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私は「愛」が怖い

巷に溢れる「愛」。
私は、いつもそれをどこか冷めた目で見ている。
みな、「愛」という言葉を簡単に持ち出すが、お前の「愛」はいかほどのものなのか。
それは、どれほど純粋で無垢なものなのか。
その裏には「興味本位」「ご都合主義」「世間体」などはひとかけらも、塵かすみほども詰まっていないと、全世界の者の前で嘘いつわりなく宣言することができるほどの高尚なものなのか。
お前の愛は「偽善」ではないのか。
お前の愛はお前だけの「エゴ」ではないのか。

では、私の愛は。
私の愛は、「偽善」である。
私の愛は、「エゴ」である。
私のなかに、純粋で、無垢で、高尚な「愛」なんて存在しない。

幼い頃から幾度となく言われてきた。
「お前は本当は優しくない」と。
「お前には思いやりがない」と。
「お前には愛がない」と。
目の前でオセロの黒い石を並べて見せられて「お前の心はこんなに真っ黒なのだ」と。
30年以上経って「覚えてはいないけれど」と一応の謝罪を述べられたとしても、もうすでに、私の心は真っ黒なのだ。
「偽善」や「エゴ」の詰まった「愛と見せかけたもの」を持つ者として、私の脳は私を認識している。

巷には「愛」が溢れすぎている。
「家族愛」「夫婦愛」「兄弟愛」「親子愛」「ペット愛」「友人としての愛」「隣人愛」……。
それらに触れそうになるとき、私は、ごくりと固唾を飲む。
腹に力を入れる。
目をギュッと凝らす。
よほどの覚悟を決めなければ、「誰もが感動するような愛の話」に触れることはできないのだ。
たとえnoteで交流のある人たちのエッセイであっても。

私は、「愛」が怖い。
人が盛大な「愛」を語るとき、その大きな光によって、「偽善」や「エゴ」の塊でできた自分の影がより濃く感じられるのだ。
人々がまばゆいばかりの「愛」という光を両手を広げて放つとき、私はとても孤独だ。
その光を放つ者が、自分に近しく感じられる関係性であるときには、その孤独はより一層増してしまう。
大好きなのに。
大好きな、人たちなのに。

私は、両親が大好きだ。
私は、夫が大好きだ。
私は、娘が大好きだ。
私は、友人が大好きだ。
私は、星読み仲間が大好きだ。
私は、前職で仲良くしていた人たちが大好きだ。
私は、noteの人たちだって、大好きだ。

しかし、どうしても「愛している」なんて言えない。
私が「愛している」なんて言ったところで、その「愛」にはたくさんの不純物が混ざっていて、ちゃんちゃらおかしいおもちゃのアクセサリーみたいだ。
そして、どうしたって、私は巷に溢れる「愛」の不純物に目を向けようとしては心を冷ましてしまう。
純粋に大手を広げて「愛している」と叫ぶことができる人たちが、羨ましい。
「大好き」なら、こんな私でも、両手を広げて、大きな声で、叫ぶことができるのに。
「愛している」と「大好き」は、私の中で、どうしてこうも違うのだろう。

私が考える「愛」は、純真無垢で高尚なもの。
不純物が霞ほども混ざらないもの。

そして、私にとっての「愛」は、嫌悪の対象。
一方で、恋い焦がれるもの。
一方で、孤独にさらされるもの。
一方で、憧れるもの。
一方で、冷めるもの。
一方で、自分の中に取り入れたくてたまらないもの。
これらの、また、これら以上の言葉にできない物ものをすべてひっくるめた結果、「私は愛が怖い」。

だれか、こんな私を救ってはくれまいか。
感情をもつ生き物に生まれながら、「愛」というものに、自身を委ねることができない、こんなひねくれた私を。
自身の中に「愛」を見つけられないばかりに、巷に溢れる大方の「愛」さえも疑ってしまう私を。

しかし、こうやって「だれか私を救ってくれ」と叫ぶわりに、いざ救いの手を差し伸べられたときには、私は疑いの念を持ってその手を取ることができないのだ。
「愛に戸惑う他人に心を向ける人間など存在しないのだ」と。
「みな自分のことで精一杯なのだ」と。


結局は、私自身が「愛を怖がる」私を救うしかないのだ。

私は、半年前のnoteで「『あい』なんてしらねぇ」と叫んだ。

しかし……。
私は「愛」を意識している。
それも一等特別に。
私は、純粋無垢な、高尚な愛を自分の中に得たい。
私は、私のなかに「愛」を取り入れたい。
そして、自分のなかに芽生えた「愛」で、家族や友人たちを包みたい。
私は、いつか両手を広げて「愛している」と光を振りまける人間になりたい。

反省して、内観して、学んで、拒絶して、でもまた食らいついて……。
それらを何度も何度も繰り返して、私はこれから貪欲に「愛」を得る旅をする。


「愛なんて知らねぇ」なんて、もう逃げない。



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