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掌編「それもまた一局」

 あのとき、何も言えなかったけれど、今なら少しだけ分かる気がします。
小説の形にして、次の世代へつなぎます。


 部室の空気は、三月の終わりらしい薄い冷たさを含んでいた。
窓の外では、校庭の砂が風に押されて流れている。
卒業式を明日に控えた午後、伊藤拓斗は、盤の前に座る。
いつも通り。

 向かいには藤井先生がいる。
十年以上、将棋部を見てきた人で、特別に強いわけではない。
けれど、指し手に迷いがない。

駒を並べ終えると、先生は軽くうなずいた。

「じゃあ、始めようか」

 開始の合図もなく、自然に対局が始まる。
駒音だけが、静かな部室に落ちていく。

 十数手進んだところで、先生が飛車取りをかけてきた。
伊藤は手を止める。
 ▲2六飛か、▲2九飛か。どちらも成立する形だと分かっている。
序盤のこのあたりは、好みの問題に近い。
それでも、どちらが正しいのかを考えてしまう。

 盤面を見つめながら、伊藤は息をひとつ吐いた。
迷いを断ち切るように、2六飛と指す。
駒が盤に触れた瞬間、わずかな違和感が胸に残った。

 数手後、先生の指し手で、形勢がほんの少しだけ傾いたように感じた。
その差は、気にしなければ気づかないほどのものだ。
それでも伊藤には、さっきの選択が頭に引っかかっていた。

――2九飛の方が良かったかもしれない。

そんな後悔が、静かに胸の底に沈んでいく。

数手進むごとに、部室の空気はさらに静かになっていった。
駒音だけが、一定の間隔で落ちてくる。

「迷ったね」

伊藤は小さくうなずいた。

「……はい。2六飛にしたんですけど、ちょっと悪かったかなって」

先生は盤から目を離さず、淡々とした声で返した。

「どちらでも大差はないよ。序盤はね、なんとでもなる」

 その言葉に、伊藤の胸がわずかに揺れた。
序盤はなんとでもなる――
将棋の話のはずなのに、妙に胸に残った。

 伊藤は、視線を盤から外し、窓の外に目を向けた。
校庭の向こうに、まだ冬の色を残した空が広がっている。
 第一志望に落ちた日のことが、ふいに思い出された。
その場に立ち尽くした自分の姿。

 あれは、悪手だったのだろうか。
もっと別の選択をしていれば、違う結果になっていたのだろうか。

そんな思いが、静かに胸を締めつける。
そのとき、先生がぽつりと言った。

「……結果、出たんだってね」

 伊藤は驚いて、盤に戻した視線を止めた。
先生は表情を変えず、ただ駒を指で軽く押して整えただけだった。

「でもね、伊藤。どの道を選んでも、その後どう指すかで形は変わる。
 序盤の一手で決まる将棋なんて、ほとんどない」

伊藤は言葉を返せなかった。
先生の声は淡々としているのに、不思議と胸に染みていく。

「だからさ」

先生は、盤面を見つめたまま静かに続けた。

「それもまた、一局なんだよ」

対局は静かに中盤へと移っていった。
序盤のわずかな揺らぎは、もう盤面には残っていない。
駒がぶつかり合う気配が、部室の空気を少しだけ重くする。

藤井先生は、攻めの形を作ろうと飛車を回した。
△7六飛。
やや強引だが、勢いのある手だ。

伊藤はその飛車に、▲7七歩と受けた。
控えめで、堅実な一手。当然の一手だ。

だが、次の瞬間、先生の指が歩の上に触れた。
そして、迷いのない動きで、歩を取り上げる。

△7七同飛成。

盤に響いた駒音は、序盤のそれとは違っていた。
重く、はっきりとした音だった。

伊藤は思わず顔を上げた。

「……先生、飛車、切っちゃうんですか」

先生は、少しだけ笑ったように見えた。
だが表情はほとんど変わらない。

「逃げて守ってばかりじゃ、つまらないだろ
 ……やりたいようにやる」

先生はそう言って、成った飛車を静かに押し直した。
その手つきは、長く盤に向き合ってきた人のものだった。

伊藤は、成った飛車を見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。
先生がこんな手を指すのを、あまり見たことがない。

「……本気なんですね」

ようやくそう言うと、先生は軽く息をついた。

「うん。たまにはね」

淡々とした声だったが、その奥にあるものは、伊藤にも感じ取れた。
守りを固めて、じっくり形勢を整える――
そんな先生の将棋とは違う。

成った飛車を押し直しながら、先生はぽつりと言った。

「こういう手を指すのは、久しぶりだな」

その言葉に、伊藤は顔を上げた。
先生は盤を見つめたまま、続けた。

「……実はね。友人に誘われていてさ。
 学習支援のNPOで働かないかって」

伊藤は、返す言葉を探した。
先生が転職を考えているなんて、想像したこともなかった。

「教師を辞めるんですか」

問いというより、思わず漏れた声だった。
先生は少しだけ笑ったように見えた。

「辞めるよ……このまま守ってばかりじゃ、先が見えないからね」

 盤面の成り飛車に視線を落としながら、先生は静かに言った。

「怖がってばかりじゃ、何も変わらない」

先生の声は淡々としているのに、どこか切実だった。

「だからさ。切るなら今かなって思ったんだ」

伊藤は、盤面よりも先生の横顔を見ていた。
その表情は、どこか遠くを見ているようだった。

「……先生」

声をかけようとしたが、言葉は続かなかった。
先生は、成り飛車の位置をもう一度確かめるように見つめてから、静かに言った。

「これもまた、一局なんだよ」

その言葉は、盤面の駒よりも深く、伊藤の胸に響いた。

成り飛車の影が、盤面の上でゆっくりと伸びていた。
中盤の勝負手が響いたあと、二人はしばらく無言で駒を進めた。
部室の空気は静かで、外の風の音だけがかすかに聞こえる。

先生がふと、手を止めた。

「……伊藤」

呼ばれて顔を上げると、先生は盤面ではなく、窓の外を見ていた。

「この先どうなるかは、誰にも分からない」

淡々とした声だった。
けれど、その奥にある揺らぎは、伊藤にも分かった。

「でもね。守ってばかりじゃ、前に進めないんだ」

伊藤は、盤面に戻した視線をゆっくりと動かした。
自分の飛車は、まだ働き場所を探している。

「……僕も、そうなんですかね」

小さくつぶやくと、先生は少しだけ笑った。
先生は盤面に視線を戻し、成り飛車にそっと触れた。

「……指そうか」

その言葉は、駒音よりも静かに、伊藤の胸に落ちた。
二人は、まだ続く対局の盤面を見つめた。

窓の外では、夕日が校庭をゆっくりと染めていく。
盤面の駒が、その光を受けて淡く輝いた。


 この作品は、「#いまあなたに伝えたいこと」という投稿コンテストに
参加しています。


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