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ピティナというピアノコンクールの光と影。ーーエビデンスに溺れた親の解剖録

ごきげんよう、キトリです🪭

この記事は、自分の実体験をもとに、魂を込めて、約1ヶ月をかけて書き綴りました。

今の私が、子育てにおいて余白や親子関係を何よりも大事にしているのは、このピティナでの教訓があったからに他なりません。

中学受験の世界とも重なる、過酷なピアノコンクールの世界をどうぞご覧ください。

プロローグ:微笑みの修羅場と、狂気のドレス

華やかなホールのロビー、クリスタルのシャンデリアの下で、彼女は立っていた。

5歳の長女。パステルブルーの、ふんわりとしたチュールが重なる美しいドレス。髪は丁寧に編み込まれ、小さな頭には揺れる髪飾り。カメラを向ければ、彼女は練習通り、完璧な「作り笑い」を浮かべてみせる。その写真だけを見れば、誰もが「幸せな音楽教育の最高峰」だと思うだろう。

しかし、その薄いドレスの裏側に隠された真実を、当時の私は見ようとしていなかった。

写真の背後にあるのは、1日3時間、100回にも及ぶ同じフレーズの無機質な反復。思い通りに指が動かない時に流れる、静かで絶望的な涙。そして、それを「あなたのためよ」という甘美な呪文で封じ込め、ピアノの前に縛り付けていた、私という名の「鬼」の姿だ。あの日、私たちは間違いなく音楽を奏でていたのではない。何かに、取り憑かれていたのだ。

客観的に見れば、それは明らかに異常だった。知性的であると自負していた私の理性は、コンクールという「数値化される評価」の前に霧散していた。指導者が掲げる「全国大会」という旗印が、いつしか私の人生の成否とすり替わっていた。
娘の尊厳よりも、譜面通りの正確さを。娘の笑顔よりも、審査員の評価を。私は「教育」という免罪符を掲げながら、その実、わが子の心という聖域を、大人たちの野心と承認欲求の生贄に捧げていたのである。

本稿は、ピティナ・ピアノコンペティションという「努力が可視化される聖域」において、いかにして親がその熱狂に飲み込まれ、構造的な歪みに加担してしまうのかを綴った、血の通った解剖録である。これは、かつて「良き母」を演じながら、家庭という密室で娘の心を削り続けていた私自身の、痛切な反省の記録だ。

あなたが今、その子の背中に向けている眼差しは、本当に「愛」だろうか。それとも、あなたの「エゴ」が形を変えた「呪い」だろうか。

第1章:エビデンスという名の「逃げられない檻」

私たちは、情報の海に生きている。「ピアノは脳に良い」「早期教育が非認知能力を育てる」――。こうした、もっともらしいエビデンスの断片が、時に親を救い、時に親を「逃げ場のない檻」へと追い込んでいく。

脳科学の罠――「HQ」という名の免罪符

ピアノは脳梁を太くし、HQ(人間性知能)を高める唯一の習い事である。

教育熱心な親であれば一度は目にしたことがあるであろう、この有名な言説。私にとっても、それはピアノを続けさせるための強力な理論武装だった。

「今、この子が流している涙は、将来の脳の発達のためのコストなのだ」
「HQが高まれば、学力も社会性も、すべてが手に入る」

データは、親の良心を麻痺させる。数理的なエビデンスを信奉する理知的な親であるほど、目の前のわが子の「嫌だ」という生身の拒絶よりも、紙の上の「統計的優位性」を優先してしまう。ピアノの音色が、いつしか「脳を鍛える機械の駆動音」にしか聞こえなくなっていた。私たちは、音楽という芸術を愛していたのではない。脳のパフォーマンスを上げるための「投資」を行っていたに過ぎないのだ。

「GRIT」という名の呪縛――親の「鬼」化を正当化するプロセス

近年、教育界を席巻した「GRIT(やり抜く力)」という言葉。この言葉もまた、親を焦燥へと駆り立てる一助となった。

「困難に打ち勝ち、コンクールをやり遂げることで、一生ものの粘り強さが手に入る」
「ここで投げ出したら、この子は一生『逃げ癖』がつくのではないか」

そう自分に言い聞かせることで、私は自身の中に宿る「鬼」を正当化した。5歳の子供が、3時間の練習に耐えられずに床に突っ伏して泣いていても、「これはGRITを育てるための必要な負荷なのだ」という論理で、その小さな背中をピアノへと押し戻した。

だが、本来のGRITとは、内発的な動機付け――すなわち「自らやりたい」という熱意から生まれるものではなかったのか。大人の野心を「忍耐教育」という言葉でコーティングし、わが子の尊厳を削り取っていく。それは教育ではなく、単なる大人のエゴの押し付けでしかないことに、当時の私は思い至ることすらできなかった。

知性があるからこそ陥る「不均衡」の悲劇

皮肉なことに、親に知性があり、メタ認知能力が高いほど、この罠は深く、残酷になる。

なぜなら、私たちは「今、この瞬間の子どもの悲鳴」を、「将来の幸福」という不確かな未来予想図で相殺する術を知っているからだ。
論理的であろうとすればするほど、わが子の情緒的な訴えは「一時的なわがまま」として処理され、合理的な「投資判断」が下される。

「今、コンクールで結果を出せば、自信がつく」
「今、苦労しておけば、中学受験でも努力できる子になる」

こうした計算高い合理性が、親子間の「感情の不均衡」を決定的なものにする。親は未来を見据えているつもりで、実は「今、目の前にいる子どもの人格」を、一歩ずつ踏みにじっていたのだ。

エビデンスという檻の中に閉じ込められていたのは、子どもではない。
正論という呪縛から逃げられなくなっていたのは、他でもない、私自身だったのである。

第2章:グランドピアノの重石と、サンクコストの呪縛

ピアノ教室の薄暗い廊下には、いつも「光」の記録が並んでいる。
コンクールで入賞し、黄金のトロフィーを抱えて満面の笑みを浮かべる子供たちの写真。「全国大会出場」「金賞受賞」――。その輝かしい戦歴の横に、先生は静かに、しかし抗いようのない重圧を添えてこう囁く。

「あの子も、あの子も……結果を出しているご家庭は、皆さんグランドピアノに買い替えられましたよ」

物理的投資――「退路」を断つ巨大な木箱

わが子を愛しているからこそ、その才能を伸ばしてやりたいと願う親にとって、その言葉は「踏み絵」のように轟く。子供自身も、写真の中のトロフィーに憧れ、「私もあれが欲しい」と目を輝かせる。
その純粋な願いを叶えるため、私たちは数百万という大金と、都市部の狭いマンションの貴重な一室を、巨大な黒い木箱に捧げる決断をする。

リビングの半分を占拠するグランドピアノ。それは単なる楽器ではない。親にとっては「もう後戻りはできない」という、自分自身への退路を断つ儀式である。

普段マイカーを持たずカーシェアで済ませるような合理的な生活を送っていても、ピアノだけは「所有」しなければならない。その矛盾に目をつむり、私たちは「環境を整えるのが親の役割だ」という大義名分を自分に言い聞かせる。だが、その瞬間、ピアノは「音楽を楽しむ道具」から、家族の生活を圧迫する「重石」へと変貌を遂げるのだ。

サンクコスト・バイアス――「投資の回収」という名の執着

ここから、親の心理は急速に歪み始める。
経済学でいう「サンクコスト(埋没費用)」の呪縛だ。

「これだけの金額を払い、これだけの生活空間を犠牲にしたのだから、何としても結果を出さなければならない」

ピアノを買う前は、子供の楽しそうな姿を見ることが目的だったはずだ。しかし、ひとたび巨大な投資を行ってしまうと、親の目的は「投資の回収」へとシフトする。1日3時間の練習。それはもはや音楽の探求ではなく、失ったコストに対する「義務」と化す。

我が家に鎮座する古いグランドピアノ。それは、かつて私を音楽の世界へと誘ってくれた懐かしい戦友のはずだった。しかし、ピティナという戦場に身を投じた時、そのピアノは娘を縛り付け、私を追い詰める「鎖」へと成り下がっていた。

張り紙に怯える日常――精神を摩耗させる防音の壁

さらに親を追い詰めるのは、物理的な音の問題だ。
都市部の集合住宅において、グランドピアノの音量は暴力に近い。防音マットを敷き詰め、窓を閉め切り、常に「近所迷惑」の不安と隣り合わせで練習を強いる。

マンションの掲示板に「楽器の音に関する苦情」の張り紙が出されるたびに、心臓が跳ねる。その恐怖心は、そのまま子供への怒りへと転嫁される。

「こんなに気を遣って練習させているのに、どうして集中しないの!」
「せっかく高いピアノを買ったのに、そんなやる気のない音を出さないで!」

近隣への申し訳なさと、投資を無駄にしたくないという執着。その板挟みの中で、親の心はボロボロに摩耗していく。そして、そのストレスの矛先は、常にピアノの前に座る小さな背中に向けられるのだ。

私たちは、子供の幸せのためにピアノを買ったはずだった。
だが、そのグランドピアノという重石が、いつしか家族の笑顔を押しつぶし、子供の尊厳を奪う見えない鎖になっていたことに、当時の私は気づく術を持たなかったのだ。

第3章:家庭内格差というタブー――「一人っ子有利」の残酷な真実

コンクールの世界には、公然と語られることのない「不都合な真実」がある。
それは、「一人っ子が圧倒的に有利である」という冷酷なまでのリソース理論だ。

ピアノという習い事は、子供の才能以上に「親の狂気的な伴走」を必要とする。1日3時間の練習に付き添い、一音一音に神経を尖らせ、ミリ単位のタッチの修正を強いる。その密室での修羅場において、親のリソースは100対0で1人の子供へと注ぎ込まれる。

iPad育児という名の「放置」と、リソースの奪い合い

私の長女の指先が紡ぐ完璧な一音を追い求めている間、次女はどこにいたのか。
次女に与えられたのは、温かな親の視線ではなく、締め切られた別室でチカチカと光る「iPad」という名のデジタルベビーシッターだった。

「ごめんね、今だけだから。今日だけだから」
その言葉は、次女への謝罪ではなく、自分の罪悪感をなだめるための麻薬のような言い訳だった。その「今だけ」が1ヶ月続き、3ヶ月続き、ついにはコンクールシーズンの半年間、次女の日常を支配する。
リビングからは研ぎ澄まされたグランドピアノの音が響き、別室からは無機質なYouTubeの電子音が漏れ聞こえる。この音のコントラストこそが、我が家における光と影の不均衡の象徴だった。

長女をコンクールの舞台で輝かせるための「燃料」として、私は次女の貴重な幼少期の時間を、文字通り燃やし続けていたのだ。

罪悪感が生む「歪んだ甘やかし」

次女に対する申し訳なさは、やがて「規律の欠如」という形で現れる。

長女には1ミリの妥協も許さない厳格な教育者として振る舞いながら、放置し続けた次女に対しては、機嫌を取るためにお菓子を与え、動画の視聴時間を制限なく延長する。

「放置しているのだから、せめてこれくらいは……」という歪んだ贖罪意識が、教育方針の一貫性を失わせる。

果たして、次女はあの時、何を思っていたのだろうか。
必死の形相で叱咤する母親と、泣きながら鍵盤を叩く長女。その異様な光景を、次女は幼い瞳で静かに見つめていた。まだ自分の感情を正確に言語化できない次女に、その胸中を聞く術はない。ただ、次女が時折見せた、どこか諦めたような、空虚な微笑みだけが、私の記憶に深く刻まれている。

機会損失という名の「静かなる教育虐待」

知性がある親なら理解しているはずだ。「時間は有限である」という数学的な真理を。

長女に注いだ1,000時間は、そのまま次女から奪った1,000時間でもある。コンクールのトロフィーという、たかだか数百円のプラスチックの塊を手にするために、私は家族全体の幸福のバランスを決定的に崩してしまった。

長女が成功すれば、それが家族の誇りになる。次女はお姉ちゃんに憧れて、3歳になったら、自分もピアノをがんばりたいと言い出すはずだ。
そんな欺瞞に満ちた言葉で自分を正当化していたが、現実は違った。

一人のスターを誕生させるために、もう一人の尊厳を影に追いやる。この家庭内における「持てる者と持たざる者」の構造を作り出した主犯は、他でもない、この私自身だったのである。

第4章:「指導者賞」の生贄――実績という名の虚像

あの日、私はピアノの先生を心の底から崇拝していた。土日も返上してレッスンを行い、夜遅くまでLINEで続く、補講動画の緻密なチェック。
その献身的な姿に、「ここまで情熱を持って向き合ってくれる先生はいない」と感謝し、心酔していた。だが、今、冷静なメタ認知のフィルターを通して振り返ると、その「情熱」の正体は、別の輪郭を持って立ち現れる。

共依存の渦――先生もまた、システムに飲み込まれていた

誤解を恐れずに言えば、先生は決して「悪意」を持ってわが子を追い詰めていたわけではない。むしろ、誰よりも熱心で、誰よりも生徒の成功を願う「教育者の鑑」のような存在だった。

しかし、その先生でさえも、ピティナという巨大な渦に飲み込まれていたのだ。
教室内に張り出されるトロフィーの写真、指導者賞という目に見える序列、そして親たちからの熱狂的な期待。その濁流の中で、先生もまた「実績を出し続けなければならない」という強迫観念に囚われていたのではないか。我が家と先生は、いわば「コンクールでの勝利」という同じ甘い蜜に酔いしれた、共依存の当事者だったのだ。

搾取の構造――「好きな曲」を封殺される異常性

その歪みは、発表会の選曲にも顕著に現れる。
本来、発表会とは音楽を楽しむ場であるはずだ。しかし、実績を求められる教室において、生徒の「弾きたい曲」はノイズとして処理される。

「この子は指が回るから、実績作りのためにこの難曲を」
「教室の格を保つために、完璧に弾けるレベルの曲を」

指導者のプライドと、それに応えたい親の虚栄心が合致した時、5歳児の純粋な好奇心は静かに封殺される。憧れているキラキラした小品ではなく、発表会においても、そのピティナの過去の課題曲を強要される日々。

私たちは、音楽を愛するためではなく、指導者のレジュメに「金賞」という一行を書き加え、親が「うちの子は特別だ」と酔いしれるための、物言わぬ生贄を用意していたのである。

賞ありきの自信という「砂上の楼閣」

指導者として長年の経験があれば、本当は分かっていたはずだ。
5歳の子どもに必要なのは、100回の機械的な反復練習ではなく、音楽そのものを「面白い」と感じる豊かな心の土壌であることを。だが、一度「勝つこと」を目的としたシステムに組み込まれると、教育のプロですら、目先のトロフィーと引き換えに子供の一生分の音楽愛を削り取っている事実に、蓋をしてしまう。

賞という結果でしか自分を肯定できない成功体験は、あまりにも脆い。ひとたび結果が出なくなれば、その自信は一瞬で崩れ去り、深い自己否定へと反転する。
「賞が取れない自分には価値がない」
そう思わせるような教育は、果たして「才能を伸ばす」と言えるのだろうか。それは、将来の「燃え尽き症候群」を予約しているようなものではなかったか。

指導者を選ぶ審美眼――「実績」よりも「人間としての温かさ」

親である私たちの役割は、先生の「情熱」が、誰のための、何のためのものなのかを見極めることだ。それは指導者のエゴか、あるいはシステムへの怯えか。

選ぶべきは、壁に並んだトロフィーの数でも、有名な門下生の名前でもない。コンクールの狂気から一歩引き、目の前のわが子を一人の人間として尊重してくれる温かさがあるかどうかだ。その審美眼こそが、親も、指導者も、そして何より子ども自身を、底なしの渦から救い出す唯一の命綱となる。

第5章:戦略的「損切り」

コンクールという熱狂の季節が過ぎ去った後、私たちの手元に残ったのは、黄金に輝くトロフィーではなく、あまりにも残酷な「基礎の崩壊」だった。

譜読みができない――「OS」を置き去りにした代償

コンクール期間中、長女はたった数分の4曲の課題曲を、数ヶ月間、何千回と反復してきた。その結果、指は驚くほど回るようになった。しかし、いざ新しい曲に向き合ったとき、信じられない光景を目の当たりにする。

わが子は、コンクールを終えて楽譜が読めなくなっていたのだ。
指が勝手に動くようになるまで「音」を刷り込み、先生の指示通りに表現をなぞる。それは音楽を理解する「知性」の営みではなく、ただの「高度な条件反射」に過ぎなかった。コンクールの成績と引き換えに、自立して音楽を楽しむための基礎体力(OS)を、私たちは完全に喪失していたのである。

教室の壁には、コンクールの成績だけでなく、教材の「進度表」も張り出されていた。ピティナに心血を注いだせいで、進度は止まり、それどころか戻る始末。「こんなに頑張ってきたのに」という親子共々の絶望感は、計り知れなかった。

戦略的転換――ピティナ撤退という「勇気ある損切り」

ここで、私は一つの決断を下した。ピティナという戦場からの、完全なる撤退だ。

投資の世界において、損失を最小限に抑えるために保有資産を売却することを「損切り」と呼ぶ。私は、娘の「音楽を愛する心」を守るために、これまで投じた膨大な時間と労力、そして「全国大会」という甘美な執着を、すべて捨て去ることにした。

「もう、やめてもいいんだよ」――崩壊と、再生への一歩

ある日、私はピアノの前に座り、焦点の定まらない瞳を鍵盤に向けている娘に告げた。

「もう、ピティナはやめてもいいんだよ。コンクールのために弾かなくていい」

その瞬間、彼女はすぐに喜んだわけではなかった。ずっと信じていた壁、自分が自分であるために守らなければならなかったルールが、突然崩れ去ったことへの戸惑い。

「私、トロフィーほしい。」

その震える声を聞いたとき、私は自分がどれほど高い壁で彼女を囲っていたかを思い知った。その言葉は、娘が私の顔色を伺って発した、最後の『正解』だったのかもしれない。

そして私たちはピティナが終わって半年後に指導者を変え、型にはまらない、対話を重視するレッスンへと舵を切った。
楽譜の裏側に隠された物語を想像し、自分の指が紡ぎ出す音に耳を傾ける。そんな当たり前の営みの中で、娘の表情に、あの日ロビーで見せた「作り笑い」ではない、心の底からの笑顔が戻ってきた。

失った日々は戻らない。だが、私たちは「狂気のシステム」から抜け出し、自分たちの足で音楽の大地を歩き始めた。それは、どんな金賞よりも価値のある、私たちの誇り高い「撤退」だった。

コンクールのない、温かな教室。ジャンル問わず、好きな曲を弾ける。
そこには、テクニックの誇示ではなく、音楽の構造を理解し、一音一音の対話を慈しむ世界があった。

そこで手にしたのは、かつての「搾取された賞」ではない、自らの力で譜面を読み解き、音楽を心から楽しんだ末に掴み取った「本物のピアノへの愛」だった。舞台袖で見守る私の目からは、自然と涙が溢れた。それは、かつての「獲らせなければ」という強迫観念からの涙ではなく、娘が音楽と親友になれたことを祝う、安堵の涙だった。

第6章:自律的な音楽OSの再構築

「プライドを捨てて、歩き出す――バーナムという魔法」

撤退を決めた私たちが最初にしたこと。それは、それまでの「実績」や「進度」という虚栄心をすべてゴミ箱に捨て、指導者を変え、『バーナム ピアノテクニック』のミニブック(1巻目)を手に取ることだった。

客観的に見れば、それはあまりに滑稽な光景だったかもしれない。全国大会の手前まで行った子が、5歳児が最初に手にする、数小節しかない「棒人間」のテキストからやり直すのだ。

「簡単すぎるのではないか?」
「もっと難しい曲をやらせないと、遅れてしまうのではないか?」

そんな焦りが、私の胸をかすめなかったと言えば嘘になる。だが、新しく出会った先生は、穏やかに、しかし確信を持ってこう言った。

「今は、指を動かすことより、心が『できる!』と叫ぶ体験が必要なんです」

棒人間が教えてくれた、音楽の「主権」

驚くべきことが起きた。
あんなにピアノの前に座るのを嫌がっていた娘が、バーナムを開いた瞬間、目を輝かせたのだ。

「あはは!ママ見て、この棒人間、逆立ちしてるよ!」
「次はジャンプだって。おもしろい!」

そこにいたのは、審査員の顔色を窺う「操り人形」ではなく、ただの好奇心旺盛な6歳の女の子だった。

バーナムの魅力は、その極限までのシンプルさと、ユーモラスなイラストにある。一曲がわずか数行。数分で完成する。
「できた!」「もっとやりたい!」「楽しい!」
この、乾いた砂に水が染み込むような自己効力感の回復こそが、壊れたOSを修復するための唯一の特効薬だったのだ。

「簡単」こそが、最強の基礎を作る

知性ある親ほど、「難しい課題」を与えてしまいがちだ。しかし、本当の知性は「確実に成功できるレベルまで課題を下げる勇気」の中に宿る。
娘にとって、バーナムのミニブックは「完璧すぎる教材」だった。
楽譜を読み、自分の指で音を出し、棒人間の動きを音で表現する。その一連のプロセスに、他者の介入する余地はない。

「自分で読み、自分で弾き、自分で納得する」
この当たり前の自律性こそが、私たちがコンクールの狂気の中で置き去りにしてきた、音楽を愛するための「OS」の正体だったのだ。

第7章:数字の暴虐――A2級という巨大なピラミッド

私たちが足を踏み入れていた「A2級(未就学児部門)」という世界が、いかに巨大で、いかに過酷な確率論の上に成り立っているか。知性ある親ほど、一度はその「数字」を直視すべきだ。

A2級という名の、あまりにも巨大な母集団

ピティナ・ピアノコンペティション。その参加者数は、延べ約4万5000人(※2023年度実績)にものぼる。その中でも、最も幼い「A2級」には、毎年約2,000人から3,000人近い未就学児がエントリーする。
想像してみてほしい。まだ文字すらおぼつかない5歳児が、全国で2,000人以上、同じ課題曲を、同じような解釈で、ミリ単位の差を競い合っている姿を。

地区予選を通過し、本選へ進み、さらにその先の「入賞者記念コンサート」の舞台に立てるのは、ほんの一握り。確率にして数パーセントの狭き門だ。数学的に考えれば、その「数パーセント」の差を分けるのは、もはや才能や努力の範疇を超えた、審査員の好みや、その日のコンディションといった「誤差」に近い変数である。

確率論を無視した「親の全投入」

私たち親は、この圧倒的な分母を前にしながら、なぜか「うちの子だけは分子になれる」という根拠なき生存者バイアスに支配される。2,000人の中の1人になるために、家庭の平穏を、次女の時間をも、すべてをベットしてしまう。

この数字のピラミッドを維持しているのは、他でもない、私たち親が支払う「参加費」と「レッスン代」、そして「膨大な時間」という名の供物だ。

誤解のないように言っておくが、ピティナのシステムが、実際に世界に通用する圧倒的なテクニックと強靭な精神力を持つピアニストを生み出している事実は揺るがない。そこに適合し、輝ける一握りの才能と家庭があることもまた真実だ。

数字の呪縛を解く「メタ認知」

指導者は言う。「この数字を勝ち抜くことで、自信がつきます」と。
だが、その自信は、2,000人の敗者の上に成り立つ、きわめて危うい優越感ではないのか。
数字は嘘をつかないが、数字は人を狂わせる。
A2級という巨大な母集団の中で、わが子を単なる「1/2000」という記号として扱うのか。それとも、順位や確率では測れない「唯一無二の表現者」として守り抜くのか。

データの檻(おり)を抜け出し、この不条理な確率論から降りる勇気。それこそが、数字を扱う知性を持った親が、最後に果たすべき責任なのではないだろうか。

第8章:「良い母」という病からの脱却――再定義される音楽教育

予選を通過した瞬間、私が感じたのは「喜び」ではなく、喉の奥に詰まっていた塊が溶け出すような「安堵」だった。それは、教育熱心な親たちが共有する、極めて孤独で、かつグロテスクな安堵感だ。

子育てという名の「リベンジ」と、抑えた仕事の代償

私は自分のキャリアを、育児のために戦略的に抑えてきた。かつての夢、かつての挫折、それらすべてを「子育ての成功」という一発逆転のカードに賭けていたのだ。
ピティナでの予選通過は、その「投資」が間違っていないことを証明する唯一のエビデンスだった。

「これだけ仕事をセーブして、娘に時間を割いているのだから、結果を出さなければ私の人生の整合性が取れない」

知らず知らずのうちに、私は娘のピアノを、自分自身の人生のリベンジ・マッチにすり替えていた。予選通過の通知は、私にとっての「合格発表」であり、娘の努力は、私の有能さを証明するための「道具」に成り下がっていたのである。

資産形成としての音楽 vs 短期的な数値目標

ここで、音楽教育を「資産形成」の文脈で再考したい。

本来、ピアノを学ぶことは、一生を通じて豊かな感性を養う「長期的な知的資産」の構築であるはずだ。しかし、ピティナというシステムが提示するのは、極めて短期的な「数値目標」でしかない。
コンクールの課題曲を思い出してほしい。テクニックの優劣が判別しやすい、教育的な、しかし音楽史の中ではほとんど無名に近い小品ばかりだ。

「エリーゼのために」「小犬のワルツ」「人形の夢と目覚め」――。
誰もが耳にしたことがあり、一生のレパートリーとなるような「定番曲」が課題曲になることは、ほとんどない。

私たちは、きっと一生聴くことのないであろう曲の「コンクール専用のテクニック」を磨くために、音楽の王道を歩む貴重な時間をドブに捨てていたのではないか。

思考停止の「作業」に陥るリスク――地頭を殺す正解の強要

さらに深刻なのは、ピティナ式の練習が、子供の「地頭」を良くするどころか、思考停止の「作業」に陥らせるリスクだ。
そこにあるのは、指導者が作り上げた「唯一の正解」を、いかに正確にトレースするかという模倣の競争である。自分の感性で考え、音を解釈する余地はない。同じ門下生の演奏が、判で押したように同じになるのはそのためだ。

これはもはや芸術ではない。高度な「マニュアルの完遂」だ。
数学でいえば、公式の意味を理解せず、解法パターンを丸暗記してテストに臨むようなもの。そんな「作業」に何百時間を費やしたところで、自ら問いを立て、世界を理解する力など育つはずがないのだ。

輝ける場所を見つけるのは、親の仕事

親がすべきことは、子どもを「勝てる見込みのない、他人のエゴが渦巻く戦場」に送り出すことではない。わが子の特性を見極め、彼女が彼女らしく、誇りを持って立っていられる「輝ける場所」を戦略的に見つけ出してあげることだ。

それができるのは、指導者でも審査員でもない。
わが子の瞳の奥に宿る「光」と「影」を、誰よりも近くで見守り続けてきた、親である私たちしかいないのだ。

エピローグ:新たな扉を開けて

あの日、ホールのロビーで完璧な作り笑いを浮かべていた長女は、今、自分の意志でピアノに向かっている。そして、別室に追いやられていた次女も、今は温かなリビングを取り戻した。

そこにはもう、100回の反復を強いる鬼も、数字に憑りつかれた母親もいない。何かの賞で証明などしなくても、ただそこにいてそれぞれの色で笑ってくれているだけで、二人は私にとって完璧で愛おしい宝物なのだ。
今ここにあるのは、一音一音の響きを慈しみ、音楽という広大な海を自由に泳ぎ始めた小さな表現者と、その音色に寄り添う、ありのままの家族の姿だ。

最後にもう一度、あなたに問いたい。

あなたが今、その子の背中に向けている眼差しは、本当に「愛」だろうか。
それとも、あなたの「未完の人生」を埋めるための、あるいは「社会的な承認」を得るための、無自覚なエゴとなってはいないか。

コンクールの金賞は、一晩眠れば過去のものとなる。しかし、その過程で削り取られた子供の尊厳と、親への不信感は、一生消えない傷として残るリスクを孕んでいる。私たちは、教育という名目で、取り返しのつかない「心の負債」を積み上げてはいないだろうか。

音楽は、誰かを打ち負かすための武器ではない。
音楽が、すべての人にとって、自分自身と大切な人を幸せにするための、自由で豊かな、美しい対話でありますように。


【おわりに】

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
今、同じように迷い、もがきながらも子育てをがんばっているすべての親御さんに、心からの愛とエールを込めて。

キトリ🪭

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