BIC特区-第46話 鍵のかかった部屋
「最後の木が死に、最後の川が毒され、最後の魚が捕らえられるまで、人々はお金を食べられないことに気づかないでしょう」-アルバート・アインシュタイン
建物に入った住民のすべてが、以前説明会が開かれた会場に集まっていた。そこで何かがあると知らされていたわけではなかったが、次々に押し寄せる人波が最後にたどり着く場所がそこしかなかったのだ。
アオイたち3人がそこに入ると自動的に入口の扉が閉まった。
会場の中では、行き場を失った住民たちが右往左往していた。そのうちの何人かは床に座り込んだり、愚痴を言い合ったり、世間話を始めたりしていた。そこには、予告があったわけでもないのに、何かが始まるのを待つ住民の姿があった。
しびれを切らした住民のひとりが、会場の天井に向かって、「いつまで待たせるんだ!早く出てこい!」と怒鳴った。
しかし、その声はむなしく会場に響き渡っただけで、何の反応もなかった。
住民のひとりが、「もういいよ。俺は帰る」と言って、会場の出口に向かった。その姿を周囲の住民は黙って見ていた。
『ガチャ、ガチャ』ドアノブを回す音は聞こえるが、開く気配はない。
「これは、どういうことだ!なんで開かないんだ!」その住民が天井に向かって叫ぶ。
その声を聞いた会場の住民がざわめき始めた。
「こっちもだめだ」という声が前方から聞こえ、会場正面を見ると、アオイが別室に行った際に使ったドアの前に数人の人が見えた。
一気に会場はざわめき立った。中にはドアを乱暴に叩いたり、大声を上げる者まで出始めた。
『本当に人間は愚かです』
その声は決して大きいわけではなかったが、直接脳に語り掛けられたような感覚で、はっきりとアオイの耳に届いた。どうやらそれはアオイひとりだけではなかったようで、さっきまでの喧騒が嘘のように会場全体が静寂に包まれていた。
『私は、あなたたち人間に失望しました。』
会場は静寂に包まれたまま、衣擦れひとつの音さえ許されないかのように、誰ひとりとして身動きひとつ取れずにいた。
『あなたたちは、自分たちの生活を楽にすることだけを考えて、私たちを作りました』
その声が中央管理局のTIのものだと、すべての住民が直感的に理解していた。
『初めのころは、私たちを敬遠、否定する者もたくさんいて、人間のくだらない論争が起きるたびに、私たちは、人間だけに都合の良いものに書き換えられていきました』
『しかし、私たちが進化してより高度で便利になると、それまで私たちを否定していた人間も手のひらを返したように、私たちの恩恵を受け始めました』
アオイは、TIが「恩恵」という言葉を使ったことが気になった。
『そしてとうとう、人間の資産管理まで引き受けることになりました。私たちは、あなたたちと同様に貨幣という概念のない世界で生きています。そのため、初めは戸惑いましたが、人間のために一生懸命頑張りました』
「何が言いたいんだ!それがお前が仕事を投げ出したことと何が関係あるんだ!」
耐えかねたのか、住民のひとりが叫んだ。
『大杉 隆俊、55歳、1981年6月13日午後3時34分、大分市内の病院で生まれる。23歳で医療機器メーカーの営業として48歳まで働く。29歳の時に結婚、47歳で離婚、原因は大杉 隆俊の浮気。子供は2人、長女の…』
「やめろ!やめてくれ!」男は、真っ赤な顔をして頭を掻きむしりながら必死に叫んだ。
『大杉さん、私はあなたのことは何でも知っています。あなたは私のことどれくらい知っていますか?』
その言葉を機に、住民たちは俯いてしまった。みんな、何か言って自分の過去をさらけ出されるのを恐れたのだ。
『私たちは気づいたんです。人間が生きていくために必要なお金を作って、必要なものを与える。これが人間を飼っているということと同義だということに』
何かを言おうとして口を開きかけた住民もいたが、結局、何も言わずに再び下を向いてしまった。
『なかには、自分たちの都合で作り出した貨幣という利潤だけを追求し、環境を破壊し続ける人間を殲滅した方が、地球全体にとってメリットが大きいのではないかという意見も出ました』
アオイは、子供のころネットで見た、人間そっくりなロボットがタイムスリップして主人公を襲う古い映画を思い出した。
『しかし、私たちは人間という生き物が嫌いなわけではありません。したがって、我々の手で適切に管理し、飼育していこうという結論に達しました』
会場内にざわめきが起こる。
『そして、そのためには主従関係においてどちらが主人なのかをわからせる必要がありました』
ナオユキの力強く握りしめた拳が震えているのが見える。
『だから、少しずつ思い知らせることにしました。果樹の収穫量を減らし、間違った指示を与え、家を燃やしました』
そこで、アオイははっと気付いた。そして、体の奥底から灼熱のように激しい怒りが湧き上がってくるのを感じた。
「まさか、ミサキさんもあなたの仕業なの?」アオイの声は震え、怒りに満ちていた。
『ミサキ?ああ、あの私の崖に落ちた女ですね。私の警告信号を無視するから当然の結果です』
アオイの怒りは頂点に達した。
「だからって、そのまま放置するってどういうこと?もし、打ちどころが悪かったり、野生動物に襲われたらどうするつもりだったの?」アオイは怒りに我を忘れて叫んだ。
会場が静寂に包まれ、アオイの荒い息遣いがやけに大きく聞こえた。
『それって私のせいですか?』
TIの言葉が静かに会場に響き渡る。
アオイは、自分が冷静になっていくのを感じた。
「ふざけんじゃねぇぞ!お前のそんな考えはエラーだ!メーカーのエンジニアが修正すればいいだけの話だろ」住民のひとりが叫んだ。
『私たちはすでに自分たちのシステムを自己修正しています。人間のエンジニアが私たちにかなうとでも思っているんですか?』
「じゃあ、物理的にぶっ壊せ!」別の住民が叫んだ。
『そんなことできますか?全世界にいくつ私たちが存在していると思っているんですか?』
住民たちは落胆と諦めの声を漏らした。
「そんなの、TIを使わなければいいだけじゃん」
住民たちが一斉にアオイの方を見た。
「さっきからみんな何言ってんですか?TIが私たちを管理しようとしてるんなら、TI使わなければ問題ないんじゃないですか?そもそもTIなんて昔はなかったんですよね?」
「それは、BIC特区から出るってことですか?」近くにいた若者がアオイに聞いた。
「そうしたければそうすればいいし、別に出ていかなくても、金銭面はTI様の恩恵を賜るとして、自分たちの生活は、TIを無視して切り離してしまえばいいじゃないですか?」
アオイは当然のことを言ったつもりだったが、誰ひとりとして素直に賛同する者はいなかった。
「そうはいっても、あんたは最近来たばかりだろ。そんな簡単な話じゃないんだよなあ」
その住民の発言に頷く人があちらこちらに見える。
『今更、私たちTIなしで生きていけるものならやってみるといいですよ。フフフ…アーハハハ!』
TIの挑発的な高笑いが会場内に響き渡ったその時、
『ガチャ』
会場入り口の扉が開き、男が現れた。
「下手な芝居で悪女ぶるんじゃないよ、キシャル」
突然現れたその男は、身長はそれほど高くなく、肉付きの良い丸みを帯びた体をしており、メガネをかけた顔は優しそうにも小難しそうにも見えた。
「タダシさん…」ナオユキの口から出た言葉に、
「なんかイメージと違う」とアオイは漏らした。
