いただきますを繰り返しコンプレックスが小さくなっていった話
自分で作った料理、誰かに作って貰った料理、
外食、企業努力の賜物な冷凍食品、スーパーのお惣菜、
その他何もかも含めて美味しいご飯を日々頂ける幸せを
自分は日常の中で容易く得ているなと常々思うし有難い事だと実感する。
その中で自分の作ったご飯を好きになったのは大人になって
暫く経ってからだった。
子どもの頃に見た漫画やアニメで体系が横に大きな
キャラクター達が等しく食いしん坊な感じで描かれていた様に
私も同じく美味しい食べ物が大好きで傍目から見ても
THE食いしん坊な子どもだったと自覚が有る。
大人になった今も胃袋の許容量は減ったもののTHE食いしん坊なまま。
そこはもう育たなくても大丈夫なのにと思いながら未だに横に育っている。
また料理の絵を見たりお話を読むのも好きで小学生の頃に料理に
興味有る当時の同世代女児は読んだ事が有るこまったさんシリーズは
何度も読み返してはこのご飯美味しそうだなとほわほわしていたのを
覚えてる。こんな風に楽しく美味しいご飯が作ってみたいと考えながら。
話が変わるけど、私は本当に手先が不器用である。
頭の中ではばっちり手先の動きのシミュレーションまで
出来ていて脳内では素敵な料理がもう出来上がっている。
しかし現実の手先は予想斜め上の方向に動くか固まるかで
中学校に上がっても玉子を割る時は必ず殻がセット。
野菜の皮むきも不器用過ぎて小学校高学年頃の保護者同伴の
調理実習の時に同級生の喋った事もない保護者にさえ
「あなた包丁持たんほうがえぇわー」と皮肉を言われ
「野菜切らな出来ひんのに何でですか?」と率直に返して
苦笑いされた。今思うと言いたい事は分かるけど自分が
その保護者と大体同年代位にになって思うのは本当の事かも
知れんけど初対面でそれ言うか?失礼で腹立つなと心の中で
一蹴出来る位には現在大人になったの日々の中でも、それは
何か違うくない?と思う事にはやんわりでも物を言える程度に
心が強化されたのは年を重ねて良かったと思う事の1つ。
料理だけに関わらず折り紙、お裁縫、工作、塗り絵、体育全般とダンス、
手先や体を使う事で基本的に大体の人がそつなく出来ると
思われる事や綺麗に何かを作る・倣う事が今以上に苦手だった。
人が難なく出来ていると思われる事が上手く出来ない事が、
特に好きな事が上手く出来ない事や嗤われる事は悲しくて悔しかった。
子どもの頃の私の身近な人達の一部は発破を掛けるつもりだったのか
昭和の教育方針なのかは今となっては分からないけど、
「本当に何も出来ひんな」とよく言われていた。
本当に色んな事が碌に出来てなかったし今も不得手が多く有るけど、
私にとって人の言葉は良くも悪くも感情と共に頭の中に残る。
それが暗示の様に何をしても上手く出来ないと根深く脳裏に残った。
そしてこれ好きだなと思ったり、挑戦してみたいなと思う事達が全て
自分を通すとモノトーンになって色が無くなってしまう様な感覚だった。
何も出来ない私ごときがこの素敵に触れる事がおこがましいと。
ただ、元々諦めの悪い性格も有ってどれだけ出来なかろうと
続ける事や色んなきっかけで自分の作るご飯を好きになった話を
今回は書きたいと思う。
料理やお菓子作りも好きだけど上手くいかない事の1つだった。
見栄えが上手く綺麗に出来なくて子どもの頃の私はそれ以外でも色んな面で
からかわれる事が多かった。作るものは意地悪な男子達からお前が作った
ものなんか誰が食べるねん汚いから捨てろや等と人としてどうよ?的な事を言われる事も多々有ったけど、反面その見栄えが宜しくない料理やお菓子をこれおいしいやんと食べてくれた友人達がいてくれたお陰で今日まで正気を
保ちつつグレずに大人になれた事に感謝している。
見栄えの良い綺麗で素敵な料理やお菓子を作るハードルが私には
えらく高過ぎた。高過ぎてもうハードルの上が見えないレベル。
そんな斜め上な見栄えの何かを作っていた私は料理もお菓子作りも
好きだけどあまり上手くいかなくても私だから仕方ないなと思っていた。
数年後に少し人生の方向が変わる事が訪れた。
若かりし10代の頃に付き合っていた人の家にお呼ばれした時に
一緒に何かご飯を作ろうという流れで野菜の皮むきをしようとしたら
ピーラーが無く借りた包丁で皮むきをした際に「包丁使うの下手くそ過ぎ」「料理マジで下手くそやなー」と言われたのが切っ掛けだった。
野菜の皮むきよ。お前はいつも私に何かしらの形で立ちふさがる。
苦笑いの様な、何ともぎこちない表情で「あはは。ごめん」と返したけど
血の気と共に何かが氷点下まで冷めていく感覚とこの人とは一緒には
長く居られない事も実感した。
当時はレシピサイトがまだそこまで発展していなかった頃で、
翌日図書館に向かい料理の基本集みたいなぶ厚めな本を数冊借りて
包丁の使い方から調味料の割合を暗記するかの如く読み耽っていた。
物語の様に楽しくご飯作って二人で美味しいねとニコニコしたかったな。
好きな事をして笑われない、嫌な事を言われない位には上手くなりたいな。
今までの苦い思い出が頭の中にグルグルして布団の中でうずくまった。
そして心の中でぽそっと本音が出た。
「クソったれが」
昔から強い感情が自分を動かす火花で現状から変わろうとする
原動力になる。それがどれだけ黒かろうと悲しかろうと。
嗤う人は嗤わせておけばいい。私の悔しさなど何も知らなくて良い。
何も知らないまま他人を嗤う人のままで、そのままで居たら良い。
私は嗤う人の知らない所で、素敵なご飯を作るのだと。
どす黒い火花が導火線に着火して起爆剤になった瞬間だった。
不得手な事に向き合う事は痛みを伴うけど人生の選択肢が広がる。
それ以外の色んな理由も重なってその人とは程なくして別れた。
結局ご飯を一緒に作ったのはそれきりだったし、私が
今作るご飯をその人が食べる事はこの先も無い。私がそれを選んだから。
振り返ると自分にはこれしかないとか、この人しかいないは
実際の9割位はそんな事はなく、それに長く耽ってしまうと選択肢が
人生において極端に狭まる。一歩離れて俯瞰して見てみると手を伸ばせる
選択肢は有難い事にそこらかしこに割と多く散らばっている。
その後も不器用なりに少しずつ出来る事を増やして色んな料理を
作れる様になった。上手くなるんじゃなくて楽しく美味しく作ろうと。
飾り切りは出来ずとも野菜の皮むきは今でもピーラーという人類の
文明に支えられているし、その他でも自分が不得手な事を補えそうな
調理グッズは今も色々試しては己のスタメンを揃えている。
分量を計る事を厳守をしているので使いやすい大匙小匙の計量スプーンと
電子計量器は戦友の様な関係である。見栄えは向上しないけど楽しいと
効率を重視して作ると少しずつだけどこうした方が美味しくなったり
彩りが綺麗になるかな?とプラスな事を考える事が増えてきて誰かに
ご飯食べて欲しいなと思う様にもなってきた。
20代後半になった頃に初めて一人暮らしをした。
築年数何年よ?な見た目な平屋だったが中身はリノベーションされてて
畳の部屋と徒歩すぐに行けるお銭湯と部屋とは別で小さなキッチンが有り
個人的にとても気に入っていた。初めて来る友人に道案内する時に
向かいのマンションと思われて案内した先がそんな平屋だったので
終の棲家買ったん?と聞かれた事も有った。
週末に友人達や当時の職場の人、伯母に来て貰いご飯を作って
小さなご飯会を色んな人と繰り返した。いただきます、美味しい、
ごちそうさまでしたの声を色んな人から頂く度に嬉しくなって、
次は何を作ろうかな、このレシピも作れそうとか来てくれる誰かの
美味しいの表情を見る度に幸せな気持ちを頂き、秀でた取り柄の無い
私の作るものが誰かの表情を緩ませてくれる事が本当に嬉しかった。
小さな平屋の中で沢山笑って食べて色んな人から幸せを頂いた。
作る料理やお菓子を嗤ったりする人達が居ない世界は優しかった。
少しずつ自分の作る料理を好きになって食べてくれる人のいただきますを
聞きたくて新しいレシピを更に読むのが幸せだった。
作った料理と共に誰かと楽しく食卓を囲む事は子どもの頃の私が願った
夢を叶えた瞬間でもあった。
そこから暫くして夫、当時の彼が初めて家に来てくれた時に
彼に初めてご飯を作って一緒に食べる事にした。
一瞬苦い思い出が脳裏に浮かんだけど、部屋で待っててと言ったのに
隣の部屋から台所を覗いてはニコニコして優しい顔をしてくれていたし
せめてとお皿出したり食器並べてお水を入れてくれた。
けして豪華では無いけどワンプレートに盛った生姜焼きとお惣菜各種と
事前に聞いた好物のお味噌汁とご飯のありふれたお夕飯の出来上がり。
表情乏しい人だけど、ご飯食べたらどんな顔してくれるんだろう、
口に合うかな?いや大丈夫、私の作れる限りの美味しいセットやと
自信が有るのか無いのか分からない祈る様な気持ちだった。
いただきますが狭い畳の部屋で二人の声が重なった後にお箸が動く。
「めっちゃ美味しい!」
当時初めてみた満面の笑顔で凄い速さでおかずが減っていくお箸を運ぶスピードがおべっかでは無い事を物語っていた。ごちそうさまでしたが
重なった後に「色々用意してくれて有難うね。本当に美味しかった。」と
また笑ってくれた事が本当に嬉しかったし、まさか数年後に彼が夫として
夫婦二人でほぼ毎日食卓を囲んでいるとはこの時は予想していなかった。
出会ってから大分時間が経過していてお互いアラフォーに突入した今も
なお、美味しいと必ず有難うとごちそうさまでしたをセットで伝えてくれる事がとても嬉しい。一緒に過ごしていただきますを何度も繰り返しては
二人で美味しいねと笑って過ごせる日々が有難い事だと思っていて、
これからもその時間が穏やかに続けば嬉しいと願っている。
コンプレックスは完全には無くならないけど、それも私の一部だから
これからも小脇に抱えながら向き合いつつも上手く付き合えたら良いな。
一人でご飯を食べる時も誰かと食卓を囲む時もいただきますを繰り返し
ながらご飯作りを考えては幸せな気持ちになれる。
自分の中の美味しいを作れる事を、美味しいと思ってくれる人に
それらを共有したり渡せる幸せを知っている。
今日は何を作ろうかな。と少し口角が上がる日々を過ごしている。
