BIC特区-第21話 アオイとミサキ 2
アオイは、昨晩のミサキからのメッセージが気になって、いつもより早く目が覚めた。外を見ると、空が明るくなり始めていた。ベッドから出てトイレに行くと、すっかり目が覚めてしまったので、そのままキッチンに向かった。
『ゴリゴリゴリゴリ』。ミルのハンドルを回すたびに焙煎された豆が砕け、コーヒーの香りが漂ってくる。アオイは、この朝の儀式が好きだった。無心でハンドルを回す単調な作業は、すべての豆が挽かれて粉になったとき、小さな達成感を感じさせてくれる。
「エリザ、コーヒー淹れるからお湯を沸かして」
『わかりました。沸騰後、93℃になったらお知らせします』
キッチンの調理台に置いたコーヒーケトルから、湯気が立ち始める。IH(電磁誘導加熱)の2倍の効率を持つQH(量子熱伝導加熱)は、あっという間にお湯を沸騰させた。
『93℃になりました。温度をキープします』とエリザが教えてくれたので、アオイはドリッパーに入った挽きたての豆にケトルのお湯をゆっくりと注いだ。お湯を吸った豆が生き物のように膨れ上がる。そのまま少し待ち、膨れたコーヒー豆のドームを崩さないように慎重に残りのお湯を注ぐ。湯気とともに芳醇なコーヒーの香りが広がった。
アオイはマグカップにコーヒーを入れ、窓際に置いたイスに座ってその香りと味を楽しんだ。外を見ると、すっかり日が昇り、雲一つない青空が広がっている。エリザが気を使って窓を開けてくれる。朝のさわやかな風が、コーヒータイムをより贅沢なものにしてくれた。
思いのほか長い時間コーヒータイムを楽しんでしまったので、朝食は摂らずに着替えと簡単なメイクを済ませて家を出た。
ミサキの家までの道を歩き始めたアオイは、最初はミサキがどんな話をするのだろうと色々と考えながら歩いていた。しかし、清々しいひんやりとした空気と澄み渡る青い空を見ているうちに、「まあ、会ったらわかるか」という気持ちになり、朝の散歩を楽しみながらミサキの家を目指した。
家の前まで行くと、ポーチでくつろいでいたミサキが出迎えてくれた。
「ごめんね、緊急事態とかそんなのじゃないんだけど、遅かれ早かれ話さなきゃならないことだから、今話しておこうと思って」
アオイは、とりあえず良くない話ではなさそうなのでほっとした。
「朝ごはん食べた?」とミサキに聞かれ、アオイが首を横に振ると、「じゃあ、一緒に食べよう」と言って、部屋の中に入っていった。アオイもそれに続くと、「もうできるから、座って待ってて」と言い残し、ミサキはキッチンへ向かった。
しばらくすると、朝食の乗ったトレーを持ってミサキがキッチンから出てきた。アオイの前に置かれたトレーには、ごはん、味噌汁、納豆、漬物、つくだ煮など、絵に描いたような日本の朝食が並んでいた。ミサキが自分のトレーを取りにキッチンに戻るのを見ながら、アオイはトーストやサラダなどの洋食を想像していたので、少し意外に思った。
「意外って思ったでしょう。昔から朝は味噌汁じゃないとダメな人なの」
ふたりで手を合わせ、朝食を食べ始める。アオイは、味噌汁をひと口啜ってすぐに気づいた。
「これってアユ出汁ですよね」
「よくわかったね。美味しいよね」
「はい、昨日ナオユキさんに昼食をごちそうになって、そのとき飲んだのと同じ味と香りだったんで」
「時々、持ってきてくれるの、鹿肉とかも。ところでどうだったナオユキ君のところ」
「はい、とても楽しかったです。テッシュウもとてもかわいくて」
それから、アオイは昨日ナオユキのところであったことを身振り手振りで話した。ミサキは、笑顔でうんうんと頷きながら聞いていた。
朝食後、熱い日本茶を前に、ミサキは少しだけ真剣な顔で話し始めた。
「いつかは、アオイちゃんも出会う人だから、そんなに急ぐ必要もないかなって思ってたんだけど」
アオイは、お茶を手に持ったまま頷いた。
「昨日、ヒデオさんのところに行ったんだけど、最近、果樹の収穫量にばらつきが出ることがあるらしくて。果樹園はTIが木の状態をモニタリングして、適切な水分と栄養、温度、日照時間なんかを調整しているの」
アオイは、ヒデオの果樹園の様子を思い出しながら、「だからあんなにたくさんの種類の果樹を同じ場所で栽培できるんですね」と感心した。
「だから、TIの収穫予想量にばらつきが出ることはこれまでになかったらしいの。で、ヒデオさんはタダシさんに相談してみることにしたんですって」
「タダシさん?」
「そう、そのタダシさんのことについてアオイちゃんにも話しておかなくちゃと思って来てもらったの」
「へぇ、どんな方なんですか?」
「うん、その前に聞いてもらいたいことがあって、これは私の考えなんで気楽に聞いてもらいたいんだけど」
「はい」
「特区ではね、集落特有のルールや暗黙の了解みたいなものは存在しないし、作っちゃいけないとみんな思っているの。それぞれの考えで動いて、それぞれの生き方をするためにここにいる。だから、集落のみんなもルールなんかは作らずに暮らしてきてるの」
アオイは、黙ってうなずいた。
「まぁ、それも暗黙の了解と言われればそれまでなんだけどね」とミサキは笑った。
「ここからが本題なんだけど、私は誰かほかの人の話をするとき、自分の憶測だけでその人のことを話すのは絶対にしないって決めているの。私の言葉でその人のイメージを作るのはおかしいし、私も誰かの言葉で私を作られたくない。初めて会う人に勝手なイメージをもって会いたくないし、会われたくない」
そこまで聞いて、アオイはミサキが言わんとすることを理解した。
「わかりました。私もあんまり変なことは聞かないようにします。もし聞いても答えないでください」
「で、タダシさんのことなんだけど、何ていうか助けてくれる人」
「助けてくれる人?」
「そう、どこにいても、何に困っていても必ず助けてくれるの」
「いい人なんですね」
「うーん、いい人ってひと言で表すには難しいというか、何というか…」
ミサキの言いあぐねている姿に、アオイはタダシに対して興味がわいてきて、次の言葉を待った。
「珍獣」
「?」
「あ、いや待って。なんか変なイメージ持たれそうなこと言っちゃった。一回忘れて」
「ふふっ、大丈夫です。そのうちお会いできるのが楽しみになりました」
ミサキが困っている様子だったので、アオイはそう言ってお茶をひと口啜った。
「あと、アオイちゃん、これは重要なことだから覚えておいて」
ミサキが急に真面目な顔で言ってきたので、アオイは慌てて姿勢を正す。
「はい」
「タダシさんには、そのうち会えると思う。でも、それが今日かもしれないし、何か月も先のことかもしれない」
「はい」
「アオイちゃんが困っている時に現れるかもしれないし、何でもない時に現れるかもしれない」
アオイは頷いた。
「でも、決してタダシさんの家に直接訪ねていかない方がいい。さっき話した通り、偏見なんかを持ってもらいたくないんで詳しくは話さないし、本当はこんなことも言わない方がいいとはわかってるんだけど。どうしてもっていうんだったら当然止めないけど…」
「そんな風に言われたら、無茶苦茶気になるじゃないですか。でも、大丈夫です。わたし、ミサキさんのこと信頼してますし大好きなんで、しっかりと助言、頭に入れておきます」
「ごめんね、中途半端なことしか言えなくて。余計混乱させたよね」
「とんでもないです。気にかけてもらって嬉しいです」
それから、ミサキがヒデオのところでもらったアプリコットでジャムを作るというので、アオイも手伝い、一緒にジャムを作った。
「タダシさんかぁ、そのうち会えるのが楽しみだな」
アオイは、まだ見ぬ珍獣に思いを馳せながら家路についた。
