BIC特区-第13話 アオイとナオユキ 1-2
ミサキに借りたロードバイクは、とても軽くて快適だった。動力アシストはないが、軽やかで乗り心地が良い。リュックサックには、ミサキが焼いたネクタリンのタルトが入っている。ミサキも誘ったが、別の約束があると断られた。
ナオユキが野営しているポイントに近づくにつれ、段差や砂利が増えてきた。しかし、最新のサスペンションのおかげで振動や衝撃はほとんど感じない。もう少しというところで、森の木々に阻まれたため、自転車を押して歩いた。
森を抜けると、広々とした平原が広がっていた。平原の真ん中に、三角のテントと小さく燃える焚き火が見える。近づいていくと人の気配は感じられないが、一応テントに向かって声をかけた。
「こんにちは、連絡させていただいたアオイです」
「……」
返事がない。やはりどこかに行っているようだ。自転車を近くの木に立てかけ、少し待つことにした。焚き火の横には背の低いテーブルと、それに向かい合う形でイスが置いてある。ランタンがぶら下げてあるスタンドは、いくつかの木をロープで結んで作られている。理にかなった作りで、これなら多少の風もものともしないだろうと感心していると、突然後ろから大きな声が聞こえた。
「いけない!」
アオイがびっくりして振り返ると、大きな塊が飛んできた。
「キャッ!」反射的に両腕で顔を守る。塊がぶつかった衝撃は思ったほど強くはなかったが、バランスを崩して尻もちをついてしまった。
「テッシュウ!いけない!」もう一度、力強い声が聞こえた。
恐る恐る腕を下げて目を開けると、優しそうな大きな目が目の前にあった。ハッハッハッとかかる息が少し獣臭い。
「びっくりしたぁ」
飼い主の男が近づくと、大きな犬は渋々といった感じでアオイから離れた。
「すみません、自分の体が大きいことを自覚していないみたいで、人を見ると嬉しくて飛びついちゃうんです。怪我はありませんか?」
男が日に焼けた顔で申し訳なさそうに言うと、筋肉で引き締まった腕を差し出した。
「大丈夫です」とアオイが手を伸ばすと、軽々と引き上げられた。
「初めまして、アオイと言います。突然の連絡だったのにありがとうございます」
「初めまして、ナオユキです。こいつはテッシュウと言います」
ナオユキの足元を見ると、アオイの腕ほどの太さの木が散乱していた。アオイの視線に気づいたナオユキが、焚き火のための薪だと教えてくれた。
「すみません、焚き火が見たいなんてわがままを言っちゃって。それに、時間も伝えずいきなり来ちゃって」
「いや、どうせ今日の分の薪を集めなくちゃいけなかったし、アオイさんがミサキさんの家を出てから、ミサキさんから連絡が来たので、概ねの着時間は想定していました。ただ、こいつが森の奥に走って行ってしまって、少し遅れました」
ナオユキが親指をテッシュウの方に向けて言うと、テッシュウは「ウォン」と低い声で鳴いた。
「昼飯まだですよね。今から作るので一緒に食べて、コーヒーはその後でいいですか?」
「はい、お昼ご飯までありがとうございます」とアオイは頭を下げた。
昨日、ミサキに特区では、本当に悪いことをしない限り、『すみません』や『申し訳ない』などの言葉は使わずに、『ありがとう』と言った方が好まれることを教わっていた。
ナオユキは手際よく昼食の準備を始めた。木の枝を組み合わせ焚き火の上に即席の三脚を作り、飯ごうを吊るしてご飯を炊き始める。次に、水と魚の干物が入った鍋を焚き火の上に乗せ、流れるような所作で腰からナイフを引き抜き、キノコや野菜を手際よく切っていく。
「私も手伝います」とアオイが言うと、
「では、アオイさんはそこに座って、飯ごうがチリチリ言い始めたら報告してください」と、焚き火のそばに置いてあるイスを指さした。
イスに座り、ナオユキのてきぱきと動く姿に見とれていると、伏せていたテッシュウが頭を上げ「ウォン」と低い声で鳴いた。びっくりしてテッシュウの方を見ると、飯ごうからチリチリチリという音が聞こえてきた。
「ナオユキさん、チリチリ言ってます」と報告すると、
すぐにナオユキが来て、火吹き棒で薪に息を吹きかけた。その途端、炎の勢いが激しくなる。少しして飯ごうを焚き火から外し、テーブルの上に置いた。
次に、ナオユキは鉄のフライパンを取り出してイスに座り、肉とキノコと野菜を炒め始めた。塩と胡椒で味をつけてから、フライパンごとテーブルの上に置く。その後、焚き火の上の鍋のふたを開けて味噌を溶き入れた。
あっという間に昼食が完成した。ナオユキは飯ごうの中蓋と外蓋にご飯をよそい、シェラカップに味噌汁を注いでくれた。いつの間に作ったのか、木を削った箸も手渡された。
「では」と姿勢を正してナオユキが手を合わせる。アオイも慌ててそれに倣う。
「いただきます」ふたり揃って浅く頭を下げた。
アオイはまず、味噌汁を手に取った。口に含むと、魚から出る出汁の濃厚な旨味と味噌のまろやかな風味が、一気に広がった。「美味しい!」思わず口にすると、ナオユキは嬉しそうに鮎の焼き干しを出汁に使ったと教えてくれた。
ご飯もふっくら炊けていて、おこげも香ばしくてとても美味しい。ナオユキの真似をして、野菜炒めをご飯の上に乗せる。肉をひと切れ口に入れてゆっくりと味わうと、滋味深い味が広がり、少し鉄っぽさが感じられるが、臭みはなくとても美味しい。
「これって何の肉ですか?」とアオイが聞くと、ナオユキはクーラーボックスの中から生の赤い肉を取り出して見せた。
「シカ肉です。ここで獲ったもので、ちゃんと処理しているので臭みがないでしょ?」
「初めて食べました。シカってこんな味なんですね」とアオイがまじまじと肉を見ていると、
「高たんぱく、低カロリー、鉄分も多い肉なので女性にもお勧めです」とナオユキが言い、そのまま立ち上がるとお座りをして待っているテッシュウの前に生肉を置いた。
テッシュウは生肉をくわえ、味わうように何度も噛んで飲み込んだ。満足そうに大きな舌で口元をベロリとなめると、伏せの姿勢になり目をつぶった。
大型犬の落ち着きのある緩やかな動作を見ていると、こちらまで穏やかな気持ちになる。アオイはテッシュウの首輪にN3デバイスが付いていないことに気付いた。
「テッシュウの首輪…」
「ああ、N3デバイスですか?付けていないんです」
今では、ペット用の首輪にN3デバイスをつけるのは一般的なことで、バイタルモニタや位置情報はもちろん、ストレス軽減、食欲調整、無駄吠えの抑制までTIと連携して行っている。その結果、ペットの寿命が飛躍的に伸びたため、非倫理的と非難する人も少なくなった。
「テッシュウの名前は、僕が好きな幕末の武士、山岡鉄舟からもらったんです。その山岡鉄舟の教えにこんな言葉があります」と言うと、ナオユキは箸を置き、姿勢を正した。アオイも急いで姿勢を正す。
「自然は教師なり、自然を眺めて学び、自然に即して考える」
「テッシュウの人生は普通の犬より短いんです。バーニーズ・マウンテン・ドッグの生まれたスイスでは『生後3年で若犬、3年経ったら良犬、その後の3年で老犬になり、それから先は神からの贈り物』なんて言われています」
「だから、テッシュウにはできるだけ自然の中で、自然のものを食べて生きてほしいんです。そして僕はテッシュウとともに生きることで様々なことを学び、考え、感じていきたいんです。これだけはTIがいくら進化してもできないことだと僕は信じています」
ナオユキの言葉から、強い信念のようなものを感じ、アオイは胸の奥底から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「あ、なんか熱く語っちゃいました」ナオユキは急に恥ずかしくなったのか、誤魔化すように急いでご飯をかき込み、むせた。
