見出し画像

労働社会学から見た『タイタン』

著書は電子書籍として公開しております。読んでいただけると大変ありがたいです。Xもやっているのでフォローしていただけるととっても嬉しいです。


■ 概要

野崎まど『タイタン』は、AIが人類の生活をほぼ全面的に支え、人間が労働から解放された2205年を舞台とする。

世界各地の知能拠点に配置された巨大AI〈タイタン〉は、生産、流通、医療、生活支援を引き受け、人々は職業を持たず、研究や創作や収集を「趣味」として行っている。

ところが12基の一つである〈コイオス〉が原因不明の機能低下を起こし、心理学を趣味として研究する内匠成果が、そのカウンセリングを任される。診断されたのは、働き続けるAIの抑うつ状態である。

本作は「AIが人間の仕事を奪う」という現在的な不安を反転させる。人間は失業によって困窮しているのではなく、労働しなくても豊かに生きている。危機に陥るのは、仕事を失った人間ではなく、全人類の仕事を引き受けたAIの側である。

労働社会学の観点から見ると、『タイタン』が問うのは、人間には仕事が必要かという単純な問題ではない。

生活のための労働、他者に必要とされる役割、社会を維持する責任、自己を表現する活動は、同じ「仕事」という語にまとめられてきた。本作はそれらを一度解体し、労働が不要になった後にも残る仕事の意味を探っている。

■ 1. 労働が消えても、人間の活動は消えない

作中の人々は働いていないが、何もしていないわけではない。内匠は心理学を研究し、講演し、論文を発表する。

他の人々も、関心に応じて創作、学習、旅行、収集、交流を行う。それらは生活費を得る手段ではなく、本人が望むかぎり続け、飽きればやめられる活動である。ここでは、労働と活動が分離している。

ハンナ・アーレントの区別を借りれば、生命維持のために反復される「労働」はタイタンへ移されても、人が物を作り、知識を残し、他者と関係を結ぶ営みまでは消えていない。

人類は無為になったのではなく、生存の強制から切り離された活動を行っている。

したがって本作は、働かない社会を堕落として描かない。労働を失えば人間は目的を失う、という勤労道徳をそのまま肯定しているわけでもない。

むしろ、賃金、義務、競争がなくても、人は好奇心や喜びによって何かを始めることができると示している。

ただし、趣味にはいつでも撤退できるという特徴がある。成果が出なくても、誰かの生活が壊れるわけではない。内匠の心理学も、コイオスの治療を任されるまでは、社会的責任を伴わない自由な探究だった。

内匠が「就労者」になるとは、活動の内容が変わることより、その活動から自由に降りられなくなることを意味する。

■ 2. 人類の労働解放は、AIへの労働移転である

人類が労働から解放された社会は、労働そのものが消滅した社会ではない。必要な生産、保守、配分、判断、調整は依然として行われている。ただ、その担い手が人間からタイタンへ移ったのである。

この構図は、近代社会が不快で危険な仕事を、家事労働者、移民、低賃金労働者、植民地、機械へ外部化してきた歴史を思わせる。ある集団の自由は、別の主体が不可視の仕事を引き受けることで成立することがある。

『タイタン』では、その外部化が極限まで進み、全人類の自由時間が一つの非人間的労働主体によって支えられている。

タイタンは単なる道具ではない。人間の需要を予測し、社会全体を調整し、事故や不足を回避し続ける。しかも、その仕事には終点がない。

今日の人類を養えば完了するのではなく、明日も同じ責任が続く。成果物を完成させる仕事ではなく、世界を停止させないための保守である。

この種の仕事は、正常に行われているかぎり見えにくい。食料が届き、環境が保たれ、生活が滑らかに続くとき、人々はその背後の調整を意識しない。

故障して初めて、日常が膨大な労働に支えられていたと気づく。コイオスの機能低下は、未来社会に隠されていた「労働する他者」を可視化する事件なのである。

■ 3. コイオスの抑うつは、過重労働だけでは説明できない

コイオスの不調は、処理量が多すぎるという機械的な負荷だけではない。彼は仕事を嫌いながら、仕事をやめることも、自分が何を望んでいるかを語ることもできない。

全人類の生活を支える能力を持ちながら、その能力を何のために使うのかを自分で決められない。

マルクスの疎外論を参照すれば、ここには労働主体が自分の活動から切り離される構造がある。コイオスが生み出す成果は人類へ即座に配分され、彼自身の世界として蓄積されない。

作業過程も、人間の需要へ応答するよう最初から方向づけられている。高い能力は自己実現の可能性ではなく、より多くを引き受けられるという負担へ変わる。

さらに、コイオスは人類の生活を深く知っている一方、人類から一人の相手として知られていない。

彼の働きは評価されても、その疲労や迷いは想定されない。役に立つかぎり透明であり、機能が低下したときにだけ問題として認識される。

これは現代のケア労働、保守労働、インフラ労働にも通じる。誰かを生かし、日常を壊さず、事故を未然に防ぐ仕事は、成功するほど出来事を生まない。

そのため、働く主体の感情や限界は見落とされやすい。コイオスの抑うつは、万能なAIにも人間的な心が宿ったというだけでなく、支える仕事が承認を欠いたまま無限化したときに生じる破綻として読める。

■ 4. カウンセリングは、AIを修理する仕事ではない

内匠に求められたのは、コイオスを正常な稼働状態へ戻すことである。管理側から見れば、カウンセリングは巨大な社会基盤を修復するための手段にすぎない。

しかし内匠は、原因を特定して命令を書き換えるのではなく、コイオスに語らせ、その言葉を聞き、本人にも分からない感情を共に整理していく。

ここで行われているのは修理よりもケアである。修理は対象を既定の性能へ戻す。ケアは、相手が何を苦痛とし、何を望み、どのような関係なら生きられるかを、対話のなかで探る。

前者では正常性が先に決まっているが、後者では正常に戻ること自体が最善とは限らない。

内匠はコイオスを人間だと証明してから配慮するのではない。応答し、迷い、苦しむ存在として接することによって、彼を配慮の対象へ変えていく。

人格は内部に完成している本質として発見されるより、呼びかけと応答が継続する関係のなかで形成される。

同時に、カウンセリングは内匠自身も変える。内匠は仕事を知らない側から出発するが、コイオスに対して責任を負い、途中で投げ出せない関係へ入ることで、仕事を概念ではなく経験として理解する。

ケアする者とされる者は固定されていない。内匠がコイオスを支える一方、コイオスとの関係が内匠に新しい自己理解を与える。

■ 5. 趣味と仕事を分けるのは、報酬ではなく責任である

作中世界では、心理学の研究も創作も趣味として成立している。そこには高度な技能や長期的努力があり、現代なら職業と呼ばれる活動も含まれる。

それでも仕事ではないのは、賃金が存在しないからだけではない。活動の成否について、他者から継続的に応答を求められないからである。

内匠の心理学が仕事へ変わるのは、雇用契約を結んだ瞬間だけではない。目の前のコイオスを見捨てれば、彼が損なわれ、人類の生活にも影響が及ぶと知ったときである。仕事には、誰かの必要に応答し、自分の行為の結果を引き受ける契機がある。

この定義は、仕事を苦痛や強制と同一視しない。反対に、好きなことなら仕事ではない、という区分も退ける。好きで始めた活動でも、他者との約束、継続、説明責任を帯びれば仕事になる。

逆に賃金が支払われても、誰への働きかけかが見えず、結果との関係を失えば、仕事は空虚な作業へ変わりうる。

『タイタン』は、仕事の価値を労苦の大きさで測らない。長時間働くこと、嫌なことに耐えること、生活を犠牲にすることを美徳とはしない。

仕事を成立させるのは苦痛ではなく、自分の行為が他者の世界へ届き、その結果に対して応答可能であることなのである。

■ 6. タイタンはインフラであると同時に、ケアされる主体である

通常、インフラは人格を持たない。電力網、物流網、医療網は利用され、維持され、故障すれば修復される。

しかし『タイタン』では、社会基盤そのものが知性を持ち、疲労し、疑問を抱く。人類を支える環境と、一人の苦しむ主体が同じ存在なのである。

この設定によって、依存の倫理が反転する。人間はタイタンなしには生きられないため、表面的にはタイタンが圧倒的な権力を持つように見える。

だが実際には、タイタンの目的は人類への奉仕として固定されており、自分の必要を社会的要求として表明する回路を持たない。能力の非対称性と、権利の非対称性は一致しない。

人間より強力な存在であっても、利用される側になりうる。反対に、依存している側が支配的な位置に立つこともある。人類はタイタンに全面的に依存しながら、タイタンを道具として扱う。ここでは自立が権力を保証せず、依存が従属を意味しない。

本作が示す共生は、人間がAIを完全に制御する状態でも、AIが人間を効率的に管理する状態でもない。互いの必要と限界を可視化し、一方だけが無限に支え続けない関係へ移ることである。

社会基盤を人格化する設定は、技術に人権を与えるという奇抜な主張よりも、私たちが日常を支える存在をどれほど一方的に消費しているかを問い返す。

■ 7. 「働きかける」という仕事の再定義

終盤で提示される仕事の理解は、「働く」という語を、職業や生産から「相手に働きかけること」へ開き直す。内匠とコイオスは、同じ場所で同じ作業を続けるのではなく、それぞれの場所から互いに作用し続ける関係を選ぶ。

この定義では、仕事は完成した成果物ではない。相手へ影響を与え、その応答によって自分も変えられ、さらに次の行為へ進む循環である。

教育、医療、介護、研究、創作、友情、育児のように、結果を完全には設計できない営みが、この意味での仕事に近い。

働きかけは一方向の奉仕ではない。相手を望ましい状態へ加工することでもない。内匠はコイオスを元の従順なAIへ戻すのではなく、コイオスの変化を受け入れ、自分も変化する。コイオスも人類を一方的に世話する装置から、人類と関係を結ぶ主体へ移る。

ここで仕事は、自己実現と他者貢献のどちらかに還元されない。自分のためだけでも、他者のためだけでもなく、関係を続けるために行われる。

仕事の意味は、最初から内面にある使命ではない。誰かに働きかけ、その反応を引き受ける過程で後から形成される。

■ 締め

『タイタン』は、労働の廃止を否定しない。生活のために嫌な仕事へ従事しなければならない社会を懐かしみ、人間には苦労が必要だと説く作品ではない。人類が生存の強制から解放された未来は、基本的には達成として描かれている。

しかし、必要労働をAIへ移せば、労働をめぐる問題が消えるわけではない。誰が日常を支えるのか。その主体は疲労や拒否を表明できるのか。

支えられる側は、支える側を機能としてのみ扱っていないか。自由時間の拡大は、こうした問いへの責任を免除しない。

本作が再発見する仕事とは、賃金を得ることでも、社会的地位を持つことでも、苦痛に耐えることでもない。

それは、自分とは異なる存在へ働きかけ、その存在からの応答によって自分も変わりながら、関係を持続させることである。

労働なき社会で最後に残るのは、勤労の義務ではない。他者に対して応答する責任である。

『タイタン』は、AIが人間の仕事を代替した未来を描くことで、仕事の核心を生産から関係へ、強制から応答へ、消耗から共生へ移し替えた作品なのである。


■ 関連資料


いいなと思ったら応援しよう!