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愛とは何か

私、妻、先輩、後輩、の四人で居酒屋で酒を飲み交わしているとき、ふと「妻に有給を使っているのか」と、先輩から説教された。今の私は酷く疲れていたが、先輩から言葉のパンチを受けるのも久しぶりだったので、言われるがままに殴られることにした。
週末は休むことに使う、でも、有給はどうだ。というか、妻と一緒に過ごす時間を作っているのか。というのが先輩の言い分だった。

そういう意味では、最近妻とはたくさんギュッとしていない。特に旅行とか、遠出していないことがやり玉に挙げられた。お互いお酒も入っていて、ディベートになった方がやりやすそうだったので、私は先輩に文句をたれながら刃向かった。

私は妻を愛している。愛しているが、一人で居たいのだ。私は家族と一緒に居る時間が苦痛でたまらなかった。夏はキャンプや釣りに、冬はスキーにつれていかれたが、どれも決して面白いものではなかった。旅館が好きだった。静かにゲームをして過ごすのが好きだった。そういうものを全て封殺してくる旅行とか言うイベントは、私にとって不愉快でしかなかった。そして、新たな家族である妻とも、そんな不愉快な時間は過ごしたくなかった。私は外に出て自分の思い通りに行かない時間が続くと不愉快になる。そんな姿を妻に見せたいとは思えない。どんなに妻が旅行を望んでいるといっても嫌だ。

先輩は頭を抱えていた。私は旅行にも行きたくないし、行きたいところもないし、本当に行きたいところがあるなら妻が強引に私を連れて行くだろう。と伝えると「それは愛されているんであって、愛しているんではない。愛を返しているとはいえないんだ」と言った。愛していると伝える、自分の時間を相手に渡す、そういうことをしていないのではないか。そう問われた。

そのとき、妻が隣に居たので「そうなの?」と聞いた。先輩は自分の隣にいた後輩に「お前はこうはなるなよ」というようなことを言っていた。全く、確認をすることの何が悪いというのか。先輩曰くのところ「俺の目の前で確認してんじゃねぇ」とのことだった。TPOである。ただ、そうはいってもいるっちゃいるので、ここで確認するのが一番手早い。

先輩は、愛を伝えたのにうまくいかなかったのだという。そして私は、凄まじく愛されている。実際問題、今後の人生妻を超える人は現れないだろう。その妻と一生生きていく、その一生にあたって、すりあわせをきちんとしているのか。と、問われた。
私は「正直、自信はないです」と言った。できているとか、いないとかではない。すりあわせる能力が私にあるのか、自信がなかったのだ。

私にも楽しいことがある。楽しくて、楽しくて、ずっとしていられることがある。ずっと楽しくて、ふと振り返ると、誰も居ない。そういう経験をしたことは、一度や二度ではない。私が楽しいことや、私の楽しい姿は、他の人にとってはさして楽しくないらしいのだ。だから、私は自制するようになった。楽しいことは、人とはしない。私が楽しくても、相手が楽しくないからだ。ゲーム、仮面ライダー、なんでもそうだが、最後は一人である。

だから、一生を超えることが分かっていても、自分と一緒に過ごす人が楽しいかなんてわからない。楽しいかもしれないし、楽しくないかもしれない。それを私が感じ取ることは非常に難しいのだ。ましてや、相手に「楽しい?」と聞くのは私が不愉快なことの一つだ。聞かれるといつも思う。「お前の不安を解消するために遊んでるんじゃねぇよ」「ゲームの方がマシ」「今、お前に聞かれるまではまぁマシな気持ちだった」総じて「楽しくないです」という気持ちだった。両親へのヘイトだ。加えるなら「そりゃ、お前は子どもの成長っていうコンテンツを楽しんでるんだからおもろいだろうさ」という気持ちだ。だから、楽しさは分かる。

父にとって私は、最初の一匹のポケモンと同じなのだ。そして、それは「データなんかと一緒にするな」と言われるくらい分かっていない。私の最初の一匹は、ゲームが進化し、ハードが変わる中でも必死にポケモンセンターに連れて行ったり、ゲームハードを変えたりしてもう25年連れ添っている相棒である。名前をジュカインという。いくつものコンテストと、いくつもの地方のチャンピオンをなぎ倒したのはまぁ良いとして、思い入れのある一匹で「絶対消えてほしくない」という一心で様々な地方を巡らせた。面白くはなかったと思う。でも、自分のエゴでジュカインは様々な世界へ時空を飛んで旅をさせられた。それを捕まえて「楽しいか?」などと話すのは、最悪リーフストームを食らう覚悟である。「別に」みたいな態度だったらちょっとうれしい。苦ではなかったということだから。「楽しい」ぶっきらぼうに言ってくれたらそれもうれしい。私の問いかけ以上に今何か、集中しているということだから。

そういう機微もなく笑顔で「うん! 楽しいよ!」しか、回答権のなかった問いは「はい」「いいえ」の二択ぐらいは用意されているゲームよりも遙かに退屈で、むしろ「いいえ」を選んでも「しかし勇者よ」と続けてくる「断っても依頼を受けるまで同じ話をループするキャラクター」並みのウザいあるあるネタでしかない。序盤なら許せるが、中盤終盤でわかりきった質問をするな。旅をセーブして終えられないだけ苦痛であることが分からない人間だから「楽しい?」なんていう言葉が悪気もなく出てくるのだ。食らえリーフストーム、外出なんか嫌いだ。

そういうわけで、私は妻に楽しいか確認するのが怖い。それでは私も両親と同じになってしまうからだ。妻が私に気を遣って楽しさを演出するとは思えないが、そうではなくて父と同じ質問を口にするのが嫌なのである。楽しい? と口にしようとすると、頭の中の私が「その質問はおもしれぇな、逆に今どこが楽しいのか一個でもあげられるのか」と罵詈雑言を放ってくる。私にとって「楽しいか」は禁句なのである。口にすること自体が不愉快で、恐怖の象徴なのだ。

なにより、二人でやって楽しいことは別に一人でも楽しい。いや、一人の方が良い場合もある。テレビ番組は、一緒に見るよりそれぞれで見て答え合わせのように話す方が良いし、勉強は何人かでやるより一人でやった方が効率が良い。私にとってレジャーとはそういうものなのだ。一人で良いじゃない。何が不満なのか。

すると先輩は「じゃあ、奥さんがお金を貯めてだ。二人分だぞ、お前の分も貯めて、一緒に行きたい。ってチケットを出してきたらどうする。それでも一人で行けって言うか」と聞いてきた。考えたこともない発想だった。すると妻は横から「そんな感じでマツケンのコンサートに連れて行きました」と言った。先輩は目を見開いて「じゃあ、どうだった?」
私は「まぁ面白かったですけど」と言った。「じゃあ、奥さんも同じだと思わない?」
「どうでしょう、別の生き物なので……」
「じゃあ、聞いた?」
私は妻の方を見た。
「面白かった?」
先輩はまた後輩の方に体を向けて「お前、こうはなるなよ」と言った。その質問を自分の目の前で私がしているのが相当面白かったらしい。後輩も眉間にしわを寄せて笑う器用なことをしていた。妻は「面白かったよ」と言った。私は続けて「でも二人で行くのってどうだった?」と聞くと「万一マツケンの歌が酷いクオリティで、悪口を言いまくっても私の嫌いにならないから、連れて行って良かったと思うよ」と言った。そういう考え方もあるか。
先輩は「奥さんは楽しかったし、リラックスできたわけじゃんか」と言った。私はリラックス、という言葉にかみついた。

「リラックスはどうでしょうね? 私は自分と一緒に居る人がリラックスできるイメージが湧きません」
「それ、ちゃんと奥さんに聞いた?」
私は横を向いた。
「リラックスできてるの?」
「できてるよ」
妻が言った。
「本当にお前は。お前って言っちゃった。でも、お前は本当に」
先輩は拳に頭を埋めんばかりに深く俯いた。
「お前は頑張ってるよ。仕事してさ、ボロボロになってるじゃない。でも、そうじゃなくてさ。奥さんのために、自由な時間を渡してあげようとは思わない? 週末とかじゃないよ? 例えば有給を使うとか、一日どこかに出かけるとかさ。奥さんにさ『一日空けるからどこか行こうよ』とかさ。そういうことをしてあげるのはどうだ?」
あくまで提案だった。途中、後輩に「今って一年目の有給いくつだっけ?」と確認もしながら、一日二日を週末以外で開ける予定は、具体的憎むことができるんだと教えてくれた。
私はそれを理解しつつも、どうしても旅行や外出がストレスが溜まる、あるいは不安でたまらないことを伝えた。しかし先輩も引かない。私のその強いこだわりで、妻に我慢を強いていることを理解しているのか、と問うてきた。「確かに、本当に行きたいことには無理矢理連れ出してくれると思う。でも、それはすごい愛されてるってことなんだよ。その愛に応えてる? 愛を返してる?」

「自信がないです」返せているか、分からないのではない、どうすれば返せるのかわからないのであった。そして、その愛を返すという行為が具体的にどのようなものを指すのか分からない。先述したとおり、私は外出が嫌いだ。人との外出は特に嫌いである。先輩や後輩、妻と飲み交わすぐらいで、そこからさらにどこか外へ出かけようという気分にはならない。私は外へ出かけると不愉快になる、それを退けるために本を読んだりパソコンを持ったりして自分だけの空間を作ることには余念がない。だからこそ、私と一緒に居ることで何が返せているというのだろう。私は妻に優しく愛されている。しかし、私は嵐のような愛しか受けたことがない。不愉快で、しかめっ面をしながら通り抜けるのを待つような愛だ。そして妻からの愛も、真横から弾き飛ばされるような愛だ。ビリヤードに似ている。思い切り吹き飛ばされて、妻の機嫌が満足したら終わりの愛だ。

では私の愛は何か? それは制約しないということである。許容する。何をしたって良い。その範囲を可能な限り広く取る。対話する。暴力を振るわない。好きにしていい。自由にしていい。どこまでも遠くに行くが良い。それを邪魔しないことが、私の愛である。

でもそれでは妻に愛は返せない。先輩は、そういうことが言いたかったのかもしれない。時間を取って、妻を愛せ。分かっているつもりだった。でも、どうすればいいのかわからない。好きにすれば良いと思う。私は、好きなことを制約されてきたから、それをしないことが愛なのに。好きなものを「たかが」と言われる人生だったから、私の分からないものを否定せず、触れずに過ごすのが私の愛だった。

妻を抱きしめもする。でも、重いからやめてといわれる。つまるところ、それが私の愛なのだ。

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