視点で見下していた。私のこのアカウントは、誰にも特定できない。なぜなら、誰とも繋がっていないからだ。私はただ、安全圏から彼らの生態を観察し、このデジタルな泥の中に記録し続けるだけの機械だった。

高円寺を過ぎたあたりで、車内はいよいよ満員電車特有の圧迫感を持ち始めた。立っている人々の肩と肩がぶつかり、つり革を握る腕が交差する。 ふと、私の斜め前に一人の男子生徒が立った。 見覚えのある、少し日に焼けた首筋。指定の夏服のシャツの着崩し方。 同じクラスの、彼だった。

彼は、教室の生態系において、少し特異なポジションにいる人間だった。 サッカー部に所属し、カースト上位の男子たちとよく笑い合っている。かといって、下位のオタク層の男子を馬鹿にするわけでもなく、誰にでも適度に愛想が良い。女子からの人気も高いが、特定のグループにべったりと依存しているわけではない。 彼は飄々としていて、まるで教室の重力に縛られていないかのように見えた。 インスタのフォロワー数も多いはずだが、彼自身の投稿は数ヶ月に一度、部活の集合写真を載せる程度。ストーリーズも滅多に更新しない。 一見すると、彼は完璧な「陽キャ」であり、私とは対極にいる眩しい存在だった。 しかし、観察者である私にはわかっていた。彼が時折、教室の喧騒の中で見せる、ひどく冷めたような、虚無を宿した瞳を。 彼もまた、誰にでも合わせられるがゆえに、誰にも本当の顔を見せていないのではないか。空気を読むことに長けすぎているからこそ、その「終わりのない承認欲求のゲーム」に誰よりも疲弊しているのではないか。 もちろん、それは私の勝手な推測にすぎない。彼と私は、四月のクラス替えから三ヶ月が経った今でも、まともに言葉を交わしたことすらなかった。

彼は私に気づく様子もなく、ドア寄りの手すりに体を預け、スマートフォンを取り出した。 私は彼から目を逸らし、再び自分のスマホの黒い画面に向き直った。 中野駅に到着し、さらに大量のサラリーマンがなだれ込んでくる。車内の酸素濃度が一段と下がったような気がした。人々の体に押し潰されそうになりながら、私はスマホを胸元に引き寄せ、周囲から画面を隠すように防御の姿勢をとった。

電車は新宿駅に滑り込んだ。 ここで乗客の半分以上が入れ替わる。巨大な人のうねりがドアから吐き出され、また新たなうねりが飲み込まれていく。 その混乱の中で、彼が押し流されるようにして、私のすぐ目の前、わずか数十センチの距離まで近づいてきた。 彼の制服から、微かにシトラス系の制汗剤の匂いがした。 私は息を潜めた。彼に私の存在を認識されたくなかった。透明人間のままでいたかった。

電車が再び走り出し、四ツ谷へ向けてトンネルを抜けると、車窓の外の景色が開けた。 外濠の緑と、その上を覆う灰色の雲。 私はふと顔を上げ、目の前に立つ彼の様子を盗み見た。 彼はスマートフォンをいじっていた。しかし、それはインスタグラムの煌びやかな画面でも、LINEの緑色のトーク画面でもなかった。 彼は、音楽アプリを開き、オフラインで保存されたプレイリストをスクロールしていた。そして、画面の上部には、飛行機のマーク。 彼は、スマートフォンを「機内モード」にしていたのだ。

一瞬、息が止まりそうになった。 機内モード。それは、すべての電波を遮断し、外界からの通知を一切絶つための機能。 教室の中心にいて、常に誰かからのメッセージやタグ付けの通知に晒されているはずの彼が、この朝の満員電車の中で、自ら世界との繋がりを断ち切っていた。 彼はワイヤレスイヤホンを耳に押し込み、目を閉じた。 その横顔には、教室で見せる人当たりの良い愛想笑いは微塵もなかった。ただ、深く、静かに、自分自身の内側へと沈み込んでいくような、無防備で孤独な表情があった。

ドクン、と心臓が大きく跳ねた。 私は、見てはいけないものを見てしまったような気がした。 完璧に見えた彼の、偽装が剥がれ落ちた瞬間。 彼もまた、息を止めて、この真空地帯に逃げ込んでいるのだ。通知バッジの赤い数字からも、誰かのストーリーズの更新からも解放される、このわずかな乗車時間だけが、彼の本当の呼吸ができる場所なのかもしれない。

電車は御茶ノ水駅へと近づいていく。 右手の車窓には、鬱蒼とした木々に囲まれた神田川の濁った水面が見下ろせた。そして、その川を渡るようにして、丸ノ内線の赤い車両が地下のトンネルから一瞬だけ顔を出し、再びコンクリートの闇の中へと吸い込まれていくのが見えた。 いくつもの路線が立体的に交差する、東京のジオラマのような風景。

その時だった。 御茶ノ水駅の手前の急なカーブで、電車がガクンと大きく揺れた。 「おっと……」 つり革を持っていなかった彼がバランスを崩し、私の座っている席の方へ、わずかに倒れ込んできた。 彼の肘が、私の肩に軽くぶつかる。 私は驚いて、胸元で隠すように持っていたスマートフォンを取り落としそうになった。慌てて両手で掴み直す。 しかし、その拍子に、スマートフォンの画面が、彼の方へとはっきりと向いてしまった。

画面の輝度は落としてあるとはいえ、至近距離だ。 そこには、私が直前まで打ち込んでいた、真っ黒な本音の羅列が映し出されていた。

『全員死んだ魚の目をしてスマホ見てる。キモい。』 『息が詰まる。どうせ今日も、誰も本当のことなんて言わない。』 『いっそこの電車ごと、どこか別の次元に消滅してくれないかな。』

血の気が引くのがわかった。 指先が氷のように冷たくなり、心臓の鼓動が耳の奥でガンガンと鳴り響いた。 見られた。 絶対に誰にも見られてはいけない、私の脳内の汚泥。 教室の「陽キャ」である彼に、こんな暗くて痛々しい鍵垢の画面を見られたら。 明日から、私はどうなる? 裏のLINEでスクリーンショットが出回る? 「あいつ、やばいアカウントやってるよ」と笑い者にされる? 透明人間ですらなくなり、汚物として扱われることになるのか。

私は反射的に画面を伏せ、顔面を蒼白にしながら彼を見上げた。 彼は、少し驚いたように目を見開き、私の顔と、私が伏せたスマートフォンの画面を交互に見た。 終わった。 私は目をぎゅっと閉じ、彼からの冷蔑の視線、あるいは引き攣ったような苦笑いが降ってくるのを待った。

しかし。 数秒の沈黙の後、私の耳に届いたのは、小さな、吹き出すような笑い声だった。 「……ふっ」 目を開けると、彼は片手で口元を覆い、肩を震わせて笑っていた。それは、教室で誰かを馬鹿にする時の嘲笑でも、空気を読んだ愛想笑いでもなかった。腹の底から可笑しさをこらえきれないような、純粋な笑いだった。

「……何」 私は震える声で、かすかに睨むように彼を見た。 彼は笑いを収めると、私に向かって小さく首を横に振った。そして、自分のスマートフォンの画面を、スッと私の方へ向けた。 「ほら」

私は、恐る恐る彼の画面に視線を落とした。 そこには、私が先ほど見た音楽アプリの画面ではなく、Xのタイムラインが開かれていた。 画面はダークモード。 アカウントのアイコンは、初期設定の灰色の人型。 フォロワー数は「0」。

そして、そこには、こんな文章が並んでいた。

『今日も疲れた。作り笑いしすぎて顔の筋肉が痛い。』 『Bの自慢話、マジでどうでもいい。承認欲求の化け物かよ。』 『誰とも話したくない。俺も透明になりたいわ。』

私は、彼の画面と、彼の顔を交互に見た。 頭の理解が追いつかなかった。 教室の中心にいる彼が。誰とでもうまくやっているはずの彼が。 私と同じように、誰にも見られない鍵垢に、こんな本音を吐き出していたなんて。

彼は、ワイヤレスイヤホンの片方を耳から外し、私に向かって少しだけ身を乗り出した。 その瞳には、かつて見たことのない、生々しいほどの真摯な光が宿っていた。

「……お互い、息するのも大変だよね」

彼は、悪戯っぽく、けれどどこかホッとしたような声でそう言った。 そして、小さく笑って、片目をつぶってウインクをした。

「まもなく、御茶ノ水、御茶ノ水。お出口は右側です」 車内アナウンスが響き渡り、電車がゆっくりと減速を始めた。

私は、言葉を発することができなかった。 ただ、胸の奥底で、固く冷たく凍りついていた何かが、急激な熱を帯びて溶け出していくのを感じていた。 彼は、再びイヤホンを耳に戻し、何事もなかったかのように視線を窓の外の景色へと戻した。 私も、手元のスマートフォンを握り直し、ゆっくりと画面を表に向けた。

教室という閉鎖された水槽の中で、互いの顔色を窺い、酸素を奪い合いながら生きている私たち。 通知バッジの赤い数字に縛られ、他人のストーリーズの裏を読み、見えない階層の階段から転げ落ちないように必死でしがみついている。 けれど、この朝の中央線の、オレンジ色の鉄の箱の中。 他人の肌と肌が触れ合うほどの満員電車の中で生まれた、わずか数十センチのパーソナルスペース。 そこは、電波も届かない、誰も知らない、私たちだけの絶対的な真空地帯だった。

ピラミッドの頂点近くで仮面を被って息を止めている彼と、ピラミッドの外部で息を潜めて透明人間になっている私。 決して交わるはずのなかった二つの孤独な観測地点が、偶然の揺れによって衝突し、秘密の同盟を結んだ。 彼の鍵垢のタイムラインに並んでいた、「透明になりたい」という言葉。 私の鍵垢のタイムラインに並んでいた、「透明人間になりたい」という言葉。 スマートフォンのブルーライトに照らされた無機質な文字の羅列が、今はなぜか、体温を持っているように感じられた。

電車が御茶ノ水駅のホームに滑り込み、ドアが開く。 朝の強い光が、灰色の雲の隙間から差し込み、車内に舞う微細な埃をキラキラと照らし出した。 彼は、軽く私に目配せをしてから、人の波に乗ってホームへと降りていった。その後ろ姿は、教室で見せる飄々としたものではなく、等身大の、少し背中を丸めた一人の高校生のものだった。

私は、自分のスマートフォンの画面を見た。 真っ黒なタイムライン。フォロワーは相変わらず0のままだ。 けれど、私はもう、この黒い画面が以前ほど冷たく、孤独なものだとは思えなかった。 私はフリック入力で、新しいポストを打ち込んだ。

『もしかしたら、明日からの教室は、ほんの少しだけ息がしやすいかもしれない。』

送信ボタンを押す。 もちろん、誰からの「いいね」もつかない。 けれど、私の心臓の奥底では、今まで感じたことのない、秘密めいた胸の高鳴りが、確かに、心地よいリズムを刻み始めていた。


※だれかのエッセイ100話セット、1話あたり10円です。
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