BIC特区-第6話 アオイとミサキ 1-2
家の中に入ると、リビングの真ん中には円形のダイニングテーブルがあり、向かい合う形で木製のイスが置かれていた。壁際のウォールシェルフには、本や小物がきれいに整頓されている。部屋の奥には、アイランドカウンターがあり、その向こう側に長い髪を後ろで束ねた女性の後ろ姿が見えた。
女性は後ろを向いたまま、「食べてく?持ってく?」と尋ねた。アオイが答えに困っていると、女性が振り返り、少し驚いた顔をした。その女性は、スレンダーな体形をしており、知的できれいなお姉さんといった容姿で、細いフレームの眼鏡の奥には驚いて見開いた目がアオイを見つめていた。
「あ、新しく来た人?」
「はい、アオイと言います。昨日隣に越してきました。よろしくお願いします」と頭を下げた。
「隣といっても結構距離があるけどね」と女性は小さく笑った。
「私はミサキ。もう少しで終わるから座って待ってて」と言い、再び背を向けた。
アオイは、言われるがままにリビングの椅子に座り、てきぱきと動くミサキの後ろ姿を見ながら待った。
しばらくすると、ミサキは大きなトレイを持ってリビングに入ってきた。
アオイが慌てて立ち上がろうとすると、「いいの、座ってて」とミサキが優しく言い、大きな皿をテーブルの真ん中に置いた。「今日はパイナップルケーキよ」と言いながら、彼女はにっこりと微笑んだ。皿の上には、小麦色の焼き菓子が山のように積み上げられ、甘い香りが漂っている。
ミサキはアオイに小皿とフォークを手渡し、コーヒーカップにポットからコーヒーを注いでくれた。
「なんか突然お邪魔したのに、ありがとうございます」とアオイがカップを受け取りながら言うと、ミサキは「ふふふっ」と笑って、「遠慮なく食べて」とケーキの乗った皿に手のひらを向けた。
「いただきます」アオイはパイナップルケーキをひとつフォークに刺し、そのまま口に運んだ。パイナップルの甘酸っぱさと、しっとりとした甘すぎない生地が絶妙なバランスで、いくらでも食べられそうだ。口の中のケーキがなくならないうちにコーヒーを啜ると、フルーティーな香りとコク、上品な酸味がパイナップルケーキとよく合い、幸せな気持ちで満たされていった。
「とっても美味しいです。パティシエだったんですか?」
アオイは、ケーキのあまりの美味しさに素直に驚き、ミサキに尋ねた。
「いや、税理士。数字ばっかり見てたの」とミサキは笑いながら答え、ひと口ケーキを食べて満足そうに頷いた。それから、数字に関する感覚が鋭いことや、お菓子作りを始めた経緯などを話してくれた。
「他の住民の人たちは何をしているんですか?」聞きたいことはたくさんあったが、まずはそれを尋ねた。
「んー、果樹栽培、野菜栽培、工房での作業、絵を描いている人、話を聞いてくれる人、何もしない人もいるね……いろんな人がいて、いろんなことをやっているよ。そのうち嫌でもいろんな人に会うから、自分の目で確かめるといいよ」
「そうですね。時間はたくさんありますもんね」
アオイは、まだ都会の時間の速さに振り回されている自分に気付き、少し焦りすぎているかもしれないと反省した。
「それにしても、このパイナップルケーキ、本当に美味しいです」
「遠慮しないでたくさん食べて。食べてもらうために作ってるんだから」ミサキはケーキを勧め、コーヒーも継ぎ足してくれた。
「じゃ、遠慮なく」と言って、アオイは二つ目のパイナップルケーキにフォークを刺した。
「ここは不思議なところだよ。アオイちゃんもすぐにわかると思うけど、お金という概念がないだけで、こんなにもいろんなものの価値観が変わるなんて思わなかった。例えば、このケーキにしても、作りたいから作ってるだけで、それを食べたい人が食べる。ただそれだけ」
ミサキは嬉しそうにアオイを見つめた。
「アオイちゃんみたいに美味しそうに食べてくれるのを見ているだけで幸せな気分になるの。ここに来るまで数字ばかり追っていて、今考えると何が楽しくて生きていたのか」
アオイは、お金の概念がなくなると今までの価値観が変わることをなんとなく頭では理解できた。しかし、実際に経験していないため、その感覚に慣れるには時間がかかりそうだと思った。
「大丈夫。時間はたくさんあるから、少しずつ自分の目で見て考えていけばいいよ」とミサキが優しく言ってくれた。
アオイは、また都会時間に振り回されていることに気付き、再び反省した。
結局、アオイは3個のパイナップルケーキと2杯のコーヒーを平らげた。
まだ時間があるので、次はどの家に挨拶に行こうかとミサキに相談してみた。するとミサキが、「パイナップルをくれた果樹栽培をしているヒデオさんのところにケーキを持っていくので、一緒に行かない?」と誘ってくれた。
