【僕】厳かさ〜思い、祈り、日本の心〜
東京・丸の内の喧騒を抜けて
東京・丸の内。
高層ビルが立ち並び、ビジネスマンたちが行き交う。
電車の発着アナウンス、人混みの足音、どこかせわしない空気がそこにはある。
でも、その喧騒を抜け、皇居前広場へと足を運ぶと、一気に空気が変わる。

なぜだろう?
視界が開け、風が抜ける。
周囲を見渡すと、石畳と緑、そして大きな空。
ただ立っているだけで、自然と背筋が伸びるような気がする。
ここには、ただの公園とも違う、
何か「思い」のようなものが漂っている気がする。
かつて訪れた場所と皇居前広場の違い
これまで、いくつかの歴史的な場所を訪れてきた。
例えば、紫禁城。
そこは、巨大な城壁と壮麗な宮殿が並ぶ、まさに「権力の象徴」。
かつて皇帝がすべてを支配し、威厳を誇示するために造られた場所だ。
景福宮も同じく、王が暮らし、政治が行われた場所。
華やかな色彩、精緻な装飾、そして格式高い佇まい。
王朝の力を視覚的に示す空間だった。
兵馬俑に至っては、皇帝の死後の世界を守るために作られた、圧倒的なスケールの地下軍団。
あの場に立つと、権力とは時を超えてもなお存在し続けるものなのだと感じた。
そして、日本の国会議事堂。
ここもまた、国家の意思決定が行われる場所であり、政治の中心。
堅牢な建築、厳粛な雰囲気、ここには「制度としての権威」が確かに宿っている。
しかし、皇居前広場は、どこかそれらとは違う。
紫禁城や景福宮のような「絶対的な権力の象徴」ではなく、兵馬俑のように「死後にまで続く権威の表れ」でもない。
国会議事堂のような「制度の力」を示す場でもない。
むしろ、ここには「思い」や「祈り」のようなものがある。
厳かさとは何か?
「厳か」という言葉には、単なる格式や威厳だけではなく、「静かな思いが蓄積された空間」 というニュアンスがあるように思う。
例えば、神社の鳥居をくぐるとき、
茶室に足を踏み入れるとき、お寺で手を合わせるとき——あの、一瞬空気が変わる感覚に似ている。
皇居前広場にも、そうした「静けさの重み」がある。
ここには、何百年もの間、人々が行き交い、時には歴史の舞台となった場所。
その蓄積が、この厳かさを生んでいるのかもしれない。
お墓参りとつながる感覚
この感覚は、どこかで経験したことがある。
そう、お墓参りのときだ。
静かに墓石の前に立ち、手を合わせる。
そこに眠る人の顔や声は、もう遠い記憶の彼方にある。
だけど、不思議と「そこにいる」と感じることがある。
風が吹き、木々が揺れる音が響く。
その静けさの中に、長い時を超えてつながる何かがある。
それは、皇居前広場で感じたものと似ていた。
この場所にも、ただの歴史的な遺産以上の、「思いの蓄積」があるのではないか。
祈りの空間としての厳かさ
皇居前広場には、過去の「権威」の象徴ではなく、「受け継ぐもの」「祈るもの」 としての空気がある。
権力を誇示するための大きな建造物ではなく、広く開かれた空と、静けさ。
その静けさの中に、長い時間の流れと、人々の思いが重なっている。
だから、ここへ来ると、言葉を選びたくなる。
そして、何かに祈りたくなるし、誰かを思いたくなる。
それが、「厳かさ」というものなのかもしれない。
まとめ
まとめると、僕上手くいかないときは、お墓参りから始めます。以上です。
近藤魁人 拝
