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【小説】根ネギのねぎぃ(3/5)

 このまま順調に成長すると思われていたねぎぃ。だけど、その期待は今日、意外な方向に転がった。
 「えっと……ねぎぃ? これはもう、そういうことなのかしら」
 私の問いかけに、ねぎぃも気まずそうだ。いつもよりも返答の速度が鈍い。
 「そうね……自分のことなのに、こればっかりはよくわからないわ。ごめんなさいね」
 中心部の「葉鞘」は私の親指よりちょっと太いくらいには育った。長さは私の薬指くらいか。でも、そこからすっかり伸び止まり状態が続いている。その代わり、「葉鞘」の脇からぴょーん、と芽ネギみたいなのがY字に伸びてきている。
 「これってさ、もうあなた、芽ネギとして愛でなきゃいけないってことかしら? 根ネギとしてはもう、これ以上の成長はないってこと?」
 「やめて質問攻め。問えば何でも答えが返ってくるなんて考えはあまえよ」
 そう言われてもなぁ……。こんなことを思うのは縁起でもないけど、正直、ねぎぃの寿命が近づいているような不穏を感じている。私のねぎぃへの問いは、この不安から生じる慢性的なもの。いつか終わりがくるものだとわかっていても、その予兆を実際に目の当たりにすると、かなり困惑する。困惑というか、焦りみたいな。
 「うろたえないでちょうだい。あなたにできるのは、あたしの水替えだけなのよ」
 そうだろうか。たとえば土をかぶせてあげれば、もっと長生きできるんじゃないだろうか。土じゃなくても、液体の栄養剤でも含ませてあげれば。私にできることはいろいろあるような気がして、その策を模索したくて、私はスマホからネットにアクセスした。
 「アサギ」
 検索窓にワードを打ち込むより早く、ねぎぃが凛とした声で言った。私の脳に直接流しこんでいる分、その声の澄み具合は鮮明だった。
 「あのね、あたしは別に長く生きたいわけじゃないわ。あたしはあたしの命をまっとうしたいだけ。これまで通り、あなたが水を替えてくれるだけで、あたしは満たされるの。それ以外は欲しくないわ」
 「でも」
 「でも、じゃない。あたしのお願い、聞いてもらえないかしら?」
 そんなに強く言われたら、聞き受けるしかないじゃない。私は返事するのもどこか悔しくて、でも無視するのはさみしくて、曖昧に頷いて水を替えてあげた。
 「ありがとね、アサギ。とっても美味しいわ」
 「それは何よりだわ。でも、たとえば土とか、何か栄養材みたいなのが欲しくなった、ちゃんと言ってよ」
 「わかったわ。それよりアサギ、あなた今日、約束があるんじゃないの」
 そう。今日は久々に前の職場の同僚三人とランチに行く。少し前から誘ってくれていたけれど、気持ちがそれどころじゃなかったので、ずっとやんわりと断っていた。最近、ねぎぃとのお別れを考えてしまうことが増えたので、気を紛らわせたくて誘いに乗った。
 「慌てる必要はないわ。別にそんな遠出する訳じゃないんだし」
 「あら、せっかく無職なのに、家の近くばかり歩いてちゃ、もったいないわ。外出するんだったら、早めに出てその辺ぶらぶら歩いたらいいじゃない」
 少し前の私なら、たぶんそうしていた。ブティックに寄ったり、大きいドラッグストアに何げなく入ったりして、目新しい小物やお菓子を買うのが好きだった。最近の私は、無駄なくつつがなく、機械的に日々を終わらせている。
 「……そうね、そうしようかしら」
 「そうよ。ほら、そうと決まれば、さっさと朝ご飯食べましょ」
 「急かさないでよ、もう!」
 テーブルのいつもの場所にねぎぃを据えて、キッチンへ。不恰好な育ち方をしている同居人を心配しつつも、私は今日という一日に対して、浮き足立つような楽しさを感じていた。それはほんとに久々のことだったから、玉子を焦がしそうになったり、オニオンスライスの厚みが定まらなかったりして、いつもより下手くそな朝食になった。

 「それで田之上さん、たこせんべい一箱まるまる二日で食べちゃったの?」
 洋食店の奥のテーブル席で注文を終えるやいなや、千住さんがメガネの縁をくい、と指であげて、私に問う。ここに着くまでの道中で、ついうっかり下仁田くんのお土産のことを話してしまった。「どうなの? どうなの?」と加賀さんも九条さんも質問を重ねてくる。その聞き方は私の食い意地を測る以上の意味を感じさせた。
 「ええ、まあ。せんべい好きですし、私」
 「とか言って、下仁田くんのことが好きなんじゃないの?」
 九条さんのツッコミに、千住さんも加賀さんもあはは、うふふ、と女子校の放課後みたいに笑って私を茶化す。「そんなんじゃないですよぉ」と誤魔化すも、頬がやや火照ってきた。体温を下げるべく、軽く水を飲む。美味しい。レモン果汁が入っていて、口の中がさっぱりした。
 「下仁田くん、田之上さんが辞めてからもちょくちょく私たちに探り入れてたわよ。連絡とかしてるんですかー? とか、最近どうなんですかー? とか」
 「かわいいわよね。なんか忠犬ハチ公みたい」
 「そういうタイプって、今はほんと絶滅危惧種よね。みんな他人に無関心でひっそりジム行って鍛えてたり、意味なく自信満々で人のことちょっと下に見てたり」
 「逃すと損よ、ああいう健気なタイプは」
 「そうよそうよ! 損よ、損!」
 みんな既婚者だからって、未婚の私をあまりにもおもちゃにしすぎだ。これは料理が運ばれてくるまでの間、この手の話題で持ちきりになりそう。
 「もー、その話題はおしまいです! それより私、今ネギ育ててるんですよ」
 「えー、何その露骨な話題そらし」
 「そらしてないです! ネギ、育てたことありますか? ほら、写真も撮ってるんですから私」
 スマホの画面を見せて、まるでわが子の育成記録みたいにここ数日間のねぎぃの経過を彼女たちに自慢する。写真が与える影響は強い。彼女たちの興味がみるみるネギに移っていく。
 「へぇー、水だけでここまで育つのね」
 「水だけっていうか、水と光ですね」
 「水耕栽培だっけ? 昔、ニンジンの頭でやったことあるわ」
 「ニンジンですか?」
 「そう、ニンジン。葉っぱが生えてきてね、バジルみたいに使ってた」
 「あら素敵! 田之上さんも、そのネギ食べるんでしょ?」
 「うーん……私は正直、植物観察くらいの気持ちでやってます」
 「えー、食べましょうよ、もったいない。この芽ネギみたいなところなんて、お味噌汁の浮き身にピッタリじゃない」
 すっかり下仁田くんの話からねぎぃに話がすり替わって、私はうっかり「いつもこのネギとしゃべってます」なんて口走りそうになる。久々に会った元同僚とのランチに、私は自覚している以上に浮かれているのかもしれない。
 「でもずっと観察してると、情が湧いて食べれなくなっちゃいそうよね」
 「そうなんです! 本人もたぶん食べられたくないでしょうし」
 やば。私はほんとうに、この空気感に舞いが上がっている。
 「あら、すっかり意思疎通してるじゃない。近いうちに『昨日ネギとお話してぇ〜』、とか言っちゃいそうね」
 「ほんとそれ。でも、愛着があるものと会話してる気分になるのって、悪いことじゃないわよね。私も若い頃、ずっとぬいぐるみと話してたもん」
 「千住さんが? えー、意外」
 セーフ。というか、この雰囲気なら私が何言ったって、もののたとえとして受け止めてくれそう。
 タイミングの良し悪しはわからないけど、出来立ての料理が運ばれてきた。鱈のムニエルにカリカリに焼いたバケット。トマトスープにはタマネギがごろん、と丸ごと入っている。軟らかくなったタマネギをスプーンでほぐして、スープを一口いただく。美味しい。程よい塩味とトマトの酸味が身体中を巡って、内側から温めてくれているみたいだ。ほっこりした気持ちで、私は切り出した。
 「ぬいぐるみじゃないですけど、なんかネギの成長を見守っていると、逆に私の方が見守ってくれているような気がするんですよね。気持ちもなんか上向きになる感じでして」
 それはあるかも、と九条さんが鱈の身を切り分けながら言った。
 「それに、ほら。ネギって確か厄除けの効果があるってされてたじゃない」
 「え? それってニンニクじゃなかった?」
 「そうだっけ? まあ、ニンニクに厄除け効果があるなら、ネギにもあるんじゃない。嫌な気分とかさ、そのネギが吹き飛ばしてくれてるのかも」
 それは時々実感している。実感しているからこそ、別れを意識してしまう。
 「ほんと美味しいわね、お魚。皮がパリパリしてる」
 「ねぇ〜。身もほくほく。家だとこんなふうにはできないわ」
 「私、結構付け合わせの味つけ気になっちゃうのよね。ほら、メインディッシュの風味を損ねないように、バランスってのがあるじゃない」
 「わかる! 主役を邪魔せずに引き立たせるのが大事よね」
 「そうそう! 邪魔せずにむしろ引き立てるの。このカリフラワーとかも」
 「うん! うす塩でほんとちょうどいい。カリフラワーって、フラワーなのに華やかさが微妙なのもいいわよね」
 「確かに! 仮のフラワーって感じ?」
 うふふ、あはは、と私たちは程よく笑っては食べ、話してはまた食べ、食べ終わってもまだ会話のネタは尽きずにカフェへと行き、コーヒー片手に近況報告やらテレビやネットニュースの話やらコーヒーの味と香りの感想やら老後の話やらに花を咲かせた。解散しましょうと腰を上げた頃にはもう夕方すぎになっていて、一杯のコーヒーでやたら長居してしまったな、と反省した。
 「ねえ、田之上さん」
 帰り道が同じ方向の千住さんが、別れ際に私の名を呼んだ。唐突で、改まった口調に私はつい「はい!」と小学生みたいな返事をしてしまう。
 「あら、いい返事。あのね、田之上さん。この間、深谷さんとちょっとだけ話したんだけどね」
 深谷さん。名前を聞いて、どきり、としてしまう。私の上司だ。ちょっと神経質で、あまり冴えていない感じの四十男。正直言うと、苦手な人だ。
 「もし、田之上さんが大丈夫そうなら、戻ってみないかな?」
 「……え……っと、え?」
 「だからね、また復帰してほしいって言ってんの。覚えてない? 深谷さん、あなたが辞めるの、結構止めてたでしょ」
 あの頃の記憶は、あまり鮮明ではない。おかあさんがいなくなって、急に何もする気が起きなくなって、仕事もできそうにないなって思ったから、辞めた。何度か深谷さんから休職を勧められた気がしたけど、いつ気持ちが立ち直るかわからなかったから、退職を選んだのだ。
 「深谷さん、何考えてるかわからないところあるけど、悪い人じゃないわよ。仕事とか人間関係が嫌になったわけじゃないなら、田之上さんに戻ってきてほしいって」
 「あの深谷さんが、ですか?」
 「そう、あの深谷さんが。でも、これは田之上さん自身の問題だから、まだ焦って決めなくてもいいわ。また連絡してもいい?」
 もちろん、と私は言って、千住さんにお礼を言う。千住さんは私の肩にぽん、とやさしく手を置いて、ふふっと微笑んだ。
 「下仁田くんとのことも聞きたいからね」
 げ、と思わず顔をしかめてしまう。うふふ、と笑って、千住さんは私に背を向けた。千住さんと別れた私は、茜さす帰り道をひとりで歩く。足元に伸びる影がいつもより濃くはっきりと見える気がして、私は理由もなくうれしい気持ちになっていた。

 ねぎぃがいよいよヤバくなった。ねぎぃの水を替える際、私はねぎぃをつまみ上げて瓶の水を捨て、そこにまた水を足している。けさ、ねぎぃをつまみ上げた瞬間、ぐじゅ、と根本の外側が崩れた。
 「ねぎぃ!」
 思わず声が出た。ねぎぃはとくに慌てた様子もなく、のんびりと返答する。
 「こんなことで驚かないでちょうだい。大丈夫よ。ここ、一応葉っぱの部分だから」
 私が育てているネギの根本は「茎盤」といい、じつはネギの茎の部分だ。そこに成長点があるから、水だけで中央部からぐんぐん伸びていく。そして、この茎盤は葉っぱに覆われていて、ねぎぃの言っている通り、ぐじゅ、と崩れたのはその葉っぱの部分である。
 「でも、あたしもそろそろ潮時かもね。頃合いを見て、さっさと食べちゃってね」
 淡々とした口調で、ねぎぃが言った。
 「えっ、食べるって、あなたを?」
 「そのつもりで育てたんでしょ?」
 指先に残るぐじゅぐじゅしたねぎぃの一部を水で洗いながら、私は唇をかむ。vlogの女のようにネギを育てることはできなかったけど、可食部は一応ある。刻めばざるそばにトッピングできるくらいの量にはなるだろう。
 「食べてよ。ほら、あたしを食べて、強く生きなさい」
 ねぎぃは私に食べられることを望んでいる。困った。私はそんな割り切って、同居人を食べてしまえるほど図太くはない。
 「とにかく、あたしはあなたに食べてもらいたいわ。アンパンじゃなくて悪いんだけど」
 「どこで覚えたの? 国民的アニメ」
 いつものようにテーブルにねぎぃを置いて、私はキッチンに。冷蔵庫からタマネギを取り出しながら、「ねえ、ねぎぃ」と呼びかける。
 「なぁに?」
 「あなたがもし、私と反対の立場だったら、私のこと食べれる?」
 すん、と空気が止まった。私はタマネギを半分に切って、半分をラップにくるんで冷蔵庫に戻し、残りをスライスする。とんとんとん、とんとんとん。包丁の刃がまな板をリズミカルに叩く。場違いに軽快な音だけが、私とねぎぃの間に響く。
 「躊躇うでしょ?」
 洗ったばかりのサニーレタスとスライスしたタマネギを皿に盛り付ける。今日は目玉焼きにしよう。温めたフライパンに卵を一個落とす。じゅー、と白身からじわじわと固まっていく。
 「言っとくけど、私もその気持ちだからね。簡単に言わないでよね」
 「あのね、アサギ」
 焼けたトーストにバターをのせる。じゅわー、と溶けた乳白の塊がパンに染み込んでいく。やわらかな香りがキッチンに立ち込めた。
 「ネギってね、苦味と辛味が持ち味なの。辛口に言わせてもらうけど、今のあなたの言葉は責任からの逃避よ。あたしの気持ちなんて関係ないわ」
 「何が逃避よ」
 「逃避なのよ。あたしは食材なの。食べてもらうことが責務で、あなたはあたしを食べることが責務。わかった?」
 ねぎぃの言っていることは、正しいとか正しくないとかの外にあることだ。彼女の言葉に従い、私はやっぱり、ねぎぃを食べないといけないのだろう。
 ねぎぃを食べる。それは私にとってとても、生涯の中で考えてもかなり大きな通過儀礼であり、人生で数少ない試練だ。だからもしほんとうに、ねぎぃを調理しなければいけないのなら、特段豪勢なメニューにして、できるだけネギという存在が無駄なく発揮されるよう工夫しなければいけない。
 いつもより口数の少ない食卓に、朝日がいつも以上に降り注いで見えた。日差しを強めることで、太陽が私たちを暑苦しく励ましているように感じた。

 職業安定所通いも、そろそろキツくなってきた。五月は退職者が増えるから必然的に求人も増えるけど、どの募集を見ても、自分事として受け止められそうな仕事とは思なかった。お金を稼げればなんでもいいと思っていたはずなのに、ここ数日は仕事を選り好みしている自分がいる。
 帰り道、意を決して鴨肉を買った。クセの強い肉類と一緒に食べることで、ねぎぃがうまく働いてくれる気がしたから。時期外れの鴨ネギ鍋。だけど、私にとって主役はねぎぃだ。ねぎぃを今日あすの晩餐にするつもりはないけれど、ねぎぃに頼らない生活を自分で選べるんだと、いつでもねぎぃを食べることができるんだぞ、と自分に言い聞かせられるようにしたかった。その日を迎えるまで、この鴨は冷凍庫に眠らせておく。
 せっかくの鴨ネギ鍋だ。私ひとりで食べるのも、なんだかもったいない。食べる時は私は千住さんたちを呼ぼうかな。そんなことを思いながら帰宅していると、着信音が鳴った。まさか千住さん? びっくりして画面を見ると、もっとびっくりする名前が画面に浮かんでいた。
 「……え、なんで?」
 下仁田くんだった。どうしよう? 一瞬戸惑ったけど、出ないわけにもいかない。
 「も、もしもし」
 「あ、田之上さん。お疲れ様です」
 「お疲れ様。どうしたの?」
 「じつは、俺も会社辞めようかと思って」
 え? ……は? え? なんで?
 「何かあったの?」
 「いやー、何かあったっていうか……まあ、いろいろ。俺、会社辞めるの初めてだから、失業保険とかいろいろ教えてもらおうと思って」
 口調は軽い。冗談で言っているのか? でも、彼が冗談を言っている姿を見たことがない。そして、こういうことを冗談で言うタイプでもない……気がする。
 「辞めてどうするつもりなの?」
 いや、まぁ、と彼が口を濁す。なにか考えがあるようだ。
 「ぶっちゃけ俺、フリーで仕事しようと思ってるんですよね」
 「えっ! フリーって、個人事業主ってこと?」
 「そうっす。じつはずっと前から興味はあって」
 人知れずなにか大きな目標を秘めていたのか。夢あふれるような言葉を期待したが、一瞬にして裏切られた。
 「今ってほら、動画編集とか、在宅ライターみたいな感じで簡単に稼げるじゃないですか。友だちがライターやってるんですけど、ほんと俺でもできそうで。通勤とかもないし、このまま今の仕事をしているのも、非効率な人生というか」
 人を下に見ているふうではないけど、彼はどうやら意味もなく自信満々タイプだ。軽率で傲慢な人間が口にしてそうなことを、平然と言っている。
 「でも、どうしてそんなこんなタイミングで……? 仕事が嫌になったの?」
 「嫌っていうか、俺って今、ずっと人の尻拭いみたいなことばっかりやってるんですよね。後輩のミスとか、同僚のやらかしとか。たまに先輩のやらかしもフォローしてるんですよね」
 彼はまだ三年目なのに、人のフォローがとてもうまい。やらかした人間に対してもソフトで、それなのにドライで気を使わせない。フォローされてきた私がいつも感じていたことだ。
 「自分が尊敬してるっていうか、助けたいって思える人のサポートだったら、喜んでするんですよ。それこそ田之上さんとか」
 照れちゃう! 熱を帯びる私の頬に、彼の嘆きが突き刺さる。
 「でも、態度ばっかりでかい後輩とか、さして仕事してない同僚や先輩のために動くの、ぶっちゃけうんざりなんですよね。そういうのにいちいち使われるのって、つくづく損じゃないですか。だったら、今の時代好きなことやって稼げるチャンスあるんだから、まだ若いうちに挑戦しようかなって」
 私は田之上くんとそう年齢が変わらない。でも、仕事中に見せる彼の振る舞いや態度が私なんかよりもずっと大人びて見えることがあった。電話越しで弱音同然の言葉を吐いている今の彼は、むしろとても青くさくて、ちょっと稚拙。なんだろう、この落差は。
 「下仁田くん、この話って、私以外の人にもしてる?」
 「田之上さんだから話せるんですよ。だれにも話してないです」
 あなたにだけ、ぼくは気持ちを打ち明けている。そういう文言で、私を喜ばせているような魂胆が見えた気がした。なんだろう、今急に、彼に対して急激に冷めている自分がいる。蛙化現象って、こういうことなんだろうか。優秀な彼は私の今の心中を察したようで、語調を戻して言葉を続けた。
 「すみません、急にこんなことを言ってしまって。でも、辞めるのはもう自分の中で決まってるので、それだけなんか、田之上さんには伝えたかったので」
 「下仁田くん」
 手に提げたエコバックを握り直して、私は切り出した。
 「今日、うちおいでよ。晩ご飯、一緒に食べましょ」
 えっ、と驚きと若干の喜色が透けた下仁田くんの声を聞く。
 「七時半くらいにおいで。ご飯作って待ってるから」
 彼からの返答も聞かず、私は電話を切った。あすの朝食は和食の予定だったから、お米は多めに炊いている。あとはおかずだ。私は食材を買い足すべく、早歩きでまたスーパーに引き返した。男の人が来訪するというのに、気持ちは弾むどころか、むしろ天敵でも迎え入れるような、挑戦的な気分だ。

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