70年代に登場した画期的な装甲車、ラーテル・ファミリー
2006年に月刊軍事研究に寄稿したラーテル装甲車の記事です。ラーテルは国情に合わせて開発されファミリー化、重武装、生存性を追求した装輪装甲車ファミリーです。これを70年代に開発したのは画期的でした。学ぶものが多いと思います。
イラク戦争で米軍が直面した脅威
イラク戦争においてはバグダッドが陥落し、大勢が決した後の方が、おいては米軍(有志連合)の死傷者は圧倒的に多い。今日何を持って戦争が終結したかという定義が難しくなっている。筆者はバグダッドが占領された段階でイラク戦争が終結したとは言えず、今も非対称戦争が継続していると考えている。
米軍の被害では目立つのは地雷やIEDや地雷、それらと組み合わせた待ち伏せ攻撃によるものである。このような手法は利点が幾つかある。まず直接相手と交戦せずに済むため損害を局限化できる。
同じ地雷を使うにしても地雷原を形成することなり、一箇所あたり僅かな地雷を敷設するだけでよい。このため少ない量の兵器とリスク、人員で非常に広範囲に攻撃を可能としている。故に筆者はこのような地雷などによる攻撃を「貧者の戦略爆撃」と呼んでいる。
当然米軍に比べ装備人員の劣る武装勢力は、攻撃強力な米戦闘部隊との接触を避け、地雷と待ち伏せを組み合わせて輸送部隊や後方支援部隊に対して攻撃を繰り返している。 このような状況は米国が「非対称戦争」そのものである。この文脈においてはバグダッド制圧後も「戦争」が続いている、と筆者は考えている。
米軍はボスニアやソマリアなどの経験がありながら、このような非対称戦に対する備えが十分であるとは言えなかった。バグダッド占領後にハンヴィーや輸送車両などソフトスキン車輌の被害が拡大してやっと対策に乗り出した状況は過去何度も本誌で紹介されている通りである。
ソ連崩壊後に一変した常識
ソ連が崩壊した以降、装備調達の常識は一変した。戦車などの重装備が削減され、それまで補助的と思われて装輪装甲車が調達の格段に増えてきた。地域紛争の介入やPK0などの非戦争任務が軍隊の主たる任務に格上げされることも多くなった。これらの任務には前線と後方の区別がない。このため、耐地雷装甲車の導入や、ゲリラや武装組織に対する装備が拡充されつつある。
このような戦争の形態は今始まったわけではい。その顕著な例が60年代以降の南部アフリカにおけるローデシアや南アフリカなどの戦いである。
アパルトヘイト時代の南アフリカ国防軍はこのような非対称戦を80年代末まで長きにわたって戦い抜いてきた。
南アフリカの非対称戦の教訓
南ア陸軍は機械化されていたが、少ない兵員で極めて広い地域をカバーする必要があった。またアンゴラ侵攻などの作戦では自軍の非支配地を戦略移動おこなってきたが、その移動経路は常に敵の攻撃、特に地雷などによる攻撃にさらされていた。南ア国防軍は正に非対称戦争を行って来たわけである。このため所謂先進国とは異なるAFVや地雷処理システムを開発してきたことは今日ではよく知られている。
90年代後半から欧米諸国では兵站車輌の装甲化なども先進国を中心に提案されてきたが、その必要性が痛感されだしたのはイラク戦からであろう。だが南ア国防軍は70年代からそのような装甲兵站車輌を開発・使用してきたことは着目すべきであろう。
未だ先進国の軍隊は非対称戦争という形態の戦いに多くの軍隊が戸惑っているように思える。これは自衛隊も同じで、近年やっと都市戦や接近戦、対ゲラ戦の訓練が陸自で始まり、空自の航空基地や米軍施設などの防備が真剣に検討されてきてはいる。が、装甲車輌の絶対量の不足はもとより、ゲリラ戦をしかけれた場合の損害の局限化などもこれから、というのが現状であろう。
そんななか、非常に限られた資金、人的資源を有効に使い、コストパフォーマンスに優れた対非対称戦争向けの装備を開発してきた南アフリカの教訓を今一度検証してみることは有意義と考える。
武器禁輸に対処した南ア
第二次大戦で欧州の宗主国が国力を消耗したこともあり、60年代にはブラック・アフリカ諸国が次ぎと独立した。ところが戦後南アは白人政権の元で48年にアパルトヘイト政策を唱えてきた。これが旧宗主国である英国と衝突し、61年南アは英連邦から脱退、南アフリカ共和国となった。隣国のローデシアも同様なアパルトヘイト政策を取り、1965年11月にイギリスから一方的に独立を宣言して国際的な孤立を深めていく。
南ア、ローデシアには国際社会からの圧力は強まり、経済制裁だけではなく、同国へ主たる兵器の輸出国であった欧米諸国も兵器禁輸に動いた。
南ア側も手をこまねいていたわけではなく、兵器装備の国産化を挙国体勢で進めてきた。その中でも76年に国内のリソースを一本化した国策兵器会社、実質的な国営兵器廠であるアームスコーの設立はその動きを強力に推し進めることになった。
ラーテルICV(歩兵戦闘車)は70年代から現在におけるまで長年、南ア陸軍の主力装甲車として君臨、アンゴラへの侵攻など数多くの戦闘でその実力を発揮してきた。ラーテルという名の由来はアフリカに生息するどう猛なほ乳類で、日本名ミツアナグマと呼ばれる。

南ア陸軍は戦後、APCとして英国製のサラセン装甲車を使用してきたが旧式化が否めなくなり、機械化歩兵部隊の主力となる新型の装甲車を欲していた。だが、英国、フランス、ドイツといった国々からの輸入は武器制裁のため事実上不可能であり、南ア政府は国産開発を決定した。
開発を担当したのはサンダックーアストラル社である。同社はその後ロイメック社傘下のロイメック・サンダック、ロイメックOMCとなり、大型車両メーカーTFM社の装甲車部門を買収し南ア唯一の装甲車輌メーカーとなった。更にその後英VLS(ヴィッカース・ランド・システムズ)社傘下のヴィッカースOMCとなり、VLS社が英オルビス社の買収された後はオルビスOMC、さらにオルビス社がBAEシステムズ社に買収され、現在ではばBAEシステムズ・ランドシステムズ・サウスアフリカとなっている。
少々長くなったが、この社名の変遷だけでも90年代以降装甲車両メーカーの再編が実感できるのではないだろうか。なおOMCとは元来Olifant-Tank Manufacture Companyの略である。
同社は当時既にフランス、パナール社の偵察用装甲車、AMLのライセンス品であるエラントを生産しており、装甲車製造のノウハウは収得していた。エラントは南ア国防軍の要求によりオリジナルより車体を延長するなどの改良が加えられている。
兵器の国産化を進めた南ア
南ア政府および軍部は特に60年代から兵器及び軍需用品の輸入の困難を想定し、航空機、装甲車からパラシュート、サブ・コンポーネントに至るまでライセンス生産更、そして更に国産化を推し進めてきた。
ラーテルの開発はそれまでの南ア推し進めてきた兵器国産化の一つの象徴的な事業とも言える。
幸いなことに南アは70年代には自動車工業がかなり発達していた。その後撤退するがトヨタ、日産など日本メーカーの他、ドイツアメリカなどのメーカーが 進出工場を持っていた。因みにアームスコーの前社長、ロン・ヘイウッド氏は日産サウス・アフリカのマネージャー出身である。南アでは外国企業だけではなく、特にバスやトラックなどを製造する自国メーカーも育っていた。前出のTFMもその一社である。
そのためアッセンブリーだけではなく、幅広い周辺産業が育っており、南アの装甲車両製造開発のバッググランドとなっていた。
南ア国防軍が戦車以外の装甲車両を使用してきたが、その背景には装軌車両の製造ノウハウと施設、更には莫大な投資を行うという財政的な余裕がなかったということも事実がある。が、同時に発達した自動車工業というリソースを徹底的に利用したという面も事実である。
南アの国土は広いが鉄道はそれほど発展していない。その代わり自動車道路が整備されている。また都市間の人口密度は低い。その地形人口分布はオーストラリアに似ているというと理解し易いだろうか。軍が活動するのは乾燥した灌木地帯か砂漠地帯であり、泥濘地や降雪地帯はない。
また南ア国防軍は兵力が極めて少なく、その環境から戦略機動を行う必要があるにも拘わらず兵站を極小化する必要があった。兵力が少ないのは南ア国防軍が人口の10パーセント程度の白人の中からしか徴兵を行ってこなかったということが背景の一つとなっている。黒人、インド系、カラードは志願兵として存在していたが絶対数は少なかった。
また外的環境でとしては、主たる敵はゲリラないし、ソ連の装備を持ったアンゴラのSWAPO、キューバ軍などであった。これらはさしたる装甲戦力を持っていなかった。70年代後半ぐらいからは重火器は充実してきたものの、戦車は比較的旧式のT-55などが主体であり数も少なくかった。この要素から稼働率と移動速度が低く、移動にトレーラーが必要な装軌車両は適していない。
また天然資源の輸出は多いとはいえ、経済制裁により、貿易が細り、国防予算の増大にも限度がある。装輪装甲車は装軌式に比べ調達、運用コストが低い。これらの事情から装甲車輌を装輪式で統一したのは合理的であった。
ラーテルの開発
南ア陸軍は新ICVの開発に際しては、装輪式でオーバーホールなしに8万キロを走破できる信頼性を要求した。1974年最初のプロトタイプが完成、それに続いて76年には4輛の量産試作が製造された。これはラーテルMk.Iと呼ばれている。その後ナミビアやアンゴラ侵攻などの戦訓等をとり入れたMk.IIが開発、生産され87年まで生産がされた。
ラーテルは当初からファミリー化を想定して開発が進められたが、その基本形は20ミリ機関砲を搭載した6×6のICV、ラーテル20である。70年代初等、機械化歩兵の主力はAPC(装甲兵員輸送車)であった時代にいち早く20ミリ機関砲を搭載したICVを開発したのである。 戦闘重量は19トンであり、当時のこのクラスの装輪装甲車としてはかなり重い部類にはいる。

ファミリー化に際しては、指揮通信車、60ミリ及び81ミリ自走迫撃砲、90ミリ砲を搭載した火力支援車、自走対戦車ミサイル、野戦修理車両などあり、偵察車両を除けばラーテル・ファミリーだけで機械化歩兵部隊を形成できた。構成車両がファミリーであれば部品と整備は共通化でき兵站を極小化できる。このようなファミリー化は多くの戦場で南ア陸軍が勝利する要因の一つとなったと言って良いだろう。
ソ連崩壊後はこのような発想は一般的となっているが、まだアホーダビリティという言葉が一般に認識されていなかった60年代後半からこのよう先進的なコンセプトに基づいてAFVを開発調達したことは注目すべきである。

ラーテル20は防弾版を溶接した良好な被弾経始もったボディを採用している。 なお車体前面の装甲は最大20ミリ(傾斜六〇度)、側面はハブサイド上部八ミリ(六五度)ハブサイド下部が10ミリ(傾斜九〇度)と当時の装輪装甲車としては厚い。これにより 車体前面は12.7ミリ徹甲弾の直撃に耐えられ、全周的に7.62ミリ弾及び砲弾破片を防げる。またルーフは8ミリ、車体底部は8~10ミリの装甲となっている。
運転主席は車軸上に位置している。このため正面から見ると左右対称となる。運転席は三方を防弾ガラスで囲まれており、非常に視界がよい。このようなデザインはドイツやフランスにも見られるが、当時南アは欧州の軍需産業から多数の技術者をスカウトしていたので、それら外国人技術者によるアイディアかもしれない。
このように運転席の視界を確保したのは理由がある。一般に南部アフリカは視界が開けた乾燥地帯や砂漠地帯が多い。このような場所では敵をより早く発見することが生存性を高めることになる。特にRPGなどを持った伏兵は早期に発見、対処する必要がある。

防弾窓は防弾版が備えられており、必要とあればこれを立ててより高い防弾性を高めることもできる。その場合は防弾窓に上部に備えられたペリスコープを使用して運転する。また運転席上部にハッチも設けられている。このタイプの運転席は後に開発されたG6自走砲、スカラベ空挺装甲車にも踏襲されている。
運転席後部には二人用の20ミリ機関砲を搭載した砲塔がレイアウトされている。この砲塔はエラント装甲車のCT20(原型はイスパノスイザ、HE-60で、製造はLIW社)を流用している。これに車長用キューポラ、発煙弾発射機などを追加している。
これは開発期間の短縮と兵站の共用化を狙ったものである。またエラントにはこの二〇ミリ砲を搭載したバージョンも存在する。 車長席が左、ガナーが右となっており、車長用のキューポラはビジョンブロックにより360度の視界を確保している。これも世界初であり、南ア陸軍が如何に視界の確保に熱心だったか理解できよう。
国産の20ミリ機関砲を採用
主砲はLIW(現デネル社)の20ミリ機関砲F2、同軸機銃はM1919をコピーしたLIW、L4 7.62ミリである。砲塔の旋回、主砲の照準は手動式である。主砲は仰角三八度俯角八度である。有効射程は徹甲弾で1000メートル、砲塔内には20ミリ砲弾は一二〇〇発、七.六二ミリ弾は六〇〇〇発が搭載されている。
更に砲塔ルーフに対空を兼ねた7.62ミリ機関銃が搭載されている。また砲塔左右には二器ずつの81ミリ発煙筒が装備されている。
砲塔の後部は兵員室になっており、通常七名の歩兵分隊が搭乗するが、最大一〇名まで収納が可能である。分隊指揮官席は砲塔後ろ左のあり、その他の兵員の席は左右を向いて三名ずつ背中合わせの形でレイアウトしている。兵員室の左右第一輪と第二輪の間にドアがあり、ドアを含めて左右三箇所づつのビジョンブロックとスリット式のガンポートが備えられている。これらガンポートには各小銃用の弾倉ラックが備えられており、10発の予備弾倉がストア(南ア陸軍のR4ライフルの弾倉は三五発入りなのでこれだけで、三五〇〇発の弾丸が装備されていることになる)できる。

兵員室後ろ右側は通路となっており、後部のドアに続いている。このドアにも兵員室と同じビジョンブロックとガンポートが装備されている。ガンポートはスリット式のため俯角がとりやすい。後部ドアの手前ルーフには円形のハッチあり、対空用を兼ねた七.六二ミリ機銃が据え付けられる。

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