国分寺と国立大学の酷似
(はじめに)昔の地方の国分寺と今の地方の国立大学との類似
最近(平成20年(2008年))、私は地方の国立大学の変容を体験しながら、次のような類似性に気が付きました。「昔の地方の国分寺は今の地方の国立大学に当たる存在だった。そして昔の東大寺は今の東大に当たる存在だった。」国分寺と国立大学、東大寺と東大、名前も似ていますが、実は役割も似ていたのです。
日本は歴史上、明治維新と同じような大変革を二度受けています。古代では中国文明を受け入れたとき、近代では西洋文明を受け入れたときの二度です。古代、中国文明を広く全国各地に受け入れるため、各地方に国分寺と国分尼寺を作ったのです。近代、西洋文明を受け入れるために各地に国立大学を作ったのです。古代では、各地の国分寺の総本山が中央にある東大寺であり、国分寺の最高峰のものでした。現代では、皆さんよく御存知の通り、国立大学の最高峰は東大です。従って、巨大文明を受け入れる仕組みとして、昔は国分寺があり今は国立大学があるといっていいです。この拙文で、国分寺の栄枯盛衰から現在の国立大学が今後どう変容していくか、考えてみました。
1. 古代の国分寺と東大寺
1-1. 古代の国分寺の役割
最近(平成20年(2008年))、私は古代の国分寺が現代の国立大学と同じ役割を担っていたのだということに気が付きました。
先年(平成11年(1999年)7月)、世界最古の木造建築である奈良の法隆寺を、奈良で開かれた国際会議のイクスカーション(遠足)で初めて行きました。私は日本人ですが法隆寺に今まで行った事はなかったので、大勢の外国人参加者と一緒に法隆寺にバスツアーで行きました。聖徳太子が日本に仏法を隆盛させるため西暦607年に法隆寺を建てたというのは、日本人なら小学生の頃から習って知っているます。でも、私は実際訪ねたのは四十代後半にもなっていました。国際会議場で知りあったインド人の研究者と一緒に法隆寺を巡りました。図書館(経蔵)があったり、講義をする金堂があったり、講義時間を告げる鐘楼もあります。建物の配置や設備から見てもこれは正に大学です。僧は今の大学生だったのだと気が付いたのです。インド人の研究者に、これは古代の大学ですねと英語で話しかけたら、本当にそうですねとうなずいていました。
1-2. なぜ古代に飛鳥寺が建てられたのか
また最近、NHKの人気番組「その時歴史が動いた」を見ていたら、飛鳥寺について大変面白い話を解説していました。古代、日本は、先進文明国の中国と国交を持っていましたが、野蛮な後進国としての扱いしか受けていませんでした。なぜなら、国家を運営するのに、法律もなく、中国の皇帝からどのように政治を行なっているのかと聞かれても、まともに答えられるような制度はなかったと中国の記録に残っているそうです。飛鳥時代以前までの天皇はスーパーパワーとして多くの豪族の上に立ってはいましたが、それをしのぐ強大な豪族が現れれば取って代わられる可能性がありました。この頃の日本の天皇は不安定な政治体制の上にあり、部族集団の長のような存在であったようです。実際、天皇が有力豪族に暗殺されるようなことがあったといいます。そこで、中国の進んだ政治制度や法体系を取り入れ、中国式の律令制の国家運営を取らなければ、強大な中国や朝鮮半島の国々から軍事侵攻があれば、日本全体の豪族が一致団結して反撃することは不可能であろうと考えつくものが、やはり現れました。その頃の日本を取り巻く国際情勢は極めて緊張した時代だったのです。そこで蘇我馬子は、中国文明を受け入れる決意をし、古来の神道に固執する保守派の物部氏との内戦(587年)にも勝ち、日本で初めての仏教寺院である飛鳥寺を588年から596年にかけて建立しました。そして、高句麗から高僧を招き自分の娘を尼にして、この高僧に就けて学ばせました。この新設の飛鳥寺を見た中国からの使節団は、東海の涯(はて)にもこのような立派な寺があり文字や仏法を学ぶ施設があることに驚いたといいます。これ以降、日本は進んだ中国文明を受け入れるために各地に本格的な寺院を建てていくことになります。日本は古代に、強大な中国文明を受け入れる「仕組み」として、寺が必要だったのです。
1-3. 聖徳太子は607年、日本が文明国であると宣言
飛鳥時代、聖徳太子は仏教を国政の基本に据えました(594年仏教興隆の詔)。聖徳太子も607年に立派な法隆寺を建立します。そしてその同じ年、聖徳太子は隋の皇帝に宛てた手紙に、日本が対等の文明国であると宣言しています。
「日出ずる所の天子、日没する所の天子に送る。つつがなきや。」
この有名な文言は、多くの日本人が知っているとおりです。その聖徳太子が建立した立派な伽藍がそろった法隆寺を、イクスカーションで見て、私もインド人の研究者もこれは古代の大学だと思ったのでした。
1-4. 奈良時代に入って、聖武天皇は天平13年(741年)日本全国に国分寺と国分尼寺を建立
これらの寺院は、日本全体に中国文明を行き渡らせ、律令制の確立に大いに役立ったなったものと考えられます。そして大陸や朝鮮半島からの進攻に備えて全国から防人(さきもり)を九州に派遣できるようになりました。信濃国の小県(ちいさがた)郡から他田舎人(おさだのとねり)という人が、防人として九州に出発する際に歌った万葉歌が、上田市の上塩尻神社の境内に石碑として残っています。
「からころも すそにとりつき なくこらを おきてぞきぬや おもなしにして」
これを読むと、地方の一般人はまだ昔ながらの貫頭衣を着ていましたが、防人として出発する際には中国式の服、つまり唐衣(からころも)が正式の軍服となっていたようです。この他田(おさだ)は彼の唐衣に取りついて泣く子供をおいて防人に来たのが忍びない、母親が既に死んでいないからと、嘆いているのです。
私の父母の子供時代(大正時代)は地方の一般の人は皆和服を着ていましたが、80年も経た今の平成時代、地方の人とて洋服を日常来ているのと同じで、中国文明がまだ十分に浸透していなかった万葉時代の古代の地方の一般人は、昔ながらの貫頭衣を着ていても防人のような正式の軍役の時は唐衣を着るのが義務だったのでしょう。服装の変化から見ても、地方においても徐々に中国式の文明に染まっていったものと思われます。
さらに聖武天皇は、天平勝宝4年(752年)、これら地方の国分寺をまとめて統括する総本山として、中央の奈良には東大寺を建てて大仏を鋳造しました。この東大寺の大仏開眼の式典は何とインドから高僧を招き国家の威信をかけて行なったということです。東大寺は律令制という国家の基本を深化広めるためにはなくてはならない大変大切な施設であったのです。この時、聖徳太子が仏教を国の基本に据えると宣言してから、既に145年も経っていましたので、あちこちで勝手に僧になって税金を逃れる人が大勢出てきていました。僧は、一種の学割みたいに、僧となって勉強しているときは、税金を払わなくてよいという恩恵を受けていました。食べ物も人々の喜捨によってまかなうことになっていました。従って、私度僧といって正式な寺に入らず勝手に自分で頭を丸めて僧になる人、つまり偽学生がはびこることになりつつあったのです。そこで、国分寺は国家が正式に認めた寺であり、ここに入って勉学すれば、正式な僧として認定される仕組みを全国的に整えたのです。国家に有用な優秀な人材育成のため、正式な寺を全国的に造ることは律令体制確立のために必要なことであったということです。奈良・平安時代、全国の国分寺国分尼寺がよく機能し、日本の中で中国語、サンスクリット語の出来る僧が育ち、さらに優秀なものは選ばれて中国へ留学しました。このような人々が先進中国文明を持ち帰り、中央や地方で政治や学問の中心となったのです。
1-5. 中国文明が衰え、寛平6年(894年) 遣唐使の廃止
しかし、時代が下ると中国文明が衰え、留学してもメリットが無くなり、中国語が堪能で中国文明の支持者であった菅原道真でさえ、とうとう遣唐使の廃止を寛平6年(894年)決断せざるを得ませんでした。これ以降、寺院の中で中国語やサンスクリット語に堪能な僧が激減していったと考えられます。従って、国分寺は、天平13年(741年)から寛平6年(894年)までの約150年間が、最も隆盛の時代であったのでしょう。その後は律令制が徐々に崩壊していく中で、各地の国分寺を財政的に維持していくことが困難になって、廃寺されていくことになったのでしょう。上田市にある信濃国分寺も平将門の乱の時(天慶2年(939年))、兵火にあい焼失しています(将門記)。国分寺という仕組みの制度的寿命は150年くらいだったのでしょう。
鎌倉時代に書かれた沙石集には、経文の中国語が読めず内容が理解できないので、全巻揃っていない法華経だかに、別の経文を付け足して数合わせだけして平気な愚かな僧達の話が出てきます。平安時代末期から寺院の衰退や僧侶の堕落が著しいのです。ちょうどその頃の人に道元という人がいます。道元は平安末期から鎌倉初期の人で曹洞宗の開祖です。その道元は、当時日本の国で高僧といわれる人から教わることは、形骸化していて本質がなく、彼らの教えは、彼の表現によれば、土や瓦のごとく思えたと言っています(正法眼蔵随聞記)。それで道元は、鎌倉時代の初期に当時としては珍しく中国へ留学しています。
1-6. 日本の国分寺の栄枯盛衰の歴史概観
こうしてみてくると、国分寺は飛鳥時代から学問の中心として成立し、奈良時代・平安時代初期にかけて大いに発展し、平安中期から末期にかけては次第に衰退していった様子が概観できます。平安時代の文学を読むと他の時代を圧倒する素晴らしさが胸を打ちます。日本人が文字を使いこなせるようになったのは国分寺の発展があったからであり、政治が安定したのは、国分寺から人材が持続的に輩出できたからでしょう。その国分寺の栄枯盛衰と、古代日本の律令制国家の栄枯盛衰とは軌を一にしていると考えてよいと思われます。また、国分寺の総本山である東大寺の、奈良・平安期における国家への発言力が、非常に大きかったことも理解できます。
しかし、なぜほとんどの地方の国分寺が廃寺になってしまったのでしょうか。私は次のように考えています。
多くの国分寺国分尼寺を国家の税金でまかなっていましたが、学問僧が増えると国家の財政ではやっていけなくなった。また、僧は税金を払わなくてよいので、勝手に私度僧になって働かず納税しない人が増加した。たびたび取り締まっても田畑から逃亡して私度僧になる。僧という身分は税金逃れの隠蓑となっていった。正規の国分寺国分尼寺の運営だけでも大きな出費で大変なのに、私度僧まではびこっては大きな収入減で、財政的にやっていけない。国家は増収を図るため墾田永代私財法を作り、自分で開墾した新田は自分のものにしていいという法律を作り田畑の面積拡大を目指した。しかしこの法は公地公民の律令制度を根本から揺るがし、私有の荘園の増加とそこへ逃げ込む人々の増加を招く。荘園へ逃げ込めば国へ納税しなくてよい。役人が来ても自警団が追い払う。そして荘園の自警団がやがて武士団として成長し勢力を伸ばして、貴族と対立する勢力となっていく。
このように墾田永代私財法が荘園を増加させ、ひいては武士階級を生んだのです。公地公民の制度の崩壊が、律令制度の上に立っていた各地の国分寺を廃寺に追い込んでいったといってよいでしょう。そして、その総本山の東大寺は、平安末期に平氏の南都攻撃の際に炎上してしまいます(1180年:平家物語)。これは、新興武士階級が、古代の知識階級を凌駕した象徴的事件だと思われます。僧侶による知識力よりも、経済力を備えた武士階級による武力の方が勝る世の中が来た象徴的出来事だと思われます。
2. 近代の国立大学と東大
2-1. 近代の大学の役割
さて、近代です。日本は明治維新により西洋文明を受け入れることにしました。いわゆる文明開化です。今までの古い文明のままだと、西洋の圧倒的に進んだ科学技術や軍事技術により、植民地にされてしまう。西洋文明をいち早く取り入れ、西洋式の文明国にならなくてはいけない。そのためには、国内に学制をしき全国に国立大学を設立して、西洋文明を受け入れる「仕組み」がなければならない。そのためはじめは沢山の日本人の若者を西洋先進国へ留学させ、また御雇い外国人を、日本の出来たばかりの大学へ教授として招きました。そして明治20年くらいまでになると留学から帰ってきた日本人だけで大学を運営できるようになってきました。このあたりの時代の雰囲気は、司馬遼太郎の「坂上の雲」に詳しく、明治青年の大いなる気概が感じられます。近代・現代の大学は、明治以降、大きな西洋文明を受容するための仕組みや仕掛けであったことがわかります。明治以降の日本の近代化は、大学を筆頭とする教育制度が支えたといえます。
江戸時代の封建社会ではいくら能力があっても身分が固定したままで、農民の子は農民、武士の子は武士であり、たとえ武士であっても下級武士であれば藩主になれることは決してありませんでした。福沢諭吉が「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」と言ったのは、いくらオランダ語と英語に堪能で能力のある福沢も、江戸時代が続いていれば下級武士のままで世に出ることもなく後世1万円札の肖像画に載ることもなかったのです。明治時代になり、どんな身分のものも学問さえすれば出世できますという機会均等の世の中になりました。その福沢諭吉の書いた「学問のすすめ」が空前のベストセラーになりました。あの時代に300万部も売れたといいますから、当時の人口が3000万人くらいでしたから、物すごいベストセラーです。十人に一人の国民が買ったことになります。今だったら、1300万部くらいの売り上げということになるでしょう。「学問のすすめ」は明治時代の日本の時代精神を表したものだったのです。いかなる貧農の子に生まれようとも、学問さえ出来れば「末は博士か大臣か」という出世のチャンスがある。この時代精神が日本の近代化に大いに貢献したのです。だから進んだ西洋文明をいち早く受け入れ、日本はアジアで植民地にならなかった唯一の国になったのです。
教育が日本の西洋化の基本となりました。そして明治以降、大学が進んだ西洋文明を受け入れる仕組みとして設立されました。戦前は帝国大学を、戦後は地方の各県に一つずつくまなく新制の国立大学が設置されました。また私立大学も戦前から設置され、戦後も多数設置され続けました。
2-2. 日本の大学の栄枯盛衰を国分寺の歴史から予測
特にここ十年は設置基準が緩和され新設数がものすごい数になっています。平成20年(2008年)のセンター入試に参加した国公私大は777校でした。うそ800ではないですが、今、日本中の大学数は約800です。ここ10年で400校ほど増えました。これだけの数になると、同一世代の約50パーセントが大学に進学していることになります。
国は国立大学ばかりか私立大学にも私学助成という形で財政援助をしていますから、これほどの数の大学の面倒を国税で見ることはもはや不可能であることは明らかです。そこで、国は、平成16年(2004年)にそれまで99あった国立大学を独立行政法人とし、さらに毎年1パーセントずつ国からの交付金を削減することにしました。各独立行政法人は、ベンチャー企業などを興して独自に収入を得るようにと、護送船団方式から個別自営方式に方針を変えたのです。独立行政法人国立大学は、今合併により87大学になっています。教官は非公務員扱いとなってあたらしく教員と呼ばれるようになり、失業保険に加入しなければならなくなりました。つまり、もう首のない国家公務員ではなく、いつ首になっても仕方のない私企業の会社員と同じ扱いになったのです。財政的に自主運営できない大学は、国立大学といえども、倒産する可能性が現実に出てきました。また、私立大学もこれだけの数になると、一律の私学助成は、国の財政に大きな負担となり、削減の方向にならざるを得ません。従って、かなりの数の私立大学が今後10年以内に倒産するだろうと言われているのはそのためです。
また、同一世代の約50パーセントもの若者が大学に進学して、これだけ多くの大学生がいると、大多数の大学生の学力レベルというものが極めて低くなってきています。大学生なのに勉学しない。大学入学以前の高校や中学での学力が身に付いていないので、中高のレベルの補習授業をしないと大学の勉強についていけないものが多数存在するようになってきました。では、そんなにしてまで大学に行かずに社会に出て働けばいいといっても、高卒の就職口が非常に少なくなり雇って貰えないので、とりあえず大学生になっているものも多数存在します。大学生として在学していれば学割もきき税金も納めなくてよい。従って、このような社会の仕組みから、早くから社会に出ようにも出られない状況ができ上がっているのです。こんなことで若年層からの税金があがらなくなってしまっては、年金制度は破綻するから、国は10年ほど前から20歳になれば、強制的に大学生であっても国民年金を払わせるようにしました。しかし、1ヶ月14,400円もの保険料を自分で払える大学生はまずいないので両親が払うか、両親も払えないと猶予届けを出すことになります。4年も6年も大学にいるので、猶予届けを出して待ってもらっていても就職して月々払うようになると、今度は猶予期間中の割り増し分も加算されているので月々の支払い額は大きく、正規社員にならないかぎり払えないです。ところが、平成の就職氷河期以降、非正規雇用が労働者の4割にもなっているますから、結局、論理的に考えても4割の人からの国民年金は未納になってしまいます。働いても働いても日々の暮らしに追われてしまう非正規雇用の社員が若者を中心に極めて多くなっており、若者は、社会の仕組みから貧困層に転落させられるようになってきています。大学に行く数を減らせといっても非正規雇用の働き口しかないのでは、とりあえず大学に進学しようという若者や大学に進学せよという父母が多いのは当たり前です。実はこの現象は欧米や日本などの先進国に共通して起っているのです(潮木守一:世界の大学危機)。西洋文明の病理というものでしょう。
明治元年(1868年)から今年(2008年)で140年、大学という仕組みの制度的寿命が約150年だとすると、後10年で、国分寺と同じように隆盛の頂点を通り越して衰退へと転じるのだろうと思われます。国分寺の廃寺は、国家財政による援助がなくなって起りました。地方の国立大学もきっと同様なことがこれから起るでしょう。地方の国立大学の財政破綻は、国民の知らないところで進んでいます。総額2兆8000億円の近く借金を、全国の独立行政法人国立大学は、今後自主努力によって支払うように制度設計されて、2004年国立大学は国の護送船団方式から切り離されました。法人ごとに財政再建に努力せよということになっています。そのことは、平成17年8月29日付けで文科省から発表された
「国立大学法人の平成16事業年度財務諸表の概要」http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/17/08/05090601/all.pdf
に明確に書いてあります。これによれば、国立大学全部の資産の総額は全国立大学法人合計で9兆793億円、負債の総額は2兆8千20億円です。独立行政法人化したので当然ですが、この借金は国が肩代わりするのではなく各大学が自分で稼いで支払うことになっています。しかし、これらの借金は教員が野放図に赤字を繰り返したからではありません。これらはほとんど国立大学病院が、国民のため高度医療を開発する目的で、国から財政投融資を受けたものです。
例えば、S大学医学部で盛んに行われた臓器移植は1件1000万円から3000万円位かかるといわれていましたが、開発途中で成功するとは限らない医療なので、保健は適用されません。したがって本当は全額患者が支払わなければならなかったはずです。しかし、患者に全部おわせてしまうと患者はこの高額な手術代を払えなければ、死ぬしかありません。さらに、患者側でも大金をはたいてなお失敗の可能性があるハイリスクの医療を受けることには躊躇します。そういう状況では、高度医療の開発は出来ないです。そこで、これらは国民の為に高度医療を開発するという大義名分により国からの財政投融資(郵貯や簡保が財源)という、表の国立大学予算には出ない、文部官僚の采配で受けた裏の研究費でまかなっていたとききます。平成14年(2002年)、時の小泉内閣はこの官僚主導の財政投融資は政治家が知らないうちにどんどん赤字が増える元凶だ、けしからんと、いろんな分野のものを一切やめさせました。さらに平成16年(2004年)、全ての国立大学が独立行政法人化されたときに、今までの財政投融資分は各大学の借金として背負わされることになったのです。今これらの国立大学の多額の借金は、各大学で教員の給与や研究費、学生への教育費を削って支払っています。誤解を恐れずにいうと、1990年から2002年までに多数の患者がS大学で臓器移植手術をうけましたが、それらから発生した赤字は、今S大学の教職員の給料や学生の納付金を削って払っていると言えます。善良な教職員や学生に何の非もない。ひどい政策だと思います。ちなみに、S大学医学部は1990年から2002年の参議院議長K 野氏の生体肝移植まで、臓器移植を多数行い華々しく活躍していました。しかし、2002年財政投融資がなくなりさらに2004年に独立行政法人化されたのに呼応して、S大学医学部ではK野氏の手術以後5年間 (20年間)臓器移植の手術は一つもされませんでした。また、多数の臓器移植手術をされ活躍されていたM内先生は、国立大学の独立行政法人化の丁度その年、平成16年(2004年)の4月に、T大医学部に移ってしまわれました。M内先生の移籍は、財政基盤の弱い地方大学の独立行政法人化の影響といえるでしょう。
さて、この財政投融資による多額の借金のことは一般国民にもまた国立大学の教職員にも広報されていません。ただ、上のインターネットのウェッブサイトに情報公開されているだけなのです。だから知らない人がほとんどです。なぜこんな情報の出し方をやっているのだろうと疑問に思います。国立大学の理系の研究室では、独立行政法人化前の西暦2000年頃までと比べて、法人化後、国から来る研究費は10分の1になっています。一般の国民に信じてもらえないほど急減してしまいました。理系の標準的研究室では、年間必要研究費の20分の1くらいしか国から交付されていません。自助努力といっても限度があります。おそらくこのままだと、これから10年以内に、地方の国立大学で特に医学部を持っているところは上に述べたように多額の借金を抱えているので、白い巨塔どころか白い廃虚になるだろうと予想されています(日経新聞平成18年(2006年)08月21日:岐阜大学学長 黒木俊夫)。国民の知らないところで、国立大学、特に地方の国立大学の財政破綻が進行しています。
2-3. 現代の 地方の国立大学は、古代の国分寺と同じように廃校になるだろうか
国に現在800兆円もの借金があるのだから、国民皆で何とかしないといけないのは当然でです。しかし、各地方の教育研究の拠点である国立大学がこのまま廃校になっていいのでしょうか。古代の地方の国分寺が、中国文明を受け入れ律令制の下支えをいていたにもかかわらず、国からの財政支援がなくなって、ほとんどが廃寺になっていったように、現代の地方の国立大学も、西洋文明を受け入れ科学技術立国の下支えをしているにもかかわらず、国からの財政支援が急速に減少していき廃校になっていく運命にあるのでしょうか。当時の中央にあった奈良の東大寺は今も残っていますから、現在中央の東京にある東大は今後も残るでしょう。しかし、地方の国立大学は、今のままでは後何年も持たないところが多いと思います。古代の墾田永代私財法が地方の国分寺の根幹を揺るがしたように、現代の国立大学独立行政法人化法が、国営から民営化の風潮にのり、地方の国立大学の根幹を揺るがしていると言えます。
(おわりに)
私は、最近、以上のような古代の地方の国分寺と現代の地方の国立大学との類似性に気付き、今後100年間に地方国立大学がどのように変容していくか予言できるような気がしています。100年後、200年後、野原になって土台だけがかろうじて残っている場所を訪ねた人に、ここに実は昔国分寺があったと言うように、ここに今は正門しか残っていませんが、実は昔ここに国立大学があったのですと、私たちの子孫が言っているかもしれません。
平成20年(2008年)1月24日-28日 随筆
令和5年 (2023年)11月3日 加筆
*なお、冒頭の大学のイラストは、下記のURLからフリー画像を使用させて頂きました。
https://www.ac-illust.com/main/search_result.php?word=%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6
