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【海外文学】2018年上半期ベスト【日本文学】


 昨年末に2017年の海外文学ベスト10日本文学ベスト5の記事を投稿してから、早くも半年がたった。

今年は年末まで待っていると上半期に読んだ本の感想を忘れてしまいそうなので、ここ6ヶ月で読んだ中から特に気に入った作品をまとめておこうと思う。

短編・長編で分けようか、全て統合してベスト10にしようかなどと悩んだが、今回も前回と同じく海外文学から10作、日本文学から5作をランキング形式で紹介する。ただし記事は2つに分けず、ここで一気に書く。

・ランキングの基準はひとえに「自分が読んで面白かった、好きだった本」。
・大文字の書名クリックでAmazonのページへ飛ぶ。
・必ずしも貼ってある画像の本でその話を読んだわけではない。
・基本的には短編であろうがその話1作単位でランクインする。短編集が1冊としてランクインする場合はそう明記する。

それではまずは日本文学から。


【2018年上半期:日本文学ベスト5】

第5位 犬婿入り / 多和田葉子

 昼さがりの光が縦横に並ぶ洗濯物にまっしろく張りついて、公団住宅の風のない七月の息苦しい湿気の中をたったひとり歩いていた年寄りも、道の真ん中でふいに立ち止まり、斜め後ろを振り返った姿勢のまま動かなくなり、それに続いて団地の敷地を走り抜けようとしていた煉瓦色の車も力果てたように郵便ポストの隣に止まり、中から人が降りてくるわけでもなく、死にかけた蝉の声か、給食センターの機械の音か、遠くから低いうなりが聞こえてくる他は静まりかえった午後二時。

平成4年度下半期の芥川賞受賞作。上の引用部はこの短編の第一文である。長い。
ただしこの調子が続くのははじめの数ページで、あとはグッと読みやすくなるから安心してほしい。

懐かしい公団住宅地区の近くで小学生向けに私塾を営む女性、みつこ。彼女のもとに、突如として<犬>のような男、太郎が転がり込んでくる。はじめ、謎の存在として描かれていたみつこが、太郎の登場によって相対的に"普通"の存在へと墜ちて往く様が、不思議と痛快だった。

一文が長く浮遊感のある独特の文体に、伝承的な要素が含まれる脚本が相まって、全く新しい読書体験だった。

参考:病的にポップでありたい 多和田葉子「犬婿入り」感想


第4位 魚籃観音記 / 筒井康隆

『本編黙読中は、BGMに「MISTY」など用い、頁を繙くのに用いぬ方の手で静かに手淫行わば、結末間近にして大いなる歓喜法に導かれること間違いなし。ゆめゆめ疑うことなかれ。』作者

法外な作者注から始まるこの超絶ハイテンションポルノは、最初から最後までとにかく罰当たりで、官能的で、かつ面白い。

『西遊記』の孫悟空がふとしたことで観音菩薩に会いに行くと、偶然にも菩薩は裸同然の格好をしていた。そこから始まる息もつかせぬ官能描写。「観音様の観音様」、「ブッタマゲタ」、「別人28号」…全てがどうしようもなく下らないが、思わず声に出して読みたくなる圧倒的なリズムとテンポの良さで一気に駆け抜ければ、その下らなささえ面白く感じられる。小説は堅苦しいものでなく、自由にやっていいんだということがよく分かる傑作。


第3位 一千一秒物語 / 稲垣足穂

ポケットの中の月
 ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた
 坂道で靴のひもがとけた
 結ぼうとしてうつむくとポケットからお月様がころがり出て 俄雨に濡れたアスファルトの上を ころころころころ どこまでもころがっていった
 お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった
 こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった

このような数行で終わる掌編が数十編連なった、極めて独創的なショート・ショート集である。掌編はどれも「」や「」が擬人化された形で登場する。これらは崇高な存在ではなく、一介の人間と思われる語り手とすぐに殴り合ったり出し抜きあったりと、同列の存在として描かれている。

不条理な暴力描写や展開は正直ワケが分からないが、ときどき上で挙げたような、自己同一性を軽く嘲笑う痛快な掌編が挟み込まれている。これが非常に魅力的で、これら数編を楽しむだけでも一千一秒物語を読む価値は十分あると思う。

参考:『一千一秒物語』稲垣足穂 / 松岡正剛の千夜千冊


第2位 百年泥 / 石井遊佳

 私はぼんやりした子供だった。たとえば日曜日、家にいて、隣に母がいて、編み物をしている。今日は日曜日だ、ふと思う。すると、どこかにもうひとつの日曜日があるんじゃないか、そんな思いがうかぶ。私がすごした日曜日と、私がすごさなかった日曜日。両方とも同じ日曜日、どちらが本物とか正しいとかいうのではない。そしたらきっと、もうひとつの月曜日や火曜日だってある。それらについて考えてみた。

今年の芥川賞受賞作。インドの都市チェンナイの企業で日本語教師をすることになった"私"は、豪雨による百年に一度の大氾濫に遭遇する。

100ページあまりの物語の"現在"の時間軸としては、彼女が家を出て、溢れかえる河に架かる橋を渡りきるだけで話が終わる。橋の上を歩く間に、両側に堆積した百年分の泥から次々と発掘される旧友や記念品のように、"私"の過去、現在に至るまでの境遇、彼女が教えるインドの青年たちのエピソードなどがごちゃごちゃに紐解かれる。その現実と非現実が溶け合い、混沌としてゆく様はまさに百年泥である。

序盤はチェンナイのムッとした空気や匂いに気圧されて読みにくかったが、中盤からはその変幻自在の語り口に惹き込まれて止まらなかった。現代日本文学で追いかけたいと思える作家に出会えてとても幸せだ。



第1位 片腕 / 川端康成

 「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。 「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。

「伊豆の踊り子」を読んでも「雪国」を読んでもピンと来なかったが、本作にはこの1行目からノックアウトされた。女性の片腕を一晩だけ取り外して借りる、という不条理で怪奇的な行為が、あたかもありふれたことのように読者の前に投げ出される。この冒頭だけで一気に著者の掌中に落とされるのだが、この話はその一発ネタで終わるような代物ではない。

川端の天才的、というよりもはや変態的としか形容し難い筆致の積み重ねにより、読む者の感覚は研ぎ澄まされ、暗く怪しく美しい小説空間へと知らないうちに引きずり込まれる。

マジックリアリズムすら鼻で嗤えるような高みへと到達してしまったこの作家は、わたしの中で天才というより化け物というほうがしっくりくる。自分にとって今のところ完璧な短編にもっとも近いと思えるのがこの「片腕」である。

参考:池澤夏樹『近現代作家集Ⅱ』



続いて海外文学のランキングに入る。


【2018年上半期:海外文学ベスト10】



第10位 ゴドーを待ちながら / サミュエル・ベケット

(フランス文学)

 エストラゴン「今度は何をするのかな?」 ヴラジミール「わからない」 エストラゴン「もう行こう」 ヴラジミール「だめだよ」 エストラゴン「なぜさ?」 ヴラジミール「ゴドーを待つんだ」 エストラゴン「ああ、そうか」

シェイクスピア未読の自分にとって、これが初めて読んだ"戯曲"となった。正直、戯曲デビューが本作という選択は正しかったのかよく分からない。なぜなら本作がめちゃくちゃ面白かったので、他の戯曲を読んで満足できるか分からなくなったからである。

「ゴドーを待ちながら」は言わずと知れた不条理演劇の代表作であり、本作を未読・未見の人でも、題名の通り"来ることのないゴドーをただひたすら待つだけ"の話であることは知れ渡っている。わたしもそうと知って読んでみたのであるが、まぁその下らなさ、無意味さの酷いことといったら想像を遥かに超えるものだった。

本作は2幕構成になっているが、面白くなるのは後半(第2幕)からである。前半とだいたい同じことを繰り返すように見えるが、次第にその非対称性、劇中世界のくい違いが顕になっていくのが読んでいて愉しい。「これはどういうことだろう」と細部に気を取られそうになるが、解釈をすればするほど作者に遊ばれているようで虚しくなってくる。

結局のところ、「くっだらねぇ!」と一蹴するのが本作に対する反応として最も適切なのかもしれない。それでも意味を求めずにはいられない我々を、嘲笑いつつも受け入れてくれる懐の深さに、本作の傑作たる所以を見る。


第9位 悲しみよ こんにちは / フランソワーズ・サガン

(フランス文学)

 私はこれまで悲しみというものを知らなかった、けれども、ものうさ、悔恨、そして稀には良心の呵責も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私に蔽いかぶさって、私をほかの人たちから離れさせる。 その夏、私は十七だった。そして私はまったく幸福だった。

青春とは2元論である。わたしは本書を読んで、このことをまざまざと思い知らされた。17歳の少女セシルは、生活と人生のあらゆる要素を、節度と放蕩、貞操と本能といった両極に分解し、その2元論に自ら苦しむ。大人であればこれらはどちらか一方を選ぶようなものではなく、それらの間に臨機応変に身を置くものだということを知っている。それが出来ないからこそ直面する精神的な困難に、セシルの自意識はぐるぐるとふらつく。

本書が他の青春小説と異なるのは、主人公セシルだけでなく、彼女の周りの大人たちでさえこの2元論に陥っている点である。つまり、ある意味では本書には"子供しか登場しない"。それは何故か。他でもない著者(サガン)自身が、執筆当時わずか18歳の少女だったからである。

まだ子供である著者だからこそ書ける、大人でさえ疑似的な子供として展開される人間模様。ただし神童サガンがこのことに気付いていないわけがない。本書は"大人"になったセシルが綴る日記という体裁をとっている。子供だけで完結する物語を悲しく見下ろす大人、という2重構造をとることで、本書はまさに青春の喪失を鮮やかに描いている。



第8位 ウェイクフィールド / ナサニエル・ホーソーン

(アメリカ文学)

 人を思う心は彼なりに無傷のままで持ちつづけ、いまだに人の世のことがらに関心を絶やさずにいるのに、彼のほうからそれらのことがらに波紋を起こす力は失っている、これが前代未聞の運命だ。

ウェイクフィールドという男が、ある日突然妻に「出掛けてくる」と言い残し、家を去った。そしてそのまま家に帰らず、すぐ近くの借家に住み始める。夫の失踪を心配し、やがて葬儀を終えて独り暮らす妻をウェイクフィールドはこっそりと眺めて暮らす。これだけの、たった十数ページの短編である。

わたしは「名作と言われる小説は、話のネタバレに耐えうる」と思っている。この短編も名作だと信じて疑わないため、話の大筋を書いてしまった。驚くべきは、これが実際にあった事件を基に書かれたということだ。さながらガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』のように。

大筋は前述の通りであるが、本作を読んでもこの奇怪な事件がなぜ起こったのか、ウェイクフィールドはどのような心理状態だったのか全く書かれていない。書かれていないのに、なぜか読んでいて、わたしは彼のとった行為に納得し、共感してしまった。あなたは、何一つ不自由ない、恵まれた"居心地の良い"場所を、不意に手放したくなる衝動に駆られたことはないだろうか。人間関係の網からするりと抜け出して、自分が埋めていた地点にポッカリ空いた穴をほくそ笑んで見つめるような心理。

インターネットの発達によってますます"繋がり"に溢れたこの現代社会において、本作に思いもよらない衝撃を受ける読者は決して少なくないと思う。

参考:キリキリソテーにうってつけの日『ウェイクフィールド』



第7位 V. / トマス・ピンチョン

(アメリカ文学)

 仮にV.が歴史におけるリアルな存在であるなら、それは——慣例として女性代名詞でうける船や国家と同様、実際に「女」なのではない「それ」は——今日も作動しているに違いない。なぜなら、究極の<呼び名のない陰謀>は、いまだ実現を見ていないからだ。

トマス・ピンチョン。しばしば現代文学の最高峰と言われたり言われなかったりするこの覆面作家は、ちょっと彼の名前を聞いたことのある本読みならば、その名を聞いた途端に裸足で逃げ出すほど恐れられている、怪物的存在である。
…この真偽のほどはともかくとして、ピンチョンと聞いて喜ぶような人はまず変人だと言ってもそれほど間違っていないだろう。わたしもまさかこの作家に手を出す日が来るとは、そして無事に読了できるとは露ほども思っていなかった。

わたしが何とか丸々1ヶ月かけてこの上下巻組の分厚い鈍器を読み通せたのは、ひとえに本書がある読書会の課題本になって(しまって)いたからである。本書を読破できたことは、今年でいちばん大きな読書体験になるだろうし、"難解"といわれる大著でもコツコツ読んでいけば恐れることはない、という自信に繋がった。

さて、肝心の内容であるが、これがとても数行で書けるような代物ではない。というかそもそも、本書は「小説には簡単にまとめられる大筋がある」という常識への、彼なりのアンチテーゼではないかとわたしは思う。こっちを向いてアッカンベーをしながら「あらすじ?何それ美味しいの?」と言うピンチョンの顔が見えるようだ。覆面作家だけど。

言わば本書は、"あらすじにまとめられない"という形であらすじをまとめるしかないのである。登場人物は章ごとに増え続けてゆうに100人を越え、2人の主人公は往く先々で意味の無い行動を繰り返す。こうして大風呂敷はどんどん広げられていき、終盤で一気に収束し…ているように見せかけて、実のところそうでもない。まさに真面目に不真面目をやっているとしかいいようのないおふざけぶりである。

しかしわたしはこの本を読んで後悔はしていない。それどころか、ある程度そのおふざけぶりを楽しめさえした。特に印象に残ったのは15歳の女優メラニーと"V"なる謎の女性を巡る妖しく幻想的な14章「V. in love」だ。大筋が意味不明でも、こうした細部に目を向ければしばしばハッとするような言い回しや知識が盛り込まれており、自分なりの新しい小説の愉しみ方を見つけられた気がした。だからといって、さらに分厚いピンチョンの代表作『重力の虹』に今すぐ手を出そうとは思わないが。

参考1:キリキリソテーにうってつけの日『V.』トマス・ピンチョン
やはりこのブログ記事が本書の紹介として最も明快に纏められていると思う。

ピンチョン作品が「百科全書的」と呼ばれているゆえんをかいま見たように思うが、百科全書というには秩序に興味がなさすぎる。どちらかといえば、百科全書のページを破いて紙ひこうきにしてぶんぶん飛ばしてくる悪ガキのイメージである。

特に上記の言い回しはまさしく名文であり、読んだ者にとっては「ほんとそれ!」と同意するしかないほど的を射ている。

参考2:レゴと文学 トマス・ピンチョン『V.』とは何か?

この文章は自分が探す限りもっとも詳しい本書の解説文であり、ページの最後にはなんと自作の全登場人物リストまでPDF化して載せてくれてある。このリストには本当にお世話になった。「どれどれ、どんだけ登場人物が多いか見てやろうじゃないか」という人は是非ダウンロードして腰を抜かしてほしい。



第6位 西瓜糖の日々 / リチャード・ブローティガン

(アメリカ文学)

 わたしは決まった名前を持たない人間のひとりだ。あなたがわたしの名前をきめる。あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。 たとえば、ずっと昔に起こったことについて考えていたりする。―――誰かがあなたに質問をしたのだけれど、あなたはなんと答えてよいかわからなかった。 それがわたしの名前だ。 そう、もしかしたら、そのときはひどい雨降りだったかもしれない。 それがわたしの名前だ。 あるいは、誰かがあなたになにかをしろといった。あなたはいわれたようにした。ところが、あなたのやりかたでは駄目だったといわれた――「ごめんな」――そして、あなたはやりなおした。 それがわたしの名前だ。

西瓜糖。スイカとう。watermelon sugar. 
あらゆるものが西瓜糖で出来ている不思議な世界で静かに暮らす人々の、美しく幻想的な話。

"名前を持たない"わたしと身近な人々の間で物語はゆっくりと進む。しかし、この作品について言及するならば、話の展開に触れてもあまり意味はない。これを名作たらしめているのはなんと言ってもその圧倒的に美しい世界観だろう。ただ美しいだけでなく、艶やかで、底知れない闇を含んだ静かな世界。読後、わたしのなかに残るのはキャラクターでも話の展開でもなく、ただひたすらに美しいその世界観である。

美しいといっても、それは華やかなのではない。むしろ逆に、風景が、モノが、極端に少ない、多分に空白を含んだ世界である。漫画で例えるならば「宝石の国」で知られる市川春子さんの描くような、ミニマムな線で構成されている繊細な世界。

(「宝石の国」第1巻 4話より)

その繊細な世界観を支えるのは、散文詩のように純度の高い文体、1文1文の積み重ねである。上記で引用した"わたし"の名前についての箇所を筆頭に、どのページを開いてもうっとりするような詩的な文章が目に入る。

「西瓜糖の日々」の読書体験は、自分の中で時が経つにつれますます大切なものになっている。触れたら壊れてしまうような繊細な世界に浸りたい人には是非とも読んでもらいたい。

参考:HOME SWEET HOME / 西瓜糖の日々



第5位 クローディアの秘密 / E.L.カニグズバーグ

(アメリカ文学)

 むかし式の家出なんか、あたしにはぜったいにできっこないわ、とクローディアは思っていました。かっとなったあまりにリュック一つしょってとびだすことです。クローディアは不愉快なことが好きでありません。遠足さえも、虫がいっぱいいたり、カップケーキのお砂糖が太陽でとけたりして、だらしない、不便な感じです。そこでクローディアは、あたしの家出は、ただあるところから逃げ出すのでなく、あるところへ逃げ込むのにするわ、ときめました。どこか大きな場所、気もちのよい場所、屋内、その上できれば美しい場所。クローディアがニューヨーク市のメトロポリタン美術館にきめたのは、こういうわけでした。

今回のランキングに入った唯一の児童文学が本書「クローディアの秘密」である。上記の引用部は冒頭の1段落であり、ここの文章を読んで本書が傑作であることを確信した。

11歳の長女クローディアは、親の自分に対する扱いの不遇さに抗議するために、家出を決意する。それも、"むかし式の家出"ではない、"あるところへ逃げ込むため"の積極的な家出だ。彼女は子供なりに聡明であり、独りでは家出が失敗すると踏んで弟のなかで一番お金を持っているジェイミーを誘う。こうして姉弟2人でのメトロポリタン美術館への家出の旅が始まる。

児童文学とはその名の通り子供向けの小説のことだが、それは決して「話が単純」とか「難しい心理描写がない」ことを意味しない。多くの人は大人になると忘れてしまうが、子供は大抵の大人が思っているより賢く、現実と彼らなりに向き合っている。この点を了解して書いた児童文学が傑作と呼ばれるのであり、本書は間違いなく傑作と呼ぶに相応しい。

クローディアの綿密な計画と、ジェイミーの土壇場でのサポートが功を奏して、彼女らの家出計画は順調に進む。しかし「今までとは違う自分になって家に帰りたい」というクローディアの強い願いのもと、2人を取り巻く状況は大きく変化し始める。特に終盤にかけての怒涛の伏線回収は、児童文学とは思えないほど鮮やか。特に初見では今ひとつパッとしない「クローディアの秘密」というタイトル回収の仕方が素晴らしく、涙するほど感動してしまった。

家出を夢見たことのある全ての大人へ、この本を送りたい。



第4位 シカゴ育ち / スチュアート・ダイベック

(アメリカ文学)

 音楽が消え去るには時間がかかった。通気口のなか、壁や天井の陰、浴槽のお湯の下、僕はいたるところにその断片を聞きつづけた。パイプや、壁紙で覆ったダストシュートや、煉瓦で固めた煙道や、薄暗い廊下を通って、残響が伝わってきた。  (「冬のショパン」より)

季節が見える本がある。或いは、季節が聞こえる本がある。季節が香る本があって、季節に触れられる本がある。『シカゴ育ち』は、「冬」が見え、聞こえ、香り、触れられる短編集である。それも、アメリカ北部の"風の街"シカゴの冬だ。

7つの掌編と7つの短編が交互に綴られる形式になっており、白水uブックスならではの、掌編と短編で変わる凝った書体で郷愁に溢れたシカゴの街を感じることができる。

「冬のショパン」は、アパートの上階に住む若い女性と僕、それから僕と一緒に住む老人ジャ=ジャのあいだの、音楽を巡る奇妙な関係を描いた短編である。冬のシカゴのひりついた空気に響くショパンの音色が、どうしようもなく胸に迫る。

「荒廃地域」は、主人公が仲間と駆け巡った古き良きシカゴへの郷愁が詰まった懐古譚である。『だが荒廃に戻ろう』という印象的なフレーズが繰り返されるたび、二度と戻らないあの頃の情景が目に浮かんでは消える。一言でいうとエモい

冬の懐かしさに満ちた話だけではない。この本のなかでは異質な存在感を示す、「右翼手の死」は、カフカやカミュばりの傑作不条理短編である。

たった数ページの掌編も「ファーウェル」「ライツ」「失神する女」など、その情景の鮮やかさに思わず息を呑む名作揃いだ。本書を読めば、訪れたことのないシカゴの街が、とても愛おしく大切な存在としてあなたの胸に刻まれるだろう。




第3位 ナイン・ストーリーズ / J.D.サリンジャー

(アメリカ文学)

 僕たちがひとまず落ち着いてからチーフはやっとバスに乗り込む。それから、運転席にうしろ向きにまたがって、やや甲高い、だがいつもより低く落としたテナーの声で、「笑い男」の続きを話してくれるのだった。  (「笑い男」より)

「ライ麦」は好きでも嫌いでもなく、「フラニーとズーイ」は好みでなかった自分が初めてサリンジャーの手腕に惚れたのが、自選短編集であるこの「ナイン・ストーリーズ」だ。

収録された9つの短編はどれもサリンジャーらしさ――すなわち若者特有の焦りや不安、葛藤に満ちた心情を、その天才的な会話劇によって巧みに描写すること――に溢れている。このティーンエイジ・スカースと呼ばれる彼の十八番は、ややもすると切れ味が良すぎてひとを選ぶ。更に、それが長くにわたって繰り広げられるとこちらとしてはお腹いっぱい、サリンジャー酔いを起こしてしまう。(「ズーイ」が自分にとってそうだった)

そこでこの短篇集である。これらは彼の文体の切れ味は全く損なわないまま、間延びすることなく短く纏まっているので酔う心配が非常に少ないのだサリンジャーに苦手意識のある人にこそ読んでほしい傑作短編集だと思う。ただし最初の「バナナフィッシュにうってつけの日」(または訳によっては「バナナフィッシュ日和」)はこれらの中では最もアクが強く、オチが強烈なので初見殺しの可能性が高い。心配な人は2番めの「コネティカットのひょこひょこおじさん」か、3番目の「対エスキモー戦争の前夜」から読むことを薦める。

なかでもわたしが気に入った作品は「対エスキモー戦争の前夜」「笑い男」「エズミに捧ぐーー愛と汚辱のうちに」の3編である。特に攻殻機動隊の元ネタとしても有名な「笑い男」は、語りの中に語りが内在する重層的な構造をとっており、僕とチーフ、それから"笑い男"の3者の物語が繋がり合い、どこに力点を置いても印象的な読後感が残る傑作短編だ。"語り"こそが物語の本質であるとたった十数ページで高らかに宣言するサリンジャーの力量に感服せざるを得ない。



第2位 もしもし / ニコルソン・ベイカー

(アメリカ文学)

「本当の話と、想像の話と、どっちが聞きたい?」「最初に本当の話で、それから想像のがいいわ」

本の帯にはこう書いてある。「前代未聞の『電話小説』」と。そう、この200ページ弱の小説はすべてある男女2人の電話越しの会話によって成り立っている。それも普通の電話ではない。なんと2人は会員制のセックス・テレフォンで知り合ったばかりの関係なのだ。

あなたはそう聞いて嫌悪感を示すかも知れない。「なんだ官能小説か」と。これはそうとも言えるし、そうでないとも言える。

男と女は互いに自分が何にもっとも興奮するか語り合う。顔も名前も知らない他人だからこそ、自らのもっとも奥にあり、普段見せることのない部分を詳らかに明け渡し合う様子はなるほど確かに官能的である。しかし2人の会話は、官能的であると同時に文学的だ。と言うより、官能的だからこそ極めて文学的であると言える。

人間の本質を明らかにするのが文学の持つひとつの武器であり役割なのだとすれば、性欲という人間にとって切っても切り離せない本質に特化して切り込んだ本書は、紛れもなく文学である。

それだけではない。2人の会話は二転三転して、全く予測不能の展開を見せるが、彼らが語っていることは何一つ真実だという保証がない。女性がする元彼との話は嘘かもしれないし、男性の語る今日とった行動の話もデタラメかもしれない。

これがどういうことか。普通の小説のなかの会話に少しくらい嘘が混じっていたって、それは話者が嘘つきになるだけであり、その話自体の地盤は揺るがない。地の文と呼ばれる動作描写や情景描写は疑いようがないからである。

しかし本書は全編が会話で紡がれている。つまりこの話に関しては、地の文が存在しないので作品自体の真実味が全く保証されていないのだ。これはフィクションをその内部では真実だと信じてもらうことが前提である小説にとって致命的である。

ではこの話は立つ瀬がなく、虚構の彼方へと跡形もなく崩れ去ってしまうのか。

そうではない。本書の中でその答えがちゃんと述べられている。

上記の引用部のように、本当の話と想像の話のどちらを聞きたいかと尋ねた男に対し、女はまず本当の話を要求する。そして"本当の話"を男はし始めるのであるが、やがて男はシームレスに"想像の話"へと移る。

「あら」と彼女が言った。「でも想像じゃなくて、本当の話をしているんじゃなかったの?」「うん、でも本当の話が想像の話につながっているんだ。」

これが答えである。「本当の話が想像の話につながっている」。両者にはそもそも明確な境界を引くことが叶わないのである。だから本当の話なのか怪しい全編会話劇の本書も、小説として成り立つ。むしろ逆説的に、立つ瀬がない話だからこそ、他の何よりも小説としての普遍性を持つのではないか。

小説、物語の本質は「語り」だと書いた。本書は決して奇をてらった実験的なギリギリの小説ではない。語りに終始することにより、鮮やかに物語の本質を突いた、極めて普遍性のある「王道の小説」なのである。




第1位 わたしを離さないで / カズオ・イシグロ

(イギリス文学)

 何か大事なものをなくしてさ、探しても探しても見つからない。でも、絶望する必要はなかったわけよ。だって、いつも一縷の望みがあったんだもの。いつか大人になって、国中を自由に動き回れるようになったら、ノーフォークに行くぞ。あそこなら必ず見つかる、って……

わたしはとても涙もろい。何か心温まる話や、人が死んだりする悲しい話には、条件反射的にすぐ涙してしまう。
泣くのが悪いわけではない。ただ、「泣く=感動する」ことによって、逆に涙が出なかった本は自分にとってそれほど"良い"本ではなかったのだと、そういう定式化が為されてしまうことが怖いのである。

2018年に読んだ数十冊の本の中で、『わたしを離さないで』を自分の中で第一位に迷いなく置けるのは、この「泣かせる本が良い本である」という思い込みを覆してくれたからだ。

たしかに本書は分類するなら「悲しい(哀しい)話」に入るだろうし、その徐々に明かされていく内容はかなり衝撃的だ。しかし、わたしがこの物語を大好きだと言うために、そうした作品テーマに触れる必要はまったくない。

本書の最大の特徴はその淡々とした語り口調である。淡々としながらも、キャシーという不安定な話者から語られる"昔ばなし"は、脈絡が整理されておらず入り組んだ構成になっている。ちょうど、雑談をしていると話題があちらこちらへ飛んで、ふと冷静になってみると「あれ、何でこの話してたんだっけ」と思う、誰しもが覚えのある経験に似ている。それをひとつの小説という単位で行っているのがこの作品だ。

あるエピソードのなかに別のエピソードが差し込まれ、舞い戻り、また別のエピソードへと漂う。語りは語りを呼び、内包し、語られる内容はそのおぼつかなさ、確からしさをどんどん失ってゆく。だが、同時に作品はどこまでもノスタルジックな色を帯びはじめ、やがてその淡い色彩は、淡いままにこちらの胸に迫ってくる。

特に印象に残っているのは、主人公たちから"すべての遺失物が行き着く場所"と信じられていたノーフォークの地を訪れるシーン。ここはエピソード全体がとてつもなく濃い霧に覆われているように描かれており、それ自身かつて失われた過去であることの切なさが込み上げ、単に涙する以上の感動を与えてくれる。実在するこの地に、いつか必ず訪れたいと強く思っている。

他のひとがあまり言及しない側面から紹介するとしたら、この話は一風変わった、しかし紛れもない"三角関係モノ"であるということだ。互いに複雑な感情を持ちながら歩んでゆく彼らの微妙な関係は、非常に美しく愛おしい。特にルースは、現実にいたら絶対に嫌う自信があるが、だからこそ虚構のなかの登場人物として彼女ほど愛おしく思える存在はいない。確固たる"人間"として描かれる彼女らに寄り添ってゆくうちに、読者は必然的に自分の生について考えざるを得ない。

人生の一冊であるとともに、純粋なフィクション、物語としてとてつもない強度を持ったこの本を読むことができて本当に良かった。

"Never let me go. わたしを離さないで"


参考:わたしの咀嚼した本、味見して / カズオ・イシグロ『わたしを離さないで

本書を読もうと思ったのは、上記のweb連載の書籍『人生を狂わす名著50』のいちばん最後に、「今まで読んできた本の中で、ていうか世の中で出版されている本の中でいちばんの傑作だ、と信じて疑わない小説」として紹介されていたのがきっかけである。本書を読んだ今、この紹介文が身に沁みる。

ちなみに『人生を狂わす名著50』がきっかけで出会った素晴らしい本は他に何冊もあり、この本自体が文句なしの名著である。買って損はない。




以上が上半期の日本文学ベスト5,海外文学ベスト10である。書き始めると当初の予定よりどんどん長くなってしまった。これならばやはり記事を分割したほうが良かった気もするが、後の祭りである。

こうして振り返ると、海外文学上位はそのほとんどがアメリカ文学で占められていることに気づく。別に意図的に偏って読んでいるわけではないが、自分が好きそうな本から読んでいたら、自然とこのような結果になった。

また、日本文学はこの上半期はほとんど短編しか読めなかった。日本の長編はとにかく読み通すのに時間がかかりそうなので怖気づいている、というのが正直なところだ。下半期は気が向いたら挑戦してみたい。


さて、残り半年も気が向くままに読みたい本を読みたいときに読んでいこうと思う。この夏の課題図書には今のところ「百年の孤独」が挙がっている。


それではまた。



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