凛・24歳・シンママ 第1話:稼ぎ時の土曜日に
1月中旬、冷え切った京都・西大路の小さなアパートの部屋で、私は今日の予定を確認する。時計は7時30分を少し過ぎている。あと30分で、息子を保育園に預けるために、家を出なければならない。今日も、お気に入りのディオールのアディクト リップ マキシマイザーを軽く塗り、鏡の中の自分に、
(大丈夫、いつもの仕事!)
と言い聞かせた。
シンママになって三年。正直、生活は苦しい。準看護師の薄給と、高額な歯科衛生士学校の学費が重くのしかかる。実家は近いけれど、あの一件以来、甘えることは許されていない。あの時、反対を押し切って自分で選んだ道。誰のせいにもできない。
土曜日の午前中。そこが私の唯一の稼ぎ時だ。平日の仕事が終わってからでは保育園のお迎えに間に合わないので、P活はできない。日曜日は子供を預けられない。このため、土曜日にできれば三時間枠を二名、サクサクとこなしたいのが本音だ。
今日は初めて会う男性と顔合わせの後、太Pの原田さんとホテルで落ち合う予定だ。
保育園に息子を預けて、先生との話もそこそこに、急いで京都駅に向かう。待ち合わせは、午前九時半に京都駅前の京湯元ハトヤ瑞鳳閣のロビーにあるカフェ。西大路駅からたった一駅なのに、電車の便が思いのほか悪い。このままでは10分以上は遅れてしまいそう。初回から遅れるのはマズイ。ドタキャンされてしまう可能性さえある。それでは大損害だ。LINEで少し遅れる旨を連絡する。
「遅れました。すみません」
息を切らせて到着したのは9時50分。クロさんは、私が想像していたよりもずっと穏やかな雰囲気を持つ、頭が良さそうな男性だった。年齢も56歳と書いてあったが、どう見ても40代にしか見えない。爺だとばかり思っていたので、少しホッとした。服装は、清潔感のある黒のシャツに、濃紺のジーンズだった。休日のお父さんという感じがぴったりくる。
「大丈夫ですよ、私もさっき着いたばかりですから」
その優しそうな笑顔に、張り詰めていた肩の力が少し抜けた。席に座ると、彼は会釈して店員さんを呼び、ストレートの紅茶を頼み、私はカフェラテを選んだ。
最初はいつもの通り、仕事の話や趣味の話、当たり障りのない会話で時間を潰すつもりだった。P活の初対面で心を開くなんて、絶対にありえない。元夫の言葉が、私の心に深く刺さっているからだ。
「そもそも俺の浮気の原因は、お前の自己中なところだよ!ベッドでだってそう。俺のことなんか、これっぽっちも気にしてくれなかった。さっさといけよって感じで、本当に嫌だった」
自分勝手。マグロ。私は誰にも心を許せないし、体の繋がりで喜びを感じることもない。
だからP活は割り切れる。これは単なる仕事だ。
そう思っていたのに、クロさんとの会話は予想外に弾んだ。
仕事の話、読んだ本の感想、ディオールへのこだわり。クロさんは私の話に真剣に耳を傾け、時折ユーモラスな言葉を返してきた。
時間が経つにつれて、私は出る時間を完全に忘れそうになっていた。
「凛さんは、B級グルメがお好きなんですよね?この間行った、京都駅ビルの10階にある拉麺小路の北海道味噌ラーメンが美味しくて…」
私は慌てて話を遮った。
「そうなんです。私、凝ったものよりB級グルメが好きなんですよ!せっかちなんで、パッと食べてパッと移動できるのがいいっていうか」
嘘だ。
本当はゆっくり食事をする時間が勿体ないに過ぎない。一人との時間を少しでも短くしたかったから、適当に”B級グルメ好き”とプロフィールに書いてしまった。高級なフルコースなんて、一秒一秒がお金に変わる私には恐ろしい時間の浪費でしかない。
でも、クロさんは私の言葉に納得したように頷き、
「ぜひ今度、ご一緒しましょうね」
と言ってくれた。
気づけば11時半。二時間も話していた。慌てて立ち上がると、彼は笑顔で言った。
「今日は本当に楽しかったです。あっという間でした。またすぐに会いたいな」
その言葉は、ただのお世辞には聞こえなかった。
クロさんと別れて、急いで次の原田さんとの予定へ向かいながら、私は今日のこの時間を頭の中で反芻した。いつもの疲労感よりも、少しだけ心が温かい気がする。彼との会話は、仕事でも義務でもなかった。久しぶりによく笑った気がする。もし彼がP活という枠の外で出会った人だったら、私はもう少し心を預けられただろうか?
いや、そんなことを考えても無駄だ。私はシンママで、借金まみれの学生で、そしてP活をしている。現実から目を逸らしてはいけない。
だが、バッグの中でディオールのアディクト リップ マキシマイザーを握りしめながら、私はクロさんからの二回目のデートの誘いを待っている自分に気づいた。
(また会いたいな。)
そんな感情がほんの少し生まれていることに、自分自身が一番驚いていた。
(第2話に続く。)
