ねえホームズさん、私はこの身に混沌を引き受けるから
今回は、「秩序」を軸に。シャーロック・ホームズに宛てて。
幼い頃の私は世界の全てが解き明かされる日の到来を信じていました。その頃は科学にも分野があることを知らなくって、化学者と物理学者と生物学者をごっちゃにしていて、皆白衣を着ているのだと思っていました。世界を解き明かすキーになる、たった一つの綺麗な数式。そんなものの存在を漠然と夢想したりなんか。
それはホームズさん、あなたが生きた時代の風土にも通底するのでしょうね。科学が発展してきっと世界は良くなる。人類は進化していける。笑ってしまうな。あなたが誌面に姿を現して百四十年ほど、確かに食うに困らぬ人間の数は増えたのだろうけど、もっと沢山の人間が効率的に殺人を行うことを目的としたテクノロジーによって死んでいきました。
私は自閉症者に軽重を問わずありがちなように、予測可能性、秩序を愛しているのだと思います。予定変更が大の苦手で、決めた順番に持ち物を並べないと気が済まず、日常の些細なしきたりは絶対。そんな私にとって世界は混乱の渦そのものです。他人の感情が読めないから皆すぐ怒り出すし、急に雨が降るし、時間割は変更されるし、犬は唐突に吠えます。
だけれど、あなたはいつも秩序だった。混沌とした状況に推理を持って突き進み、最後には解をもたらす。もちろんこれが非道い偶像化だということは、分かっているのだけども。
世界の全てを人間が解き明かすことはおよそ不可能なのだとおぼろげながら気づき始めた十の私はあなたを見つけ、当然のように入れ込み、熱を上げ、懸想して、挙げ句の果てには名探偵になりたいだなんて言い出す始末でした。
それが本当に酷くなったのは中学二年の秋です。文化祭へと浮き足立って準備などするクラスに馴染めなかったことから段々と登校を拒否するようになった私は、それと同時にあなたにのめり込みました。ホームズ本なんてものを買い集め始めたのもその頃です。
私を見ていた友人の後々の話によると既に様相はおかしかったようで、どうやら双極性障害の発症はその頃か、もう少し前かと思います。一日の中で躁と鬱がクルクルクルクルと何度となく入れ替わる生活。朝は学校に行きたくないと絶望して、登校すると人が変わったように饒舌になって、下校時には死んでしまいたいと思い詰めて、そうして夜には馬鹿騒ぎをしながら遅くまで通話を。
そんな破綻した情緒、自分の気持ちすら読みようのない混沌の極みになっていくのですから、私が秩序の象徴たるあなたを強く抱き寄せたのも同然のことだと思います。私は精神が狂えば狂うほどますます強くあなたを抱きしめ、一番悪かったときは「正気になったらホームズを失ってしまうのだから狂って上等」と本気で思っていたほどでした。
ホームズ、ホームズ、ホームズ。とにかくホームズ。日常を全てあなたで埋め尽くすこと。思考を全てあなたに捧げること。そうして全てから逃避すること。
しかしそんなことを永久にやっている訳にはいかないのです。様子がおかしい私に手を焼いた両親に精神科へ連れられ、あっという間に自閉症と双極性障害の診断名を付けられ、双極性障害の投薬を続けること丸二年。今では私はすっかり正気に近くなってしまい、あなたへの狂愛をメタ的に俯瞰できるようになってしまいました。
あなたへ寄せる思いが、私の嫌う私の障害や病理から来たこと、それは私にとって認め難い真実でした。私はあなたが秩序の象徴であるという発想を延長した調べ物をしつつ、私がそのように捉えたがっていたという真実から数ヶ月の間逃げ回り続けていました。
「あなたをもう愛していないことに耐えられない!」と喚きながら充電コードで首を吊ろうとしてみたり、無闇矢鱈とホームズ本を買ってみたり。
しかしそんなことはあなたの教えてくれたことに反しているのだと思います。真実には、向き合わなくてはなりません。
「シャーロック・ホームズは空想上の探偵にすぎず、彼には作者の生きた時代から来る思想上の制約がある。彼は私の救世主ではなく、世界の秩序の象徴でもない」
そのことを、世界の混沌と共にこの卑小な身体に引き受けていこうと思います。だって私は、あなたを愛していますから。真実から目を背けることがあなたの信条に反することをよおく知り抜いていますから。愛した人に誠実でありたい、それは尊いことでしょう。
だからせめて、私の心の中で、私のこの身朽ち果てる日まで、私の奮闘を見守っていてください。
