【小説】根ネギのねぎぃ(2/5)
「ねぎぃ、お水替えるよー」
すっかり習慣となった水替えをしようと瓶に目を向けると、そこにいるはずのねぎぃがどこにもいなかった。まさか、鳥かネコに持っていかれた? 焦って部屋のあちこち目を移していると、
「もしもし、あたしねぎぃさん!」
ねぎぃの声が背後から聞こえた。びっくりして振り返ると、ねぎぃが私の足元にちょこん、と立っている。ねぎぃの根本から伸びた「ひげ根」が、もうすっかり人の足みたいに太く成長していた。その根っこ二本だけで、まるで二足歩行する生き物みたくちんまりと立っている。
「ねぎぃ、今あなたの後ろにいるの♪」
「ちょっとやめてよ! なんなの、これ? 怪談話より怖いじゃない! どうして瓶の外にいるのよ」
「そりゃあ、呼ばれたら近寄りたくなるじゃない。その一心であの瓶から出たんだから」
「あなたネギなのよ! それ足じゃなくて根っこ! 根っこなの、それ! そんなにちょこちょこ歩き回らないで!」
「あら、どうして? 気持ち悪いから?」
「踏んづけちゃうかもしれないから!」
あら、とねぎぃは意外そうな表情で私を見上げている。
「またあなた、あたしを慮ってくれたわね。ほんとにやさしい子」
慈しみあふれる言葉でも、ネギから発せられた言葉だと思うとどこか受け入れづらい。返しの言葉に窮しながら、私はねぎぃに忠告する。
「……いいわ。せっかく根っこが足みたいになったんだから、歩き回らないと損よね。でも、私に踏まれないようにだけ気をつけて。あなたを踏んづけて死なせちゃったなんて、私一生悔いるわ。床もネギくさくなっちゃうし」
「あら、別にあなたの許可なんてなくっても歩き回るわよ。踏んづけられるようなヘマもしないわ。みくびらないで」
まるで歩き回るのに慣れているような口ぶり。あなた、昨日まで瓶のなかのネギだったじゃない。この感じだと、調子に乗ってあちこち歩いて危ない目に遭いそう。私はねぎぃの母親になったような気分で、二本足(二本根?)で立つ彼女に目を移して言う。
「あなたね、まだ足生えたてなんだから、得意になりすぎちゃダメよ。勝手に家出ないでよ! 心配だし、何かあっても私、責任なんて取れないんだからね」
ねぎぃから返答があるまで、少し間があいた。一丁前に言葉を考えている様子。ねぎぃの上部中央からは「緑鞘」と呼ばれる、ネギの緑色の部分がちょっと伸びている。ここが頭だとしたら、この部分が育てば育つほどにいろいろなことを考えられるようになるのだろうか。……まあ、今でも充分、思考的なネギだけど。
「そうね……せっかく根っこが足みたいになったんだから、こんなところに留まってもしょうがいないわよね」
そう言ってねぎぃは玄関に向かい、とことこと歩き出した。その背中はどこかきっぱりとしたような毅然さが滲んでいる。
「え? 待って、何? 出ていくの?」
「そうよ。だって、あたしここにいても、あなたに食べられちゃうだけだし」
いやいやいやいや、と私は大げさに首を振って否定する。いらないことを言ってしまったかも。
「食べないわよ! 食べるわけないじゃない! ……ねえ、ちょっと待って。こんな唐突に出ていくなんて、あまりにもドライじゃない?」
「ドライじゃないわ。乾燥には弱いわよ、あたし」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあね。ちゃんとご飯食べて、しっかり寝るのよ。寝るとか食べるって、原始的なことはとっても大事なんだからね」
「待ってよ」
「待たないわ。またね」
「待ってよ、ねぎぃ! ねぎぃ〜!!」
ちゅちゅんちゅんちゅん。ぶろろろろろろ。
スズメのさえずりと、カブのエンジン音が聞こえる。清らかな朝の、健康的な音色。
「アサギ。ねえ、アサギ。ちょっと起きなさいよ」
目を開けると、窓際に置いたあのネギの根入りの瓶が朝日を浴びて煌めいていた。ガラスに透過した光が、あの日理科室で見た虹色をしている。
「もう朝よ、アサギ。そろそろ起きてちょうだい」
ずいぶんと長い夢を見ていたみたいだ。母親みたいなことを言って、ねぎぃはベッドの上の私を見下ろしている。……まあ、ねぎぃに目はないんだけど。
「ねえ、ちょっと。そろそろ起きて、あたしの水替えてくれないかしら?」
ねぎぃは朝からおしゃべりだ。この現実も含めてじつは夢の延長なんだと思いたいけど、いくら頬をつねったって覚める気配はない。
ねぎぃの瓶を持って階下に降り、キッチンで水を替えてやる。ねぎぃに話しかけられてから5日が経った。夢で見た通り、「ひげ根」は瓶の底を這うようにして立派に育っているけど、この根で立って歩き回るなんて無理そう。もっとも、口もないのに話しかけられている時点で、何が起きても驚きもしないけれど。
「はぁ〜生き返るわ! やっぱ朝の日差しと新鮮なお水は美味しいわね」
「それはよかったわ」
健やかなことを言うねぎぃを瓶のままダイニングに連れて、日が当たるテーブルの隅に置く。私はキッチンに入って、八枚切りの食パン一枚を焼き、卵を溶く。
「ねえ、アサギ。あなた、昨日野菜ジュース買い忘れてない?」
「だから今日はサラダにするの。にんじんサラダよ」
「たまにはフルーツも食べるといいわ」
「嫌よ、高いもの。野菜買うのだって苦しんだから」
「あなた、今仕事してないものね」
「そうよ、あなたを養うのに精一杯」
「あら、あたし、ちょっとのお水と光だけで生活してるのに」
「そうね。私より自立してるわ」
「どうかしら。ネギと人間じゃあ、比べられないわ」
最近ずっとこうして、ねぎぃと会話しながら朝食の準備をしている。まるでおかあさんと暮らしていた時みたいで、毎回ちょっとだけ泣きそうになる。
熱したフライパンに油を引いて、溶き卵を投入。じゅー、と香ばしい音がキッチンに響き、焼けた卵のふんわりとした匂いがやさしく私を包む。火を切って、余熱で卵を固めながら箸で崩していく。昨日は目玉焼きだったので、けさはスクランブルエッグ。あすはきっと、ゆで卵になるだろう。出来立ての玉子を皿に盛り付けて、冷蔵庫からニンジンとサニーレタスを取り出してさっと洗う。水洗いするだけで、野菜は鮮やかな色を取り戻す。
「今日はどうするの? また仕事探し?」
ダイニングからねぎぃが話しかけてくる。私はニンジンを切りながら、んー、と言葉を濁す。
「今日は、そうね……あなたを連れて公園でも行こうかしら」
「あら、あたしを連れて? よその人が見たら、あなた変な人に見えるわよ」
「いいわよ、別に。平日の昼間から出歩いている大人なんて、みんな総じて変に見られてるわ」
社会なんてそんなものである。変に見られるのが嫌だから、するべき行動を慎み、人の目につかないように静かに黙する。同居人と公園で散歩するなんて、変でもなんでもない行動。周りの理解なんてものは不必要。
赤と緑の簡単なサラダとスクランブルエッグ、そしてカリカリに焼いたトースト。ここにコーヒーを添えて私の朝食となる。ねぎぃと暮らすようになってから定番となった、本日最初の私の食事。
「たまには朝に和食っていう選択もあるわよ」
「ご飯炊くの面倒よ。パンでいいわ」
「せっかく炊飯器があるのに」
「お昼や夜ご飯に使ってるからいいじゃない。気が向いたら、朝にご飯炊いたりするわよ」
「朝からお味噌の香りを楽しむの、あたし意外と好きなのよ」
「だったら、ねぎぃのその緑のところ、ちょっと刻んで味噌汁に入れちゃうわ」
「ぜひ味わってほしいわ。多少切ったって、また復活するんだから、あたし」
「ほんとに?」
「さあ、試してみる?」
会話相手がいるだけで、簡素な朝食でも特別健康的なメニューに思えてくるから不思議。おかあさんが生きていた頃はこんなふうに、当たり前に健やかな気持ちで朝からご飯を食べていたような気がする。性格さえ合っていて、会話がある程度かみ合うのなら、別に相手が必ずしもヒトじゃなくても、ネギでもなんでもこんな気持ちになるのだと改めて思う。動物を飼う人間の気持ちが漠然とわかる。彼らも彼らで、私たちが知らないところで会話しているのだろう。
「美味しい?」
「美味しい。そりゃそうよ、私のお手製なんだから」
「食べられなくて残念だわ。今度は生まれ変わってヒトになろうかしら」
「あら、生まれ変わりって自由意志なの? またヒトに転生したいって思ったら、ヒトになれるのかな」
「知らないわ、そんなの。でも、希望を出すくらいは自由じゃない」
クリープを多めに入れたインスタントコーヒーはミルクのあま味があって、舌がまったりする。程よくカフェインが体を巡っているようで、私はふと冷静に考えた。
今、こんなに仲良く話しているけど、ねぎぃもいつか枯れていなくなるんだろうな。
ねぎぃを育てるきっかけになったあの女のVlogでは、枯れていくネギの様子は映されていなかった。でも、さすがに永久的に育つ植物なんてこの世にはないだろう。生物はいつか死ぬ。それはこの世で唯一確かなこと。枯れることなく永遠に伸び続ける野菜なんてあったら、世界の貧困事情はもう少しマシになっているはずだ。
「ごちそうさま。それじゃあ、片付けたらすぐ行こうかな」
「食べてすぐ動かない方がいいわ。もうちょっとゆっくりしなさいな。そう急ぐこともないんだから」
そうね、と私は窓の外に目をやって、晴天の朝を眺めた。燦々と降り注ぐ陽の光は、紫外線をたっぷり含んでいそう。ネギにとっては栄養となる光も、私にとっては有害になり得る。外出時に肌ダメージの心配をするなんて、ずいぶん久しぶりだった。帽子と日焼け止めはどこだったか思い返しつつ、私は食べ終えたカトラリーを流しまで運んだ。
都心から離れたベッドタウンの公園だというのに、子どもの姿はなかった。平日の昼間とはいえ、待機児童が解消されたなんてニュースを耳にした覚えもないから、保育施設に預けられていない子どもだってそれなりにいると思うのに。人の気配がない公園なんて私たちには好都合だけど、少子化だとか、育児放棄なんて嫌な言葉が頭によぎって、単なる公園に何か嫌な意味が含まれているような気がしてくる。
少し前まで屋根から藤の花が垂れ咲いている東屋があったけど、クマバチが寄って来て危ないとだれかがケチをつけたらしく、あっさり撤去された。クマバチは確かほかのハチに比べて危害が少なかったはずだし、撤去するならせめて藤の花だけにしてもよかったと思うのに。今はベンチだけがぽつん、と残されていて、陽の光を一身に浴びてくたびれて見える。そんなところに座れば私やねぎぃまで早く朽ちてしまいそうな気がして、やむなくブランコに座った。
「ブランコだなんて、風情があるわね」
「瓶のせいで、漕いでも風は感じられないね」
「私のことなんていいわよ。存分に漕いじゃって」
「んー、遠慮しとく。ねぎぃのこと、落としちゃったらやだし」
「お心遣い、感謝しておくわ」
ねぎぃ入りの瓶を膝に置く。風がせせらぎ、ささーっと葉擦れの音がやさしげに聞こえる。やや錆びたブランコのチェーンがぎぃ、ぎぃ、とアンティークな音色を奏でている。耳が拾う音全部が懐かしく、私ひとりだけだったらたぶん、涙のひとつでも流していたかもしれない。
「気持ちいいわね」
「そうね。人間も光合成をしてるんじゃないかって思う」
「じつはしてるんじゃないかしら。科学がまだ追いついていないだけで」
「そうね。ネギがじつは話せる、なんて科学者でも知らないでしょ」
「じつは知ってる学者さんもいるかもしれないわ。周りから変に思われちゃうから、黙ってるのよ」
「科学的に証明できないと、事実も話せないのね」
「そうね、難儀な人たち。さぞかし生きづらいことでしょうに」
ねぎぃと話しているうちに、今ここにだれかが来たとしても、堂々とねぎぃと話せる気がしてきた。何も変なことはない。話せる相手とただ話しているだけだ。人に迷惑をかけているわけじゃない。
私とねぎぃはとくに何かするわけでもなく、太陽の光を浴びて、いつも通り話して、公園を立ち去ろうとした。特別な何かを話したわけじゃないのに、開放的な場所だからか、いつもよりスケールの大きな話をした気がしている。これからもたまにこうして、ねぎぃを連れ出してあげよう。ブランコから腰を上げてた時、「あ」と思わず声が出た。
「あら、どうしたの?」
ねぎぃの声に返答できず、私は視界に入った男性のもとに駆け出した。
「下仁田くん!」
好天の春にもかかわらず、下仁田くんは律儀にジャケット姿だ。見ていてちょっと暑そう。肩からカバンをさげ、手には何やら大げさな紙袋がある。
「どうも、田之上さん。お久しぶりです」
どうもどうも、と頭を下げていると、彼は私の手元に目を移した。
「……それ、なんです?」
「ああ、これ、ネギ。根っこを水に浸してお日様に当てるだけで、また伸びてくるの。うち日当たり微妙だから、こうして太陽に当てに行ってて」
「へぇ、節約術みたいな」
「まあ、ぶっちゃけほとんど観賞用なんだけどね」
「そんな趣味あったんですね」
あーそうだ、これ。と下仁田くんは手に持った紙袋を私に渡してきた。
「出張で大阪まで行ってきたので、お土産です。たこせんべい」
きちんと中身を伝えることで、冷蔵庫に入れるべきものかどうかを教えてくれる。さすがは営業部期待の星だ。
「ありがとう。帰ったら食べるね。というか、これ一箱まるまるもらっちゃっていいの? 個包装なんでしょ、ふつう一箱買って、みんなに配るもんじゃないの?」
「いや、みんなに一箱ずつ買ったので」
そんなはずないが、わざわざツッコミを入れるのも無粋な気がした。私は申し訳ない気持ちと、たぶん私にだけ特別に一箱買ってくれたんだろうな、という、ほかの職場の人たちと比べて少し優位になったような気持ちとでいっぱいになった。もっとも、私はもう、あの会社の人間ではないのだけど。
「それじゃあ、あまりご無理なさらないでください。みんなのんびり待ってるっぽいので」
「ほんとありがと。でも、きっちり辞めちゃったから、また戻るとかはないかな」
「まあ、そう言わず。たぶん社長もわかってくれますし」
「そうね。ほんとに困ったら、泣きついてみる」
下仁田くんは何か言いたそうな顔をしている。だけど、だいたいどんな言葉を口にしたいか見当がつくので、私は「じゃ!」と断ち切るような明るめの声を出し、そそくさと帰路に着いた。
「ちょっと、アサギ」
ねぎぃが話しかけてきた。たこせんべいの紙袋もあって、荷物かさばっている。誘ったのは私なのに、ねぎぃをお荷物呼ばわりするのも悪いけど。
「さっきの子、だれよ? どうしてアサギの住所知ってるの?」
その口調に警戒心が透けている。まあ、確かに下仁田くんじゃない別の男がこんなことしてくるのは、ちょっと気持ち悪いかもしれない。
「前の職場の同僚よ。部署は違うけど。下仁田くん。前に一度酔い潰れた時、ここまで運んでくれたのよ」
前に一度、と言ったけど、ほんとは三度ある。酒に強くないくせに、飲み会の場だとすぐ手持ちぶさたになるのでやたら酒を飲み進めてしまうのだ。そのたびに下仁田くんに助けられている。
「元カレ?」
「違うわよ。でも、たぶん私に惚れてくれてると思ってる。うぬぼれかもだけど」
「うぬぼれじゃないわね。間違いないわ。前言ってた同居人候補って、彼なんでしょ?」
「どうかしらね」
返答を曖昧にする。というか、私の中でも彼の存在はまだ何も定まっていない。単なる仕事仲間の域は越えかけている。けど、私に芽生えている感情が、さっぱりした友情ものなのか、ややねっとりしたものなのか、よくわからない。
そっか、でも、私の存在をちゃんと覚えてくれていたか。
考えてみれば、彼が住んでいるところもこの公園から近い。そもそも、住んでいる場所が近いから、酔った私の介護係をしてくれていたのだけど。ねぎぃを手に持って出歩くの……ちょっと恥ずかしいかもしれない。ちょっと、じゃなくて、そこそこ恥ずかしいな。
「アサギ。私のこと、そんなに気を使わなくていいわよ」
「え? 何のこと?」
「……まあ、いいわ。何でもない」
ねぎぃには悪いけど、ねぎぃとの散歩は頻度をぐっと落とすことにしよう。ごめんね、ねぎぃ。公園が恋しくなったら、その「ひげ根」を足にして、勝手に出歩いちゃってもいいからね。
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