蘭丸、再び 第二話
第二話 炎のなかの少年
六月二日、未明。
本能寺の境内に、どこか湿ったような香が漂っていた。
それは香木でも炭でもない、薬のような、草のような匂いだった。
私は違和感を覚えながらも、いつものように茶を点て、主の前に膝をついた。
「殿、夜の茶を」
信長様は、座したままゆっくりと碗を受け取った。
その顔に、いつもの峻厳な気配はなく、どこか、静かすぎる眼差しを浮かべていた。
茶を口にした信長様の眉が、かすかに動いた。
「蘭丸……この香、少しばかり苦いな」
「は……申し訳ございませぬ。炭の香りが移ったかと……」
そう答えたものの、私は自分の手が、いつもよりかすかに震えていることに気づいていた。
信長様が碗を置こうとした瞬間、ふと、その身体が前のめりに揺れた。
碗が手から落ち、茶が畳にこぼれる。
白の小袖に緑の水が染み、私はあわてて抱きとめた。
「殿……?」
返事はない。
その身体は異様に冷たく、呼吸も浅く、脈が遠のいていくように感じられた。
私は思わず、自分の喉に手をやった。
熱い。焼けるような熱が、胸から上がってきている。
目がにじむ。足がふらつく。頭の奥が、金属音のように響く。
茶の香が鼻を突き、私の体も、ゆっくりと沈んでいった。
――毒だ。
理解したときには、もう遅かった。
◇
周囲が騒がしくなっていた。
「敵襲――明智軍だッ!」
回廊の向こうから怒号。兵の足音、炎の爆ぜる音。
次々と火がつけられ、あちこちで柱が燃え上がる。
私は立ち上がれなかった。
朦朧とした意識のなか、信長様のそばに身を伏せた。
そのときだった。
「……蘭丸」
誰かの声が、確かに私を呼んだ。
「……逃げよ……語れ……」
その声は、はっきりと聞こえた。
夢か、幻か、現実か――判断はつかぬ。
だが私は確かに、その言葉を聞いた。
炎の奥に、信長様が立っていた。
白の小袖が、炎の光をまとって揺れていた。
その口が、確かに私の名を呼んだ。
「蘭丸……」
言葉は音にならなかった。
だが、私はそれを全身で受け取った。
――語れ。
――美しきもののために、生きよ。
その言葉を胸に、私は最後の力で、信長様の前に身を投げ出した。
戸が破られる音。
刃が、迫る。
誰かが叫ぶ。「信長様は、渡さぬ――!」
強い衝撃が腹に走り、私は倒れた。
血の香りと、茶の香が、鼻の奥で混じり合った。
柱が崩れる音。火の粉が舞い、視界が白く染まる。
そのとき。
誰かが、私の身体を抱き上げた。
「生きている……急げ!」
その声は、あの日の中で最も確かなものだった。
戦の声でも、炎の音でもなく、“救う”という意志に満ちた声。
「栗山利安、命受けたり……!」
名前が呼ばれた。誰かが、私を名で呼んだ。
だが、私はすでに、自分が誰なのかを忘れかけていた。
◇
目を覚ますと、私は見知らぬ天井を見ていた。
腹には包帯。身体は鉛のように重く、言葉が出ない。
枕元にいた男が、低く言った。
「目が覚めたか。わしは栗山利安」
私は答えなかった。いや、答えられなかった。
「名は?」
その問いに、私はかすかに首を振った。
男はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「……よい。名は、あとで与えられよう」
◇
それから数日後。
一人の男が私の前に現れた。
痩せぎすで、よく通る声を持ち、どこか影のある眼をした男。
黒田官兵衛――栗山の主であるという。
官兵衛は私を見つめ、短く言った。
「これより、おぬしは“長政”と名乗れ」
「……長政……」
「名など、呼ばれて定まるもの。
おぬしはかつて誰であったか、それを忘れてもよい。
だが、何を語るかは、これから自分で決めねばならぬ」
私はうなずいた。
何も思い出せなかったが、その言葉だけが、心に火を灯した。
火のなかで失った名を、私は新たに得た。
その名が、これからの私を導くものになるとは、このときまだ知らなかった。
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