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絹の代役から機械の骨格へ『ナイロン66』の歴史

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■ 概要

ナイロン66は、ヘキサメチレンジアミンとアジピン酸を原料として作られる合成高分子である。化学的にはポリヘキサメチレンアジパミド、材料名ではポリアミド66、PA66とも呼ばれる。

名称の「66」は、偏差値でも完成年度でも耐久性評価でもない。二つの原料がそれぞれ炭素原子を6個持つことに由来する。

ナイロン66は、絹に似た繊維として登場し、女性用ストッキングで消費文化を変え、第二次世界大戦ではパラシュートやタイヤコードとなり、戦後には歯車、軸受、自動車部品、電気部品へ進出した。糸として売り出された高分子は、最終的に機械の内部へ入り込んだのである。

■ 1. 「66」は二つの六

ナイロン66の一方の原料であるヘキサメチレンジアミンは、炭素6個の鎖の両端にアミノ基を持つ。もう一方のアジピン酸も、カルボキシ基の炭素を含めて炭素数は6である。

二つをほぼ等モルで混合すると、まずヘキサメチレンジアンモニウムアジペートという結晶性の塩ができる。工業現場では「ナイロン塩」と呼ばれる。

これを加熱すると、アミノ基とカルボキシ基が反応してアミド結合を作り、そのたびに水が外れる。反応を繰り返すことで長い分子鎖が形成される。これは縮合重合と呼ばれる。

したがって「66」とは、単なる商品番号ではなく、分子の戸籍をかなり簡略化して表示した名称である。炭素原子を数えるだけなので、ブランド名としては異様に事務的である。逆に言えば、開発当時はそれで事足りた。

■ 2. 絹を輸入していた米国

20世紀初頭、絹は高級衣料だけでなく、女性用ストッキング、縫合糸、電気絶縁材、パラシュートなどにも使われる戦略物資だった。

しかし米国は、生糸の大部分を日本からの輸入に依存していた。1930年代には、日本産生糸の最大の買い手が米国であり、輸入された絹の相当部分が女性用ストッキングへ加工されていた。米国では一日に約150万足のストッキングが消費されたとも推計されている。

すでにレーヨンは存在したが、これはセルロースを化学処理して再生した繊維であり、原料は植物由来だった。化学企業が目指したのは、天然高分子を加工するだけでなく、小さな分子から繊維そのものを組み立てることだった。

安定した国産繊維ができれば、企業は巨大市場を獲得し、国家は輸入依存を減らせる。女性の脚を覆う薄い布地の背後には、国際貿易と軍需物資の問題が立っていたのである。

■ 3. デュポンが「役に立たなくてもよい研究」を始める

1927年、米国の化学企業デュポンは、短期的な商品開発から距離を置いた基礎研究計画を承認した。当時としては異例の、月額2万5000ドル規模の研究投資だった。

翌1928年、ハーバード大学で有機化学を研究していたウォーレス・ヒューム・カロザースが採用され、高分子研究を率いることになった。

当時、高分子の正体はまだ論争中だった。ゴムやセルロースのような物質は、本当に原子が共有結合で長く連なった巨大分子なのか。それとも小さな分子が弱い力で集合したコロイドなのか。

ヘルマン・シュタウディンガーが提唱した巨大分子説は、現在では教科書にも書かれる事実だが、当時はかなり大胆な主張だった。

カロザースの研究班は、二官能性の原料を反応させれば長い分子鎖を設計できることを、実験と理論の両面から示した。

1930年、研究員ジュリアン・ヒルは高分子量ポリエステルを作り、熱した試料から繊維を引き出した。さらに冷えた繊維を強く引き伸ばすと、長さが数倍になり、強度も増した。

これは後に「冷延伸」と呼ばれる操作である。絡み合っていた分子鎖が繊維方向へ配向し、力を効率よく受け持つようになる。ただし初期のポリエステルは融点や耐水性が低く、衣料用繊維には適さなかった。

失敗作ではあったが、「長い分子を作り、糸にし、引っ張って強くする」という基本設計は完成していた。研究室はまだ商品を作っていなかったが、すでに製造原理を作っていた。

■ 4. 1935年:二つの六が選ばれる

研究班はポリエステルに代わり、分子鎖中にアミド結合を持つポリアミドへ研究対象を移した。

アミド結合には、隣接する分子鎖の間に水素結合を形成しやすい性質がある。天然の絹や羊毛もアミド結合を持つタンパク質であり、ポリアミドは強度や耐熱性の高い繊維になる可能性があった。

1935年2月28日、カロザースの研究班は、ヘキサメチレンジアミンとアジピン酸から強靱な繊維を作ることに成功した。研究番号は「ファイバー66」だった。

候補には炭素数5と10の原料から作るポリアミド510もあり、カロザース自身はこちらを好んだとされる。しかし研究部門責任者エルマー・ボルトンは、アジピン酸とヘキサメチレンジアミンの方が、当時のベンゼンやコールタール化学を基盤として工業生産しやすいと判断した。

材料選択を決めたのは、繊維の美しさだけではない。原料価格、供給網、精製方法、装置腐食、特許、工場での再現性まで含めた総合評価だった。

1935年7月、デュポンはナイロン66の工業化を決定した。開発には最終的に230人を超える化学者や技術者が参加し、研究・製造設備へ約2700万ドルが投じられた。

カロザースは長年重い抑うつに苦しみ、製品が一般公表される前年の1937年4月に自死した。ナイロンは一人の天才による発明として語られがちだが、実際には研究者、分析化学者、物理化学者、技術者、機械設計者、工場労働者が接続された集団的成果だった。

■ 5. 塩を作り、水を追い出し、糸を引く

高分子量のナイロン66を作るには、二つの原料をほぼ正確に同数だけ反応させる必要がある。

どちらか一方が過剰になると、分子鎖の端が早く封鎖され、十分な長さまで成長できない。そのため、まず一定組成のナイロン塩を結晶として精製する工程が採用された。

ナイロン塩を加圧下で加熱し、反応が進むにつれて圧力を下げ、水蒸気を除去する。得られた溶融ポリマーを微細な穴の開いた口金から押し出すと、細いフィラメントになる。

ただし、押し出した直後の繊維では分子鎖の向きが乱れている。これを冷延伸すると、分子鎖と結晶領域が繊維方向へ並び、強度、弾性、耐摩耗性が大きく向上する。ナイロンは、糸になった後で引っ張られて強くなる。

工業化は容易ではなかった。重合温度は高く、溶融物は酸化や分解を起こしやすい。粘度の高い液体を一定圧力で送り、数十から数百本の均一な糸にし、高速で巻き取る必要があった。窒素雰囲気、精密ポンプ、温度制御、延伸ローラーなどの技術が一体となって、ようやく商品になる。

アミド基間の水素結合と一定の結晶性により、PA66は強度、耐摩耗性、耐熱性に優れる。一方で水分を吸収しやすく、吸湿すると寸法や剛性が変化する。万能材料ではなく、水と折り合いをつけながら働く材料である。

■ 6. 「ナイロン」という名前はどこから来たのか

ナイロンという名称については、「New York」と「London」の頭文字を組み合わせたという説明が広く流布している。しかし、この説を裏づけるデュポンの記録はない。

命名経緯には資料間の揺れがあるが、デュポンの重役アーネスト・グラディングによる説明では、伝線しないことを意味する「no run」を逆転させた“nuron”が候補になり、商標上の問題から“nilon”を経て、発音を明確にするため“nylon”へ変更されたという。

もっとも、ストッキングが本当に伝線しないわけではなかった。「no run」を正式名称にしてしまえば、発売直後から苦情処理部門が高分子量化しかねない。

デュポンはナイロンを自社だけの商品名として囲い込まず、物質群の一般名称として使わせた。これは言葉の普及には成功したが、やがて「ナイロン」が特定のPA66だけでなく、さまざまなポリアミド系材料を指す広い名称になる原因にもなった。

■ 7. 最初は歯ブラシ、主役はストッキング

ナイロンが最初に使われた市販品はストッキングではなく、歯ブラシだった。

1938年、米国でナイロン毛を使った「ドクター・ウェストのミラクル・タフト歯ブラシ」が発売された。天然の豚毛より均一で、供給を管理しやすい新素材だった。ナイロンはまず人間の口内へ入り、その後に脚へ向かった。

1938年10月27日、デュポンはナイロンを正式発表した。翌1939年にはニューヨーク万国博覧会で紹介され、同年10月、デュポン本社のあるデラウェア州ウィルミントンで約4000足のストッキングが試験販売された。商品は約3時間で売り切れた。

1940年5月15日、全米でナイロンストッキングが発売された。この日は「Nデー」と呼ばれ、初日だけで約80万足が販売された。価格は一足1.15ドル前後で、絹製品と大差なかったが、薄く、滑らかで、丈夫で、洗った後の乾燥も速かった。

1941年には、ナイロンが米国ストッキング市場の3割以上を占めた。完全合成高分子が、研究室からわずか数年で日常衣料の巨大市場へ侵入したのである。

宣伝では、科学、清潔さ、現代性、性的魅力が一つの商品へ束ねられた。新素材の性能が売られたと同時に、「新素材を身につける近代的な女性」という人物像も売られた。

最初の商用品は口の中に入った。しかし歴史の見出しを奪ったのは脚だった。

■ 8. ストッキングからパラシュートへ

1941年12月に米国が第二次世界大戦へ参戦すると、ナイロンの供給先は民間市場から軍需へ切り替えられた。1942年には、市販のナイロンストッキングはほぼ姿を消した。

ナイロンはパラシュート、タイヤコード、曳航ロープ、航空機用燃料タンク、靴ひも、蚊帳、ハンモックなどに使われた。日本からの生糸輸入が途絶えるなか、国産合成繊維は軍事的価値を示した。

化学繊維は、発売からわずか二年ほどで百貨店から兵站部門へ転属したのである。

ストッキングを入手できなくなった女性の一部は、脚に褐色の化粧料を塗り、後ろ側へ黒い線を描いた。当時のストッキングには縫い目があったため、一本の線を引けば、遠目には着用しているように見えた。

衣料不足によって、ストッキングは布製品からボディーペインティングへ移行した。左右対称の縫い目を描く作業は、化粧というより脚を使った製図である。

戦争終結後、ナイロンストッキングの販売が再開されると、各地で長い行列ができた。供給不足が続いた1945~1946年には、数千足の商品に対して数万人が集まり、押し合いや混乱が起きる事例もあった。新聞はこれを「ナイロン暴動」と呼んだ。

これは単なる衣料不足ではない。戦時中に抑圧されていた消費、女性らしさ、平時への復帰、新技術への期待が、一つの商品へ集中した現象だった。

高分子鎖は化学反応で重合する。商品への欲望も、広告、欠乏、社会規範がそろうとかなりよく重合する。

■ 9. 「洗って着る」社会を作る

戦後、ナイロンはストッキングだけでなく、シャツ、下着、水着、レインコート、カーペット、釣り糸、テント、かばんなどへ広がった。

合成繊維は、軽く、虫害を受けにくく、乾きやすく、大量生産しやすかった。洗濯機の普及とも結びつき、「洗って、乾かして、すぐ着る」という衣生活を拡大した。

天然繊維には産地、季節、病害、個体差がある。一方、工場で作る高分子は、分子量、繊維径、断面形状、光沢、染色性を一定範囲に制御できる。

これは衣服を安くしただけではない。繊維を農産物から化学工業製品へ変え、衣料供給を畑や牧場から石油化学設備へ移した。

もっとも、ナイロンは吸湿性が低めで静電気が起きやすく、高温で軟化する。紫外線や酸化でも劣化する。そこでポリエステル、アクリル、ポリウレタン、天然繊維などとの混紡が進み、用途ごとに材料を組み合わせる設計へ移行した。

「未来の万能繊維」と宣伝されたナイロンも、実際の未来では単独主演ではなく、合成繊維アンサンブルの一員になった。

■ 10. 服を脱ぎ、機械の中へ入る

ナイロン66は、繊維としてだけでなく、溶融した樹脂を金型へ射出して作るエンジニアリングプラスチックとしても発展した。

強度、靱性、耐摩耗性、耐油性、自己潤滑性、比較的高い耐熱性を持つため、歯車、軸受、結束バンド、コネクター、電線被覆、自動車部品、家電部品などに使われる。

ガラス繊維を混ぜれば、剛性や耐熱性をさらに高められる。金属より軽く、複雑な形状を一工程で成形できるため、部品点数や加工工程を減らせる場合もある。

ただし吸湿による寸法変化や、強酸・強アルカリへの弱さ、高温での長期劣化などを考慮しなければならない。材料設計者にとってPA66は、「丈夫だから使う材料」ではなく、「丈夫さが成立する条件を計算して使う材料」である。

ストッキング売り場から始まった物質は、最終的に自動車のエンジンルームや電子機器の内部へ転職した。衣服を脱いだ方が、むしろ長時間働くようになった。

■ 11. 日本は別の「6」から入った

日本の合成繊維産業では、ナイロン66ではなくナイロン6が先に本格生産された。

ナイロン6は、主としてカプロラクタムという炭素数6の環状化合物を開環重合して作られる。繰り返し単位にはアミド結合があり、ナイロン66と同じポリアミド系だが、原料も繰り返し構造も異なる。

ナイロン6では一種類の炭素数6原料を使うため数字は一つ、ナイロン66では炭素数6の二種類の原料を使うため数字は二つ並ぶ。

東洋レーヨン、現在の東レは、戦前からポリアミド研究を進め、戦後に独自技術でナイロン6を工業化した。ただし製法そのものが異なっても、周辺特許との抵触が問題となる可能性があったため、1951年6月にデュポンとの技術提携契約を結んだ。

この経緯は、「ナイロン」が単一の発明品ではなく、異なる原料、重合法、物性、特許網を持つ高分子ファミリーであることを示している。

米国では66、日本では6が大きく発展した。数字が一つ違うだけだが、その背後には原料事情、特許、戦後復興、化学工業政策の違いが入っている。

■ 12. 丈夫さが残した請求書

ナイロン66の原料は、現在も主として化石資源を基盤とする化学工程から作られる。

特にアジピン酸の製造では、硝酸による酸化工程から亜酸化窒素、N₂Oが発生しうる。亜酸化窒素は強力な温室効果ガスであり、成層圏オゾンにも影響する。回収・分解設備によって排出量を大幅に削減できるが、設備の有無や運転状況が環境負荷を左右する。

衣料やカーペットとして使われるナイロンは、摩擦や洗濯によって微細な繊維を放出する。ナイロンだけの問題ではないが、合成繊維は海洋へ流入するマイクロプラスチックの主要な発生源の一つとされる。

漁網や釣り糸でも、腐りにくく強い性質が利用される。しかし紛失した漁具は長期間残り、魚類や海洋哺乳類を捕らえ続ける「ゴーストギア」になりうる。

丈夫で腐りにくいことは、使用中には長所であるが、廃棄後には短所になる。

使用済みPA66を溶融して再成形する機械的リサイクルでは、熱履歴、加水分解、汚染、他素材との混合によって品質が低下する。

そこでポリマーを化学的に分解し、アジピン酸やヘキサメチレンジアミン、または再重合可能な中間体として回収するケミカルリサイクルが研究されている。技術的には可能だが、分離、精製、エネルギー消費、回収物流、経済性が課題として残る。

20世紀の化学者は、分子鎖をどう長くするかに挑んだ。21世紀の化学者は、その鎖をどう安全に切り、もう一度つなぐかを問われている。

■ 締め

ナイロン66の物質史は、天然素材を化学工業で模倣した歴史であると同時に、天然素材にはなかった社会を作った歴史でもある。

カロザースらは、巨大分子の存在自体が疑われていた時代に、分子鎖を設計した。デュポンは基礎研究を工場へ接続し、化学技術者は高温の溶融物を均一な糸へ変えた。

その糸は、歯ブラシの毛になり、ストッキングになり、女性の身体をめぐる消費文化を変えた。戦争が始まるとパラシュートやタイヤコードへ転用され、戦後には大量消費社会の象徴として戻ってきた。

やがてナイロン66は繊維を離れ、歯車、軸受、コネクター、自動車部品として機械内部へ入った。日本では近縁のナイロン6が別の産業史を築き、「ナイロン」は一つの物質から材料群の名称へ広がった。

その一方、アジピン酸製造時の亜酸化窒素、合成繊維から出る微細繊維、海に残る漁具、回収しにくい複合材料が、長寿命と大量生産の代価として残された。

ナイロン66は、絹を真似た糸として始まった。しかし、人類が本当に得たのは絹の代用品だけではない。

「自然が作っていた材料を、分子設計と工程管理によって置き換えられる」という工業社会の確信だった。

その確信は、薄いストッキングも、兵士を支えるパラシュートも、エンジン内部の歯車も作った。そして今、廃棄後まで責任を持つ設計を要求している。


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