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短編「昼ごはん革命 ー栄養士白井あすかの相談記録ー」

  ※ この物語はフィクションです。
  ご自身の健康・栄養については、専門家の指導を仰いでください。


 アラームが鳴る前に、目が覚めた。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。
ベッドの向こうで、直哉はまだ眠っていた。
昨日も閉店間際まで残業だった。今日も遅番。
 起こす必要はない。
キッチンで静かに湯を沸かし、インスタントのスープをカップに注ぐ。
冷蔵庫の中には、昨日の残りのご飯と卵ひとつ。
食べずに出てもいいか――そう思いながら、梨花はドアの鍵をそっと閉めた。

 通勤路のコンビニでカフェオレを買う。
温かい紙カップを両手で包みながら、心の中で小さくつぶやく。
「結婚資金、あと五十万」
数字を思い浮かべると、少しだけ体が軽くなる。
節約は苦じゃない。目的があるから。
 ……そう言い聞かせるたび、ほんの少しだけ、息が浅くなる。

 ドラッグストアに着くと、いつもの匂いが迎えてくれた。
消毒液とシャンプーとお菓子の甘い匂い。
開店前の店内は、蛍光灯がつくたびにひとつずつ影が動く。
POPを貼り替え、レジを立ち上げ、陳列棚の向きを整える。
同じ動作を繰り返すうちに、時間の感覚がぼやけていく。

 午前のピークを越えるころ、レジの音も少し静かになった。
「梨花ちゃん、先に休憩入っていいよ」
 先輩の声に軽く会釈して、バックヤードへ向かう。
狭い休憩室のドアを開けると、冷蔵庫のモーター音が響いた。
机の上には、朝買ったカフェオレと、菓子パンの袋。
 ――それだけの昼ごはん。

 袋の端をつまみながら、梨花は小さく息を吐いた。
「今日も、これでいいか」
冷蔵庫のドアを閉めたとき、ふわりと湯気の匂いがした。
味噌でもスープでもない、やさしい塩の香り。

 奥のコンロの前に、女性が立っていた。
淡いベージュのカーディガン。髪は後ろでまとめ、動きが静かだ。
小鍋の中で、もやしとうどんが静かに泳いでいる。
その横に、紙パックの野菜ジュースが並んでいた。

「あ……」
梨花は思わず声を出した。
女性が振り返る。穏やかな目元。少し笑ったように見えた。

「こんにちは。白井です。週に一度、栄養相談で来てます」
「白井さん……あ、栄養士の」
「はい。お昼くらいしか自由に作れないんですけどね」
 あすかは、菜箸でもやしを軽くすくいながら言った。
鍋の中で、白い湯気がゆらめいた。

「おいしそうですね」
「簡単ですよ。冷凍うどんともやしだけ。あと卵を落として、野菜ジュースを添えれば完成です」
 言葉より先に、香りが梨花を包み込む。
湯気の向こうに、彩りのない昼食が、なぜかあたたかく見えた。

「あの……私なんて、いつもこれで」
 梨花は机の上の菓子パンを指差した。袋のビニールが、しわしわと鳴る。
「楽ですけど、毎日だとちょっと栄養が偏りますね」
 あすかはやわらかく言いながら、器にうどんを移した。
「でも、がんばって節約してるの、えらいと思います」

 その言葉に、梨花は少しだけ目をそらした。
褒められると、なぜか胸の奥がざわつく。
“がんばってる”という言葉が、自分の生活の細部を照らしてしまうようで。

「……いいですね、それ」
小さな声でそう言うと、あすかはにこりと笑った。
「ええ。お昼に“ちゃんと食べる”だけで、変わりますよ」

 梨花は、その言葉をなぜか胸の奥で反芻した。
――そんなこと、考えたこともなかった。

 その日の昼休憩は、少しだけ長く感じた。



 あすかがうどんを食べ終えても、梨花は自分の菓子パンを半分残したまま、なんとなく話しかけていた。

「……あの、私、ネイリストになりたくて」
 言ってみて、少しだけ恥ずかしくなった。
 あすかは箸を置き、静かにうなずいた。
「素敵ですね。今は勉強中?」
「はい。通信の講座で。夜にちょっとずつ……。でも最近、爪の調子が悪くて」
「悪い、というと?」
「すぐ割れちゃうんです。乾燥してるのか、薄くなってるのか……。
 仕事で洗剤とかアルコールとか触るし、家では節約のために手袋もしないし」
 言いながら、自分の指先を見つめる。
爪の先がところどころ白く欠けていた。
 磨けばどうにかなるけど、光の角度によっては、弱さが透けて見える。

  あすかは少し考えるように視線を落とした。
「お仕事、長時間ですか?」
「週五で、一日七時間くらい。ほとんど立ちっぱなしです」
「食事は……朝と昼、どんな感じ?」
「朝は食べないです。コーヒーだけ。昼は……まあ、さっきみたいな」
「夜は?」
「冷凍のパスタとか。あと、直哉が買ってきたお惣菜。安いの見つけたときだけ、野菜炒めします」

 あすかはメモを取るように、指先でテーブルを軽く叩いた。
「お金を貯めながら、夢に向かってるんですね」
 その声は、咎めるでも褒めるでもない。
ただ、状況を静かに整理していくような口調だった。

「爪って、外から見える部分だから気になりますよね」
「はい。ネイルって“印象”だから。きれいな指先で仕事したいなって思うんです」
「うん。大切だと思います」
 あすかは小さくうなずき、湯呑に口をつけた。
「もしよかったら、もう少し詳しく聞かせてください。
 食べているもの、時間、疲れやすさ……そういう“流れ”を知ると、
 身体の中で何が起きているか見えてきます」

 梨花は一瞬迷ったが、うなずいた。
「はい。なんか、白井さんに話すと、ちょっとスッキリしますね」
「構造を整理するだけでも、身体って反応しますから」
 そう言って、あすかは静かに笑った。

 その笑顔を見ながら、梨花は思った。
――この人は、食べ物じゃなくて、人の中身を見てるんだ。
あすかはしばらく考え込んだあと、指で机の上を軽くなぞった。
「……お金をかけずに、できる範囲で整える。
 それなら、“昼ごはん”を少し変えるのが一番現実的ですね」

「昼ですか?」
「はい。朝は食べる余裕がない。夜は疲れて判断力が落ちている。
 人は“昼”に食べたもので午後を生きてるんですよ」

 梨花は少し笑った。
「なんか、名言みたい」
「本当のことです」
 あすかは、淡々とペンを走らせるように話し始めた。

「冷凍うどん。これは優秀です。レンジで温められるし、糖質もすぐエネルギーになる。もやしは一番安くて、レンチンで温野菜にできる。ビタミンCも取れる」
「もやし、安いですよね。いつも20円とかで」
「ええ、だから“革命の起点”なんです」

 あすかは少し微笑んだ。
「卵は、完全食に近い。落としてもいいし、ゆでて常備でもいい。
 休みの日にゆで卵をまとめて作っておくと、朝も夜も救われます」
 梨花は思わずメモを取った。
「……なるほど。手間もあんまりかからない」

「たんぱく質源として、サラダチキンもありです。
 でも買うと高いから、鶏むね肉から作るのが一番。
 塩と酒をふってレンジで火を通すだけで十分です。
 あとは、野菜ジュースを紙パックじゃなくてペットボトルに。
 まとめ買いしたほうがコスパがいいし、分けて飲める」

「へぇ……。なんか、急に現実的ですね」
「現実を変えるには、現実の中でやるしかないですから」

 梨花は笑って頷いた。
「確かに。なんか、すぐできそう」
「ええ。これで一食完結できます」
 あすかは静かに湯呑を持ち上げた。
「栄養の話って、難しく聞こえるけど、実は“順番”の問題なんですよ。
 お金を増やすより、先に“整える”。整えば、使い方も変わりますから」

 梨花は、湯気の残る鍋のほうを見た。
そこにあるのは、特別な料理でも、映える食事でもない。
でも、なぜか“生きる準備”みたいに見えた。

「……私、ちょっと試してみようかな」
「いいですね。じゃあ、次の休みのあとに、どうだったか教えてください」
 あすかはそう言って、ゆるく笑った。

 梨花は、うなずきながら思った。
 “食べ方”って、“生き方”の練習なのかもしれない。


 翌週の昼休み。
あすかに教わった通り、梨花は朝から下ごしらえをしてきた。
休憩室のテーブルに、タッパーが二つ並んだ。
もやしと冷凍うどん、ゆで卵、少しのサラダチキン。
湯気の立たない“静かな昼ごはん”だった。

「どう? これ、昨日の夜に仕込んでおいたやつ」
梨花がレンジから容器を取り出し、笑った。
「思ったより簡単そうだな。俺でもできそう」
直哉が箸を手に取る。
「家でも食べたけど、悪くないよ。腹持ちするし」
「ね。これで一食百円くらい。節約にもなる」

 二人で並んで座り、同じタイミングでうどんをすする。
休憩室の蛍光灯が、湯気のかわりに静かな光を落としていた。
「なんか、こうして食べると、ちゃんと生活してる気がする」
「そうだな。俺、いつもカップ麺と缶コーヒーだけだから。
 こうやって“作ったもの”食べるの、久しぶりかも」
 梨花は小さく笑った。
「……ちゃんと、食べようね」
 その一言に、少し照れくさい沈黙が落ちた。

 そのとき、休憩室のドアが開いた。
「おまえら、何やってんだ」
 低い声。藤原店長だった。手にはいつものコーヒー缶。表情は穏やかだったが、声に少し硬さがあった。

「昼ごはんです。ちゃんと片づけますから」
 梨花が慌てて立ち上がる。
「そういうことじゃない」
 藤原は腕を組み、二人の間のテーブルを見た。
「ここ、職場だぞ。二人で並んで弁当広げて……まるでピクニックじゃないか」
「別に、そんなつもりじゃ……」
「わかってる。でも、見たやつがどう思うか、だ」

 その言葉に、直哉も黙り込んだ。
店長はため息をつき、少し視線を落とした。
「おまえらの仲が悪いとは思わない。むしろいいことだ。
 でも、ここは職場なんだ。どんなに小さなことでも、
 他のスタッフが“特別扱い”だと思ったら、空気が壊れる」

 静かな沈黙。
テーブルの上のタッパーの中で、うどんが少し冷めていく。
梨花は小さくうなずき、箸を置いた。
「……すみません。気が回りませんでした」
「わかればいい」
 藤原は短く言い残して、ドアの方へ向かった。

 扉が閉まると、休憩室にはモーター音だけが残った。
直哉が小さく息を吐いた。
「……悪い。俺が一緒に食べようって言った」
「ううん、私も楽しかったから」
 梨花は、タッパーのふたを閉めながら言った。
「でも、なんか……ちょっと悲しいね」
「何が?」
「ちゃんと食べることって、悪いことみたいに見えるんだなって」

 直哉は何も言わず、冷めたうどんをもう一口すすった。
湯気のない昼休みが、少しだけ長く感じた。


 翌週の昼休み。
梨花は、また一人でうどんを温めていた。
もやしの匂いが、少しだけ寂しく感じる。
 あの日以来、直哉とは昼休憩の時間が合わなくなった。
店長が気を遣ったのか、シフト表の色分けが変わっていた。
「……仕方ないよね」
小さくつぶやいて、箸でうどんを混ぜる。

 そこに、あすかが入ってきた。
「こんにちは。体調どうですか?」
「あ、白井さん。なんか、最近すごく調子いいです。
 疲れにくいし、朝起きても指先が軽い感じ」
 梨花は笑って手を見せた。爪の割れも、ずいぶん減っていた。
「ただ……店長に怒られちゃって。あれ以来、直哉さんと一緒に食べられなくなって」
「そうでしたか」
 あすかはうなずき、少しだけ考えるように視線を落とした。
「でも、怒られたってことは、ちゃんと見てくれてた証拠ですよ」
「そう……ですかね」
「きっと、気になったんです。あなたたちが、ちょっと楽しそうだったか ら」

 梨花が笑う。
「それ、怒られる理由になります?」
「大人の世界って、難しいですから」
 あすかの声は、どこかやさしかった。

 そのとき、休憩室のドアが開いた。
 藤原店長だった。
「お、白井さん。今日は相談日か」
「はい。いつもお世話になってます」
 あすかは軽く頭を下げた。
 藤原は自販機のコーヒーを取り出しながら、ぼそりとつぶやいた。
「最近、昼になると腹が重くてな。コンビニ弁当ばっかで」

 あすかが顔を上げた。
「それ、典型的な“昼バテ予備群”ですよ」
「昼バテ?」
「ええ。体が回復より消化に時間を使ってる状態です。せっかく栄養を売ってるお店なのに、スタッフが疲れてたら、もったいない」
 藤原は思わず苦笑した。
「たしかに。説得力あるな」

「だったら、いっそのこと“職場の健康”を売りにしてみませんか?」
「え?」
「青汁やサプリ、店で扱ってるじゃないですか。
 スタッフが実際に飲んで元気なら、お客様への言葉にも重みが出ます」
「なるほど……販促にもなるってわけか」
「それに、冷蔵庫に“共用ゾーン”を作るのもいいと思います。
 みんなで少しずつ持ち寄って、“昼ごはんの畑”みたいに」

 藤原はしばらく黙っていた。
やがて、コーヒー缶を机に置き、ぽつりと言った。
「……俺も最近、疲れやすくてな。
 たまには、青汁でも飲むか」
「いいですね」
 あすかが笑った。
「じゃあ、もやしも卵も、店長も一緒にやりましょう」

 その日から、冷蔵庫の上段に小さなメモが貼られた。
《共用野菜ゾーン:ご自由にどうぞ》
隣には、青汁の試供パック。
もやしと卵と、ペットボトルの野菜ジュース。
 れは、小さな職場の景色を、ほんの少しだけやわらかく変えた。

 翌日。
梨花が休憩室の冷蔵庫を開けると、タッパーの横に小さなメモがあった。
《チキンハム、作ってみた。良かったら使って》——直哉の字だった。
 思わず、笑みがこぼれる。
 背後で店長が青汁を飲みながら、ぽつりとつぶやいた。
「……いい店になってきたな」

 梨花は、その棚を眺めながら思った。
「お昼ごはんが変わると、未来の見え方も変わる気がする」

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