蘭丸、再び 第六話
第六話 炎の夜へ
夢を見ていた。
──「明智軍だ!」
誰かの声が、夜を裂いた。
あのとき私は、襖を背に、血の気の引いた湯呑を握っていた。
体の内側から燃え広がるような熱。
口の奥に残る、鉄のような味。
──毒だ、と直感した。
足を踏み出すたび、視界が歪んだ。
火の気、煙、遠くで悲鳴。
私は廊下を這い、信長様のもとへ向かった。
──「殿……!」
黒く染まる廊下の先に、赤い光があった。
壁が崩れ、炎が柱をなめる。
その中央で、信長様は静かに立っていた。
「来たか、蘭丸……」
「信長様……!」
私は叫んだ。震える声で、立っていられぬほどに。
「よい。──お前は逃げよ」
「お、お守りいたします! 私が、最後まで──!」
「違う。お前は、生きて……語れ」
その言葉と同時に、私の体は崩れ落ち、
世界は、赤黒く、音を失っていった。
◇
「若……お目覚めですな」
まぶたの裏にあった炎の余韻が消える。
目を開けると、見慣れた茅葺の庵の天井があった。
栗山利安が、囲炉裏の傍で湯を注いでいる。
「また……うなされておられましたぞ」
「……夢を見ていたのです」
私は起き上がりながら、胸元に手をやった。
懐に忍ばせてある、細い木簡。
節には、伊賀の密教で用いられる符号が刻まれている。
それは、あの夜──本能寺の瓦礫の中で、私の背に括られていたもの。
「信長様が……私に、生きよと命じた気がするのです。語れと」
利安は黙って、湯の椀を私に差し出した。
「忘れぬことこそ、語る者の責めでござる。──若は、まだ忘れておらぬ」
私は小さく頷いた。
炎の中で聞いた言葉が、胸の奥でまだ灯っている。
◇
あの夜のことは、思い出せば思い出すほどに、痛みをともなう。
だが、信長様の声だけは、確かに私の中にある。
燃え盛る炎の中で、私は誰かに抱き上げられたのだ。
それが誰かは──もう知っている。
「……改めて、礼を言います。若き日、私を抱きかかえてくださったその腕に、いま私は生かされています」
「若。それは、拙者ではなく──この国を想った信長様のお心にこそ、言うべき言葉でござろう」
「……はい」
湯をすすりながら、私は木簡をそっと胸に当てた。
あれは、記憶の残響ではない。
託された語りそのものなのだ。
火に包まれた本能寺で、信長様が私に遺した言葉。
あの夜、最後に聞いたのは──
――語れ。
――美しきもののために、生きよ。
その声は、いまも耳に残っている。
それが誰のためなのか。民か、国か、それとも──
燃え尽きた過去のなかに、語るべき未来が潜んでいる。
◇
囲炉裏の火がはぜた。
「それは、いつから……?」
私はそっと尋ねた。
栗山利安の右手に見える火傷の痕。その古びた肌の歪みに、言葉を飲み込みそうになった。
「忘れ申したな。あの夜──若を抱き上げたときには、既に……」
利安は、鉄瓶の湯を椀に注ぎながら、まるで独り言のように続けた。
「炎に巻かれながらも、若の背に括られていた木簡が、ただ事ではないと、そう思うた。手が焼けようとも、落とすわけにはゆかぬ、と……」
私は、その木簡に手をやる。
節に刻まれた密教の符号。
伊賀に伝わる印だ。栗山はそれを見て、私の命をただのものとは思わなかった。
「信長様の──ご判断だったのでしょうか。なぜ、私に……」
「若。拙者は未だにわからぬことだらけでござる。されど……」
彼は椀を置き、私の目を真っすぐに見た。
「……この命が助かったのは、語るため。それだけは確かだと思うておる」
語るため。
私は小さく頷いた。
今はまだ、そのすべてを語るには至らぬ。だが、いつかきっと、私は──
信長様のために。
美しきもののために。
◇
かつて、信長様が口にされた言葉が、ふと胸によみがえった。
――美しきものこそが、守られるべきである。
それは何か。
民か。国か。名か。魂か。
まだ、私にははっきりとは言えなかった。けれど──
「利安……もう迷わぬように、私は語ろうと思う。信長様のために。美しきもののために」
「美しきもの……それは?」
「かつて信長様がそう仰ったのです」
利安は口元を緩めた。
「若は、ようやく語るべき時に至られたのですな」
私は、囲炉裏の火の中に、遠い夜の影を見た。
本能寺のあの光──信長様の眼差し──燃えさかる天井。
そして、あの声。
――語れ。
――美しきもののために、生きよ。
「利安。あの夜、私を救ってくれたのがあなたで良かった」
「若……」
「あなたに、語れる自分になったと、告げたかった」
囲炉裏の火が、またはぜた。
語ることは、痛みを呼び覚ます。
だが、語ることは、命をつなぐ。
◇
翌朝、私は利安と共に小さな沢を越え、山の尾根に出た。
京の町並みが、かすかな煙とともに遠く霞んでいた。
「伊賀に戻るのですか?」
「……はい。かつて訪ねたあの里で、語りの端緒に触れました。けれど、私はまだ、そのすべてを知らぬのです」
「再び、語るために?」
「語るために。そして、伝えるために」
利安は何も言わなかった。ただ、腰の荷を整え、静かにうなずいた。
「伊賀の山は深い。案内をつけましょうか?」
「ありがとうございます。……利安」
私は足を止め、少しだけ振り返る。
「もう、ここからは一人で参ります」
「……若」
「かつてあなたが私を背負ってくれたように、今度は自分の足で進みたいのです」
◇
山道にひとり、私は歩を進めた。
草葉を揺らす風が、信長様の言葉の残響のように耳をかすめてゆく。
――語れ。
――美しきもののために、生きよ。
語るとは、ただ物語を述べることではない。
真実に向き合い、過去と現在をつなぎ、未来に託す行いだ。
私は蘭丸として失った声を、長政として取り戻した。
そして、これからはその名も超えて──誰かのために、語ろうと思う。
信長様が信じたものを。
私が守ろうとしたものを。
栗山利安が託してくれたものを。
私のなかで燃え尽きた炎は、確かにまだ、命を照らしている。
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