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母とお酒と東京マラソン

「転出届なんて初めて書いたわ。色々面倒だねぇ。年寄りには無理!」 

実家のある市役所で、わたしは母と一緒に、父の転出届の手続きをしていた。父は10日後、となり村の介護施設への入所が決まっている。施設に入所するには住所変更をしなければならない。父の居住地は、実家から介護施設になるのだ。

市役所の窓口で転出届をもらい、記入していく。もっとも、書くのは母ではなく、わたしなのだけれど。

記入しなければいけない欄には、既に鉛筆で◯印がつけられている。記入箇所はそれほど多くはなく、意外にも難しくはない。

◯印の部分を記入し、窓口に提出した。

「この、転出先の世帯主は、お父様の名前にして下さい」

転出先の世帯主名に、介護施設の名前を書いてしまった。

「あぁ、はい」
「あとですね、こちらの欄も…」
「あ、すみません、もう1回書き直しますね」

最初は「分かりやすい」と思った転出届も、結局、何度か書き直した。

なんとか無事に、転出届やその他もろもろの手続きが完了。市役所で発行された転出証明書を見ると、実家の住所にはもう父はいない。なんだか不思議だ。何十年もずっとこの場所にいたのに。

市役所を出る。まだ6月初めだが、とにかく暑い。「もうこれ、夏じゃないの? 梅雨は?」なんて話を母としながら、ふと「父は、この暑くて長い夏をあと何回過ごす事が出来るのだろう……」と考えてしまう。

父が入退院を繰り返すようになったのは、4年ほど前のことだ。それまで元気だった父の「人生の幕」というものを、わたしは最近、ぼんやりと感じるようになった。

父は現在、91歳。まだ、母のことも、わたしのことも分かる。でも、父の記憶は少しずつ薄れていっているような気がする。意思疎通は出来るが、以前のように会話のキャッチボールは続かない。

これから、わたしが知る限りの、父のいままでの人生を、わたしの思い出と合わせて、娘目線で、自由気ままに、勝手に書いていきたいと思う。だからといって、何か、ドラマになるような強烈なエピソードがあるわけではないのだけれど。

わたしが高校を卒業するころまでは、父と顔を見て話した記憶はほとんど無い。それでも無性に父のことを書きたいという衝動に駆られるのは何故なのか、自分でもよく分からない。たぶんわたしは、父のことをよく知らないのかもしれない。

もし、誰かから「お父さんはどんな人?」と聞かれたとしたら、

「無口で穏やかな人」

と答える。それは間違ってはいないと思う。でもそれだけでは何か物足りない。その物足りなさが一体何なのか、ここで、父のことを綴りながら探してみたいと思う。

父は昭和10年に長野県で生まれた。10歳で終戦。母曰く「どんなにお酒を飲んで酔っぱらっても、白いご飯だけは食べるんだよね。子どものころ、食べられなかったから」と。確かにご飯を残す父は見たことがなかった。 

わたしが、小学生のころの父のイメージで真っ先に浮かぶのは「仕事とお酒」。休みの日なんてあったのだろうか。日中、家にいた記憶はほとんど無い。

建設関係の営業をしていた父は、仕事の後は毎晩同僚を家に連れて来て、宴会状態。いま思い返せば、毎晩のように父の同僚と一緒に夕飯を食べていた。わたしはそれが嫌では無かった。父はお酒が大好きだけど、酒癖が悪いというわけでなく、楽しく仲間と飲む。無口な父が少しずつ饒舌になってゆく。毎晩賑やかな夕食が、子どものころのわたしには「終わらない誕生日会」みたいで、楽しかったのだと思う。父の同僚にも可愛がってもらった。

でも、当時の母は相当大変だったようだ。

「毎晩家で飲み会をして、もう本当に嫌で一度だけ実家に帰った」

そう、母から聞いたのはわたしが大人になってからだ。お母さん、よく一度だけで我慢したね…と、いまなら思う。

お酒を飲むと饒舌になるけれど、普段は無口で、子どものころは少し怖い存在でもあった。怖いというより、父とどう接していいのか分からなかったのだと思う。

わたしが何か悪いことをしたとき、いつも叱るのは母。ただ、母が「ここぞ」という時には父を連れて来る。まるで、ラスボス登場。

父は、一言「こらっ!」「だめだぞ!」などと叱った後、わたしのお尻を叩くまでが役目であった。令和のいまならNGな「昭和あるある」だけど。

とにかく、父が出て来た時は「相当何かやらかした」ときである。でも、何をやらかしたのか、いまでは殆ど思い出せない。

のちに、母から「お父さん、お尻叩くの本当にイヤイヤやらされていたんだよね、わたしに」と聞かされた。うん、なんとなく分かっていた、子ども心にも。父は「叱る」ことが苦手な人だと。

子どものころの父の記憶として強く残っているひとつに、マラソンもある。

母が言うには「40歳位のころ、市の運動会で長距離走に出たとき全然走れなくて、悔しくて、情けなくて。それからマラソンを始めた」らしい。この話を聞いたときには驚いた。40歳からなんて、意外と遅い。

わたしは父が39歳の時に生まれた子どもなので、父は「いつも走っている人」だった。

「仕事熱心でお酒が大好きなマラソンランナー」とでも言おうか。

県内のマラソン大会にはよく出場していて、いまも、実家にはメダルや写真がいくつも飾ってある。市内のマラソン大会は10年連続出場したらしく、当時の市長からの表彰状も飾ってあった。

いまでは、一人で歩くことすら出来なくなった父。少し険しい顔をしながらも颯爽と走る当時の写真を見ると、心が少しギュッとする。わたしはマラソンが大の苦手。こんなことは恥ずかしくて言ったことはないけれど、そんな父を尊敬している。苦手をそのままにせず、悔しさを糧にして趣味にまでしてしまう。なかなか出来ることではないと思う。

「お父さん凄いよ! 長い間、よくマラソンを続けたよね」

いまからでも伝えたい気持ちがあるけれど……もっと早く言えば良かった。娘からこんなことを言われたら、どんな顔をしただろう? 喜怒哀楽をあまり表に出す人ではなかったから。

2007年初夏。ある日、父は突然言った。

「東京マラソンに出たい」

「え? 東京マラソン?? マラソンするのに東京まで行くの???」

確か、東京マラソンが始まって2回目の大会だったと思う。とにかく、参加希望者が多い大会だったことを覚えている。マラソンが苦手なわたしには考えられない。

「応募だけなら大丈夫だよ。応募人数が多いから、通らないって」

心配する母にわたしは言った。しかし、心配性の母は「応募してもいいけど10キロのコースにして! フルマラソンはダメ!」と、渋々父の応募にOKを出した。

どうせ応募しても、まず抽選に当たらない。そこまで心配しなくても大丈夫なのに。


「東京マラソンに出れるぞ!」

父は言ってきた。

わたしと母は思わず声が出た。「え!? 当たっちゃったの?」

父の顔は、いままでに見たことがないような嬉しそうな表情だった。

2008年2月 父 72歳。

リュックサックを背負って、なんだか小学生の修学旅行のようなワクワク感を出しながら、父はいざ東京へ。

わたしも応援に行きたかったけれど、前年の秋に次女を出産したばかりで、現地に行くことはできなかった。幸いなことに、東京在住だった父の弟と妹が、宿泊や現地への送迎、そして応援と、すべてをサポートしてくれた。

父は無事に完走し、元気に家に戻って来た。

後から感想を聞くと、「スタートして気がついたらもうゴールだった」そうだ。フルマラソン経験者にとって、10キロとはそんなものなのか……。

走るのが苦手なわたしには信じられない。もしわたしが「10キロを走れ」と言われたら、とてつもなく苦痛で、長い時間に感じるはず。

裏を返せば、それだけ楽しかったんだと思う。楽しい時間は短く感じるものだ。いままで長野県内の大会にしか出た経験のない72歳の父にとって、東京マラソンは大冒険だったのではないかと思う。

東京マラソンから数年後の70代半ば、父は主治医から「マラソンの大会はもう出ない方がいい。これからは軽くジョギング程度にしておきましょう」と言われてしまう。心臓肥大が見つかったこと、持病の腰痛が悪化したことが要因となった。

普通なら……と言っていいか分からないが、70代半ばで医者にそう言われたら「そろそろゆっくりするか」と思いそうなところだが、父はそうはならなかった。

「ジョギングなら大丈夫!」

長女が小学3年生だったと思う。小学校では毎年、秋の初めにマラソン大会が行われていた。

各学年でそれぞれ距離が決められている。中学年は2キロだった。

長女はわたしのDNAをしっかりと受け継ぎ、マラソンが苦手。マラソン大会の練習が始まるころになると、「嫌だなー走るの」「走れないかも」と嘆いていた。その気持ちは良く分かる。

マラソン大会では毎年、子ども達を見守りながら後ろを走る保護者のボランティアを募っていた。もちろん、わたしは参加したことが無い。

ある日、娘たちと一緒に実家へ遊びに行ったとき、マラソン大会の話になった。長女は「おじいちゃんみたいに走れれば良かったなー」と言っていた。わたしも「おじいちゃんにボランティアで走って欲しいわー、わたし無理だし」というようなことを言った気がする。

「じゃあ、じいちゃんと走るか」

まさかの父の返答。長女は大喜びだった。

わたしから父に「走ってほしい」と言っておきながら、「え? お父さん大丈夫? 2キロだけど」と聞くと

「2キロくらい大丈夫に決まってるだろ!」と言われてしまった。

数日後、マラソン大会のボランティア参加用紙に、父の名前と「祖父 77歳」と記入し、小学校に提出した。  

ボランティアの中で最高齢である。小学校もまさか、「祖父が走る」とは思っていなかったと思う。

マラソン大会当日、父はわたしの家まで来てくれた。父が着て来たTシャツには

「TOKYO 2008」

と書かれていた。そう、あの東京マラソンの参加Tシャツ!
たまたま着て来たのか? そんなはずはない。

「自分は東京マラソンに出たことのあるおじいちゃんです!」という、父のちゃっかりアピール。

これは後日、母からしっかり裏取りがとれている。「お父さん、あれ着て行くって自分で用意していたから」と。

ちゃっかりアピールの東京マラソンTシャツを着て、わたしと一緒にマラソン大会が行われる近くのスポーツ公園へと向かう。

しかし…ここで予想外の事態に直面した。ボランティアの保護者は、ボランティア専用のベストを着なければならなかったのだ。

「TOKYO 2008」

この輝かしい文字は、ベストの下に隠れ全く見えなくなってしまった。

お父さん……ガッカリだったよね。

父があの時のことをいまも覚えているか分からないが、わたしはしっかりと覚えている。ベストを渡された時の、父のなんともいえない顔を。

ベストの件は残念だったけれど、父は見守り隊として、生徒の後ろをしっかりと走ってくれた。父の応援もあり、長女も完走できた。

長女はあの時のことがよほど嬉しかったのだろう。

小学5年生の時に、敬老の日の作文コンクールでマラソン大会のことを書いた。そして、見事に入賞した。
もちろん、父もとても喜んでいた。
母は「お父さんだけ書いてもらってズルい」と笑っていた。

わたしが、最後に見た父の走る姿は、このマラソン大会だったと思う。
あれから約2年後、主治医にハッキリと言われる。

「腰の痛みも酷くなってきたし、走るのはそろそろ終わりにしましょう」

このころには腰痛がかなりひどくなっていて、父自身も走ることができなくなっていた。

気落ちして「家に引きこもってしまうかな……」と思っていた。だが、まだその足を止めなかった。

実家の近くに神社がある。神社に行く道のりはかなりの坂道、というか、山道を上がっていかなければいけない。高齢者にはかなり厳しいコースである。

父は毎朝その神社まで行き、参拝して家まで戻るのがかねてからの日課だった。往復30分以上は軽くかかる道のりを、父は毎日歩き続けていた。それだけは止めなかった。本当に動くのが好きだったんだと思う。

だが、80代半ばになったころ、とうとう神社にも行けなくなった。というよりも、長く歩くこと自体しんどくなっていた。少し歩いては休む、歩いては休む。腰の痛みはもう、限界まで来ていた。 

2022年10月 父 87歳

このころから父は体調を崩し、入退院を繰り返すようになった。

最初の入院はヘルニアだった。

ヘルニアの痛みはわたしには分からない。でも、少なくとも、父が「痛い」や「辛い」と言うのを、わたしは聞いたことがない。我慢強いのか。それとも、男は弱音を吐くなと言われて育った世代だからなのか。

87歳でヘルニアになったときも、その我慢強さが仇となり、一晩痛みに耐えた。翌朝病院に行ったが、着いた途端何度も嘔吐し、そのまま入院となった。翌日は発熱し、肺炎までおこしていた。

このときは流石に、最悪な結果を考えた。肺炎までおこしてしまったら、もう体力は持たないかもしれない。

幸い、肺炎は軽症ですみ、ヘルニアもいったん体調を戻してから手術することになった。いまの状態で手術するのは、体へのダメージが大きいとのことだった。

その後、無事にヘルニアの手術を受け、退院することが出来た。

父の体調も徐々に回復し、自宅前を散歩するなど、ゆっくりと穏やかな日常を送り始めた。

退院して半年程たった2023年 夏。

持病の腰痛が日常生活にも支障をきたすようになり、再度入院となる。
病院で安静期間を過ごした後、歩行器で歩くリハビリ生活が始まった。

このころわたしは、初めて父のケアマネジャーさんと会う。病院でリハビリをしながら、退院後の生活をどのようにしていくのか、打ち合わせをすることになった。

最初に、看護師さんから病状説明があり、その後、父が退院後どのような生活をしたいか、本人の希望を話してくれた。

「以前はマラソンが趣味でよく走っていた。東京マラソンにも出た。残念だがもう走ることは出来ない。自宅で妻と穏やかに過ごしたい」

このときのわたしの感情は、まるでジェットコースターだった。

まず、いきなり出てきた「東京マラソン」という言葉。

父にとって東京マラソンは、本当に大切で何年経っても「ちゃっかりアピール」したくなる思い出なんだと思う。思わずニヤリとしてしまう。

しかし、その後の「妻と穏やかに過ごしたい」という、80歳までいろいろなことにチャレンジして動くことを止めなかった父から出たその言葉に、今度は目頭が熱くなってしまう。

退院直前に主治医との面談があった。父の現状を聞きながら、母とわたしは不安に思っていることを質問をしていく。ずっと黙っている父に、先生は最後に、父の顔を見ながら

「何か心配なことや聞きたいことはありますか?」

と話しかけた。

父は少しだけ顔を上げ、こう言った。

「お酒は飲めますか?」

唯一の質問がこれである。でもなんとなく予想はしていた。先生は次のように答えた。

「少量のお酒ならダメとは言わない。ただ、むせて誤嚥性肺炎などを起こすリスクもある。リスクを承知の上で、飲む飲まないは本人とご家族で判断して下さい」

先生の言葉で笑顔に変わった父の顔は、マスク越しからもわかる。たぶん「少量のお酒ならダメとは言わない」――ここだけはしっかりと聞いていたのだと思う。

それから無事に退院し、家ではゆっくりと過ごしながら、週に2回デイサービスに行く生活が始まった。デイサービスとは、朝、介護施設に行き、夕方家に戻る介護サービス。

最初はデイサービスに行くことを嫌がった。だが、口では言わない。当日の朝になると、

「なんか目眩がする」「お腹の調子が悪い」

と言い出す。そんなやり取りをしながらも、しぶしぶ行ってはいたが、ときには母が根負けして行かない日も何度かあった。

母はもともと身体があまり強くなく、「わたしがもう少し丈夫だったら家でお父さんをみれたのに」と言っていた。そんなこともあり、ある日、担当のケアマネジャーさんが自宅に来てくれた。そして、父にこう言ってくれた。

「デイサービスはお母さんが休む日なんです。お母さんが疲れて倒れたら困りますよね。お母さんが元気でいてもらう為にも、デイサービスは仕事に行くと思って下さい」

この言葉は効いた。デイサービスは自分ではなく、母のため。母を休ませるために自分は仕事に行くのだ。

この日を境に、父はデイサービスを休まず行くようになった。正直に言えば、その後もたまに「目眩がする」日はあったが、それでも休まずに行った。

デイサービスの次は、1泊2日のショートステイ。それに慣れたら1週間。

「そんなに行くのか」と言いながらも、「母のため」と父は行ってくれた。

2025年 1月 父 89歳

ショートステイから自宅に戻ってきた父が熱を出した。急遽病院へ。インフルエンザだった。肺炎もおこしており、そのまま入院となった。幸いにも、2回目の肺炎も重症になることはなかったが、このころから体力、そして体重が目に見えて落ちていった。

1ヶ月近く入院し、無事に退院することが出来た。だが、自宅に戻った父は、ベッドにいる時間がだんだんと長くなっていた。

この年の夏ころから、ショートステイの期間を延ばすようになった。2週間、そして次は約1ヶ月。父の体調、そして何より母の体調を気にかけて下さったケアマネジャーさんが、いろいろと考えて計画をして下さった。

ある時、母が教えてくれた。
 
「お父さんね、施設で夜寝る前にベッドの中で必ずやることがあるんだって。自分の名前と生年月日、住所とわたしの名前、あとは娘と孫の名前。これを口にしてから寝るんだって」

父は90歳になっていた。父自身も、大切な人のことを忘れてしまうかもしれない不安を感じていたのかもしれない。

約1ヶ月をショートステイ先で過ごし、その後、2泊3日を自宅で過ごす。そしてまたショートステイ先に戻る。

「10日くらいいたのか?」

1ヶ月のショートステイも、父には10日間くらいに感じるらしい。

「そうだね、それくらいかな」

わたしも母も父に合わせて答える。
それが正解だったのかは分からない。

このとき、既に父はほとんどの時間を施設で過ごすようになっていた。2泊3日の帰宅時には、なるべくわたしも実家に帰るようにしている。父に顔を見せるためもある。でも実際は、2泊3日とはいえ母が1人で父をみるのは限界だった。

そんな生活が1年近く続いた。

2026年5月 父 91歳

「お父さんが入所する施設が決まったよ」

母から電話がきた。これは「父が最期を迎える日まで入所する施設が決まった」という意味である。いま、お世話になっているショートステイ先とは別の、となり村の施設だった。この施設も以前、ショートステイで利用させてもらったことはある。

翌月6月15日が入所日となった。とてもありがたいことだ。こういったことはタイミングで決まるらしい。でも、入所にはまだ時間がかかると思っていたので、少し気持ちが落ちつかない。

5月下旬、ショートステイ先から2泊3日の帰宅日を迎えた。父は翌月から施設に入所する。つまり、これが自宅で過ごす最後の日だ。だが、父はそのことを知らない。というより、どうしても言えなかった。自宅で過ごす最後に、大好きなお酒を美味しく飲んでほしかったからなのかもしれない。

食事量も減り、あの、マラソンで鍛えた足は骨と皮だけになっている。それでもお酒は帰宅時の一番の楽しみだった。誤嚥しないよう、ほんの少しのお酒にたっぷりトロミをいれた。トロトロのお酒を「美味しい」と言いながらちょっとずつ飲む父。トロミの入ったお酒なんて美味しいのだろうか……でも、父が満足ならそれでいい。

翌日、父はショートステイ先へと戻った。最後まで大事な話は出来なかった。「またね」と父を送り出した。

わたしと母はその後、父の転出届けの手続きのために市役所へと向かった。

父が入所する施設のケアマネジャーさんから、「ご本人には、もう家には戻れないこと、ずっとここで過ごすことを、入所前にきちんと説明してください」と言われた。

そこで数日後、ショートステイ先の施設に母と面会に行った。

「うまく言えない。泣いてしまう」と母。そこで、わたしが説明すると決めていた。

施設に着くと、スタッフの方が父を面会室へと連れてきてくれた。

「よし、切り出すぞ」と思ったときだった。

「お父さん、来週から他の施設に移るよ」

母が前のめりで話し出した。なかなかの早口で。
「えぇぇぇ! 打ち合わせと違うじゃん!」とあせるわたしにお構いなしで、母はどんどん話していく。

「前に行ったことのある施設だよ。となりの村のさ。今度はそこにずっといるんだけど…ほらお父さん、施設に居たり自宅に戻ったりは大変だよね。疲れるよね。だから今度はお父さんが施設に居て、わたしが会いに行くから」

一気にまくしたてる母。わたしは思わず「そうそう、移動は疲れるしね」と言うのが精一杯だった。

母の勢いに驚いているのか、話の内容が理解できないのか分からないが、父は何も言わずにじっと母の顔を見ている。

「どうしよう……」怒っているのか何なのか、なんだかよく分からない。

最後に母が言った。

「たくさん会いに行くから。いままでより会えるから」

その一言で、ようやく父の表情が和らいだ。

「そうか、会いにくるのか」父はそう言って少し笑った気がする。そう見えただけかもしれない。

その後、父から「もう帰っていいよ」と言われてしまった。どうやら面会室の椅子に座っているのがしんどいらしい。

「えぇ? そう。じゃあ来週迎えに来るからね」

そう言って父と別れた。

本当に椅子がしんどかっただけなのか……これも分からない。

これを書いている2日後、いよいよ父は施設に入所する。当日はどんな1日になるのか、父はどんな顔をしているのか……いまは不安が大きい。でも、わたしはその父の姿を、しっかりと見届けたいと思う。

最後に……。

わたしは自他共に認める、いわゆる「ネット弱者」である。SNSなど一切やったことは無いし、もっぱら見る専門。コメントなども書いたことは無い。

だけど、父の施設入所が決まってから、父のことを書きたい気持ちがどんどん高まった。

そんな時、偶然にも夫から「note 創作大賞」の話を聞いた。

「これだ! このタイミングだ!」と、自分の中で一気に火がついた。

冒頭にわたしは、この文章を書くきっかけとして「父のことをよく知らないのかもしれない」と書いた。

父との過去の思い出を書き出していくうちに、父がまだ元気だったころに戻った気がした。書いている間は自分も若返ったような気がする。本当に楽しかった。涙も出たけど。

自分でも驚くくらい、一気に書き上げた。

改めて思う。父はやはり「無口で穏やかな人」だ。マラソンが大好きで、70歳を超えてから出た東京マラソンをちょいちょいアピールする「あざと可愛さ」もある(笑)
何事も諦めない、納得するまでやり切る強さもある。
とにかくお酒が大好き!トロミを入れたトロトロのお酒でも飲みたい!

そして、いつでもどんな時でも、母のことを1番に考えている。

書き始めるまえに感じていた「物足りなさ」が埋まったかと聞かれれば、自信をもって「はい!」とまではまだ言えない。ただ、

「お父さんはどんな人?」と聞かれたら、今のわたしはこう答える。

「母とお酒と東京マラソン」が大好きな人!


こんな自己満足で拙い長文を最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

2026年 6月13日

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