BIC特区-第36話 魔術はささやく
「うん、明日の9時にね。はーい、じゃあ待ってまーす」と言うと、ミサキは画面に向かって手を振った。
『接続を解除しました』それまでアオイを映し出していた画面が消えた。
最近は毎日アオイと話している。会えない日にも連絡を取り合っている。BIC特区に来てから、こんなに仲良くなった人はいなかった。いや、今までにこんなに気が置けない友人は初めてかもしれない。10歳も年下なので見栄を張らずに付き合えるのか、妹のように感じているのかわからないが、とにかく相性がいいのは確かだと自分では思っている。
今日は、ヒデオから分けてもらったイチジクでコンポートとドライフルーツをアオイと作る予定にしていた。しかし、午後から中央管理局に行く用事ができてしまい、アオイとの約束は明日に延期してもらった。
ミサキは無意識に首の後ろのN3デバイスをさすった。最近、デバイスの調子が悪く、部屋の温度が低すぎたり、家にいるのに不在モードになったりとおかしなことが続いていた。TIに故障診断してもらうと、センサーにエラーが見られるが詳細は分からないので、メーカーに見てもらうように言われた。少し前まではN3デバイスなんて存在していなかったのに、あっという間に生活に溶け込んでしまい、ちょっとしたことで不便に感じてしまう。
中央管理局事務所では、デバイスのテクニカルサポート担当のサトウが対応してくれた。
「最近、N3デバイスの調子が悪くて、部屋の温度が低すぎたり、不在モードになったりするんです」とミサキは状況を説明した。
サトウは首をかしげ、「それは困りましたね。TIの故障診断ではセンサーにエラーがあると言われたんですよね?」と確認した。
「はい。でも、詳細は分からないって」とミサキが答えると、
サトウはホログラムディスプレイを操作して、「一度お預かりして、技術部に診断を依頼します」と言った。
「ありがとうございます。N3デバイスがないと、ちょっとしたことでも不便に感じるので」とミサキが言うと、
「そうですね。N3デバイスが生活に溶け込んでいると、故障すると本当に不便ですよね。ところでミサキさん、ちょっとご相談なんですが」とサトウが切り出した。
サトウが持ってきたN3デバイスは、Next Navigator社が開発中のもので、従来の機能に加えていくつかの新しい機能が追加されていた。BIC特区内であれば、外部に情報が洩れる可能性が低いので、特区住民の誰かにモニターを依頼しようと考えていた矢先にミサキが現れたということだった。
ミサキは、特に断る理由もなかったので承諾した。
「使用報告については、こちらから定期的に連絡しますので、その時にお願いします。少しでも異変や違和感を感じたら、その都度報告をお願いします。また、いつでも従来品にお取り替えも致しますので、気軽にお申し付けください」
そこまで一気に説明すると、サトウはまっすぐとミサキの目を見て、「このことは、決して誰にも口外しないようお願いします」と少し声を落として言った。
そのサトウのひと言で、ミサキは誰にも言えない秘密をひとつ抱えてしまったことに少しだけ後悔した。
中央管理局事務所を出てロードバイクにまたがる。まっすぐ家に帰っても特にすることはないので、少し遠回りして帰ることにした。
「カレーム、家まで1時間くらいのコースを探して」
『こちらが家まで1時間のコースの提案です。山沿いにはラベンダーが群生しているポイントがあります』
瞬時にTIが応答し、目の前にホログラムディスプレイが表示され、家までの経路が現れた。
ミサキは、新しいデバイスの性能に感心し、「じゃ、このコースで」と言うと、ペダルを踏みこんだ。
TIが提案してくれたコースは走りやすく、30分ほど走ったところに現れたラベンダーの群生地もとてもきれいで、その香りで自然とリラックスしていくのを感じた。
しばらく走っていると、ミサキは道から外れた林の中に小さな人影を見つけた。一度自転車を止め、目を凝らして見つめる。それは確かに人間の後ろ姿に見えた。
あの後ろ姿は……。でも、なんでこんなところに?
「距離にして、100メートルってとこかしら」とミサキは呟いた。
ミサキは自転車を降り、そのまま押して林の中へと入った。林の中は木々がまばらに生え、うっすらと獣道のようなものが続いている。頭上には適度に茂った木々が日差しを遮り、辺りはほんのりと暗い。地面には落ち葉や小さな枝が散らばっていて、踏みしめるたびにカサカサと音が響いた。
少し考えた後、ミサキは近くの木に自転車を立て掛けた。木の陰に隠れる形でもう一度その人影を見てみた。大きな声を出せばもしかしたら聞こえるかもしれないが、自分の知っている人物か自信が持てず、なにより声を掛けづらい異様な雰囲気を感じた。
その人影は、よどみなく、まるで何かに引き寄せられるかのように林の奥へと進んで行った。
ミサキは、なるべく音を立てないように慎重に同じ距離を保ちながら後を追った。足元に注意を払いながら一歩一歩踏み出す。突然、「パキッ」と小さな枝を踏む音が響く。瞬間、全身が緊張し、心臓が早鐘を打つ。静寂の中でその音がやけに大きく感じられる。
ミサキは静かに前方の人影に目を向けた。
その人影は全く気にする様子もなく、まるで幽霊のようにふわふわと漂うような不思議な動きで林の奥へと進んで行く。
ミサキは、いつの間にか自分が極度に緊張していることに気づいた。人影の正体を追う必要などないし、気になるのであれば後で連絡して確認すれば済むはずだ。しかし、ミサキは恐怖心を覚えながらもその人影の後を追うことをやめることができなかった。それは、ただの好奇心とは違う、使命感のようなものを感じていた。
5分ほど進んだところで、その人影の動きが止まった。
ミサキは距離を縮めることなく、近くの木の陰に隠れて様子を伺った。遠くてよくわからないが、何かをしている様子はない。静寂の中で、身動きひとつとらずに人影の後ろ姿を見つめる。高鳴る心臓の音が異様に大きく感じられ、100メートル先の相手にも聞こえるのではないかと心配になった。
その時、ミサキのすぐ横の茂みが揺れ、「バサッ、バサッ、バサッ」と音がし、何かが飛び出した。驚いて「きゃっ」と短い悲鳴を上げ、その場にしゃがみ込む。すぐにその正体が鳥であったと気づき、視線を正面に戻す。
「あ、いない」
ミサキは急いで周辺を探したが、先程まで100メートル先にいた人影の姿は見えなくなっていた。彼女は慎重に、人影が立ち止まっていた場所へと進んだ。50メートルほど進んだところで、突然「ピーー、ピーー」という注意信号が鳴り出した。
N3デバイスから発せられたその信号は、持ち主に何らかの危険が及ぶ可能性がある場合や立入禁止の場所に近づいた場合に発せられる。しかし、ミサキたちがつけているN3デバイスは、Next Navigator社特製のBIC特区仕様になっていて、特区内での注意事項や禁止事項に触れる可能性がある場合にも信号が発信される。それがどちらの意味なのかを確認するためには、本来は手首に付けたデバイスを操作して、ホログラムディスプレイを開く必要があった。
ミサキは、一瞬ビクッとしたが、ホログラムディスプレイを開くことなく歩き続けた。さらに20メートル進んだ時、信号は「ピー、ピー、ピー」と先程より短い間隔に変わった。
「あと少しだけ」と歯を食いしばった瞬間、急に信号が止まった。突然、静寂に包まれ、ミサキは立ち止まって注意深く周囲を見回す。すると、その人影は先ほど立ち止まっていた場所から45度の方向、22メートル離れた場所に現れた。
少し姿勢を低くして、「距離37メートル」と小声で言うと、ミサキはその人影が最初に立ち止まった場所に静かに回り込んだ。その間も、視線はその人影から離せない。突然「ウォーン、ウォーン、ウォーン」と警告信号が入る。その場で固まって動けなくなったミサキの視線の先で、立ち止まっていた人影がゆっくりとこちらを振り返る。
その瞬間、ミサキは体が浮くような感覚に襲われ、直後、全身に強い衝撃が走った。薄れゆく意識の中でミサキは思った。
『なぜ、彼女が?』
『チリーン……』
