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蘭丸、再び 第二話

第二話 炎のなかの少年


六月二日、未明。
本能寺の境内に、どこか湿ったような香が漂っていた。

それは香木でも炭でもない、薬のような、草のような匂いだった。
私は違和感を覚えながらも、いつものように茶を点て、主の前に膝をついた。

「殿、夜の茶を」

信長様は、座したままゆっくりと碗を受け取った。
その顔に、いつもの峻厳な気配はなく、どこか、静かすぎる眼差しを浮かべていた。

茶を口にした信長様の眉が、かすかに動いた。

「蘭丸……この香、少しばかり苦いな」

「は……申し訳ございませぬ。炭の香りが移ったかと……」

そう答えたものの、私は自分の手が、いつもよりかすかに震えていることに気づいていた。

信長様が碗を置こうとした瞬間、ふと、その身体が前のめりに揺れた。

碗が手から落ち、茶が畳にこぼれる。
白の小袖に緑の水が染み、私はあわてて抱きとめた。

「殿……?」

返事はない。
その身体は異様に冷たく、呼吸も浅く、脈が遠のいていくように感じられた。

私は思わず、自分の喉に手をやった。
熱い。焼けるような熱が、胸から上がってきている。

目がにじむ。足がふらつく。頭の奥が、金属音のように響く。
茶の香が鼻を突き、私の体も、ゆっくりと沈んでいった。

――毒だ。

理解したときには、もう遅かった。



周囲が騒がしくなっていた。

「敵襲――明智軍だッ!」

回廊の向こうから怒号。兵の足音、炎の爆ぜる音。
次々と火がつけられ、あちこちで柱が燃え上がる。

私は立ち上がれなかった。
朦朧とした意識のなか、信長様のそばに身を伏せた。

そのときだった。

「……蘭丸」

誰かの声が、確かに私を呼んだ。

「……逃げよ……語れ……」

その声は、はっきりと聞こえた。
夢か、幻か、現実か――判断はつかぬ。
だが私は確かに、その言葉を聞いた。

炎の奥に、信長様が立っていた。
白の小袖が、炎の光をまとって揺れていた。
その口が、確かに私の名を呼んだ。

「蘭丸……」

言葉は音にならなかった。
だが、私はそれを全身で受け取った。

――語れ。
――美しきもののために、生きよ。

その言葉を胸に、私は最後の力で、信長様の前に身を投げ出した。

戸が破られる音。
刃が、迫る。
誰かが叫ぶ。「信長様は、渡さぬ――!」

強い衝撃が腹に走り、私は倒れた。

血の香りと、茶の香が、鼻の奥で混じり合った。
柱が崩れる音。火の粉が舞い、視界が白く染まる。

そのとき。

誰かが、私の身体を抱き上げた。

「生きている……急げ!」

その声は、あの日の中で最も確かなものだった。
戦の声でも、炎の音でもなく、“救う”という意志に満ちた声。

「栗山利安、命受けたり……!」

名前が呼ばれた。誰かが、私を名で呼んだ。

だが、私はすでに、自分が誰なのかを忘れかけていた。



目を覚ますと、私は見知らぬ天井を見ていた。
腹には包帯。身体は鉛のように重く、言葉が出ない。

枕元にいた男が、低く言った。

「目が覚めたか。わしは栗山利安」

私は答えなかった。いや、答えられなかった。

「名は?」

その問いに、私はかすかに首を振った。

男はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。

「……よい。名は、あとで与えられよう」



それから数日後。
一人の男が私の前に現れた。

痩せぎすで、よく通る声を持ち、どこか影のある眼をした男。
黒田官兵衛――栗山の主であるという。

官兵衛は私を見つめ、短く言った。

「これより、おぬしは“長政”と名乗れ」

「……長政……」

「名など、呼ばれて定まるもの。
 おぬしはかつて誰であったか、それを忘れてもよい。
 だが、何を語るかは、これから自分で決めねばならぬ」

私はうなずいた。
何も思い出せなかったが、その言葉だけが、心に火を灯した。

火のなかで失った名を、私は新たに得た。

その名が、これからの私を導くものになるとは、このときまだ知らなかった。

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