歩く
あらすじ
夜空は案外、おしゃべり好き。
あるときから夜空の声が耳に届くようになった僕。
夜の絶対者である彼、月に話し相手として選ばれ、夜の住人たちとおしゃべりをする。
実のある話もなければ、事件も起きない。
静かな闇の中は、不思議な温かさがある。
人嫌いの月、月と僕が大好きな星たち、そして、声に耳を傾ける僕の夜のおしゃべり。
夜を歩いている。
静かな街はどこまで行っても闇溜まり。四方は田んぼでぐるりと囲まれて、浮かぶ誘蛾灯だけを頼りにぽつぽつ、歩いてくる。また、見て、歩く。
風が小さな苗を揺らす音がする。
春の夜にしては、あたたかい。
あてもなく歩いていると、きらんきらんと純度の高いガラスがひっそりとぶつかるような音が降ってくる。周りの闇が明るくなっていく。
これは、笑い声。
「久しぶり、久しぶりね。元気にしてたの?」
立ち止まって顔を上げると、星たちが愉快そうにこっちを見ている。重なって声が聞こえてくる。きらんと、光ったひとつの星が、周りを静かにさせる。子供のような見た目をして、けれど、その実、一番の権力者。
金星だ。
「久しぶり、元気にしてたよ。君たちは?」
「元気よ。古くからの友人がいってしまったけどね」
「そっか…」
「あなたの声を私たちの中では一番に聞いていたわ。最期にも聞けたから、嬉しそうにいったから、よかった」
目を瞑った。
僕には、すべての星の名前は分からない。図鑑に載っている名前だけしか知らない。だけど、話していた、声を聞いてくれていた、星たちの中に瞬いていたんだと思うと、心にぽっかりと穴が空いたような気がする。
どうか、また巡り会えますように。
「それはそうと、随分と忙しかったの?なかなか来ないから、次の相手でも探そうかしらって話していたのよ」
「仕事がなかなか多くて…」
「しごと、って食べてしまえないの?」
「食べるためにあるものだからねぇ」
詩のよう小説のような散文のような自由律俳句のような、自分でもどの場所にぴったりと収まるのか分からない言葉を書いている。とりあえず、仕事のことを深く聞かれた時には、言葉を紡ぐ仕事をしていると話している。間違いではないと思う。
「でも、次の相手ってわたしたちじゃあ、きめられないのよねぇ」
くすくす、くすくすとそこかしこで笑い声が続く。もしかして、と嫌な予感がして、小さなため息が口をつく。
「あの日は、新月だったから彼には会えなかったけれど、当分忙しくなるから彼に伝えてほしいと言ったような気が…」
「あら?そうだったかしら?」
肩透かしを食らって、今度は、はぁと大きく言葉が口を出た。
めんどくさいことになった。彼は、そっぽを向くといつまでもそちらを向く。もう顔を見せてやらないとなると、それは大変なことになる。個人の話ではない、この世界が…。
「なんとしても来るべきなのよ。しごとがどんなに大変でも」
「…行こうと思ったんだ。何回も。でも、仕事が頭から離れないのに、楽しくおしゃべりできないと思って…」
「闇みたいに真っ黒い。嘘ね」
「…お見事」
「おしゃべりを忘れてた、そうでしょ?」
ぐうの音も出ない。背中を丸くしてしまう。
「かわいそうね。ずーっと、待ってたのに」
あぁ、どうしよう。
「ぼんやりしてると、落っこちる」
肺が、凍るような冷たさを帯びた声に、思わず顔を空へ向ける。雲が晴れた。ゆっくりと不機嫌な彼の姿がそこにある。
一等明るい、夜の絶対者、月。
ひくつく頬を無理やり上げても、彼は機嫌を直そうとはしなかった。
しょうがない。
「久しぶり」
「そうだね、俺とは久しぶりだね。あいつらには会ってたみたいだけれど」
予想は的中。トゲトゲと言葉が身体を刺すようだ。
「そうひねくれられても困るよ。本当に忙しかったんだ」
「忙しい?そうか、忙しいというのはそちらでは良いことなんだろ?よかったね」
小指の先ほど、よかったと思っていない。
何を言ってもこの調子で返されてしまう。どうしたものかと、星たちに目を向けるも楽しそうに、にっこりと返されるばかり。金星は、一番、観客に徹するようだった。
しゃがんで靴ひもを結び直す。これは、癖になっていて、頭を整理したいときに解いて、結んで、また丁寧に結ぶ。
ふと、明かりの届かない場所に、小さな花が咲いていた。一輪だけゆらゆらと。名前はなんだろう。淡い、青色の、影の下。
「そうやって、下を向くのはやめてくれ」
「落ち着くんだよ」
そうやってさせているのは、あなたでしょうに。
喉元まで出てきて慌てて呑み込んだ。
「君が話しているのは、俺だろう」
顎をぐっと持ち上げられたように、花から空へ。
彼は笑っていた。指先をすい、と振ると、道の先が明るくなる。僕の胸も明るくなった。
「花に見惚れるなんて、人はなんて堪らなく愛しいんだろうね」
「人が好きになりました?」
「分からないのかい?君のことだよ」
「僕以外の人だって、花を見つめる人はいますよ」
声が、真っ直ぐ上から落ちてくる。
「僕は、君が好きなんだ」
夜を歩いている。
言葉を書くのは、いつでも月明かりの下。窓のそばに置いた机に、差し込む。ふと、顔を上げた時、優しくて、あたたかな夜が外にあった。
だから、靴を履いた。
ふらふらと歩いていたけど、なんだか誰かに呼ばれている気がして、空を見た。
月明かりが、目を差した。
「君を、ずっと待っていたんだよ」
「僕も、好きですよ。それなりに」
「つれないなぁ」
道をゆく、星が瞬き、月と歩く。
