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こうかいの日

後悔しながら 生きてきた

昨日の会話の内容から 人生の大きな決断まで

あのときこうしていれば あのときこうしていなければ

後悔は波のごとく

打ち寄せては引いていき 引いていきは打ち寄せ

日に日に大きくなっていった


 後悔は日々増え続け、今や一日の半分は何かを後悔している。あのときこうしていれば、あのときこうしていなければ。遂には後悔に費やした時間にすら後悔するようになってしまった。
 私はいつからこんなに後悔するようになったのだろう。以前の私はもっと明るく、前向きだった。過ちをただ悔やむのではなく、それを糧にして未来を考えられる人間だった。
 つまらないことよりも楽しいことの方が多く、できないことよりもできることの方が多く、端から見ても順風満帆な人生だったような──

──いや、本当にそんな人生だっただろうか?
 できないことから目を逸らし、できると自分に言い聞かせていただけではなかったか。
 思い返せば、自分は昔も今も言い訳が多い人間だった。本当はできるがたまたま失敗しただけだ、今のは本気を出さなかっただけだ、と。そんな言い訳ばかりをしていたから、私はいつの間にか本当にできないやつになってしまったのではないか。

 あのとき自分の失敗に向き合っていれば、あのとき言い訳をしなければ。
 今更そんなことを考えても仕方がないと分かっていながらも、後悔の波は絶え間なく打ち寄せてきた。

 そう、今日だってそうだ。あのとき二等客室を選んでいなければ──。


 この部屋で私に与えられた空間は、足が伸ばせるか伸ばせないかのベッドの上のみ。実家の自室の押し入れの方がまだ広いと思う。
 寝転んでみれば、今まで幾多の旅人が押し固めたであろう布団が私の背中を襲う。枕は、まだ畳よりかは柔らかいだろうか。寝転んで目を開ければ上段のベッドの底が目の前に見える。明日の朝、寝惚けていつも通り起き上がれば『そこ』に頭をぶつけるだろう。

 いや、そもそも今夜は満足に眠れるのだろうか。位置の悪いこの部屋は船体にぶつかる波の影響をもろに受け、終わらない揺れと振動を続けていた。こんな環境でまともに眠れるわけがなかろう。
 なんでも、今夜は年に一度あるかないかの荒波らしい。何故このような日にフェリーなんぞに乗ってしまったのか。
 航海を後悔。などと言っている場合ではない。

 事前の情報収集が足りなかったのか、それとも幾許かの金が惜しかったのか。何にしろ今となっては後の祭であり、二等客室の酷さに気付いたときには一等客室は既に満室だった。

 部屋を変えるのは諦め、無理矢理寝てしまおうとビールを呷ってみたがこれがいけなかった。船の強い揺れと振動は、ビールを私の胃ではなく頭の方に流してしまったらしい。
 過去にない頭痛と吐き気に襲われた私は、這う這うの体で部屋から逃げ出した。

 なんとか辿り着いた船のロビーにはまだ煌々と照明が点いており、夜だというのにまるで昼間のような明るさだった。
 先ほど一等客室の空きを確認するために部屋を出たときにはまだ家族連れの方が多い印象だったが、今やそういった類いの客は姿を消し、ロビーに見えるのは男女二人組ばかりだった。何かを語り合う二人、無言で窓の外を見つめる二人、人目を憚らずにイチャつく二人。
 けしからん。最後のは特にだ。頭痛と吐き気がさらに強くなったような気がした私は早々にロビーを後にし、人気のない場所を探しはじめた。

 そしてフラフラと彷徨い続け、辿り着いた先は船のデッキだった。
 この船には、見晴らしの良い展望デッキとは別のデッキがある。こんな時間に活動しているようなアベックたちはみな展望デッキに行ったのだろう。こちらのデッキは人は疎らで、私はやっと落ち着く場所を見つけることができた。

 落ち着くと言っても風は強く、ぬるく、お世辞にも居心地が良いところではない。
だが少なくともあの二等客室やロビーよりはマシだろう。体力的にも精神的にも、これ以上ダメージを受ける心配はない。
 気分が良くなるまで、私はここで手摺に寄りかかり海を眺めることにした。

──暗い海を眺めながら物想いに耽っていると、様々なことが頭を巡る。ちなみにこの散文の冒頭はこのときに考えていたことだ。
 気分が悪く、きっと気持ちも落ち込んでいたのだろう。ぬるい風や暗い景色も、後ろ向きな考えに拍車をかけた。
 このときは考えても考えても、無限に遡る後悔しか頭に浮かばなかった。あのときこうしていれば、あのときこうしていなければ。
 中学生の頃、好きな子の前で格好をつけようと飲めないブラックコーヒーを飲み、盛大に腹を下したのを後悔したあたりで私は考えることを止めた。

 そしてそのまま呆としていると、スピーカーからアナウンスが聴こえてきた。なんでも、強風のため速度を落として航行をしているらしい。確かにやたらと風は強いし、しかもその風は進行方向から吹いてきている気がする。
 実についていない。一秒でも長くこの船の上には居たくないのだが、速度を上げたら上げたできっと揺れが強くなったりするのだろう。
 孤立無援の八方塞がり。万事休すとはこのことだ。

 ああ、あのときもっと早く二等客室に見切りをつけていれば、あのときビールを飲まなければ。後悔が後悔を呼び、考えを巡らせる程にその波は高くなっていった。そうしていたらまた気持ちが悪くなってきた。

 そもそもデッキの上は潮の臭いが強く、気持ちや身体を落ち着けるには不向きな気がしてきた。体力的にも精神的にもこれ以上ダメージを受ける心配はないが、逆に良くなる見込みもない。
 どうする、場所を変えるか。だが部屋もロビーも展望デッキも駄目だ。この船の上に、ここ以上に環境の良いところがあるのか。それに吐き気を催した際にはここが一番周りに迷惑をかけない。手摺の外は大海原である。私の吐瀉物などいくらでも受け入れてくれるだろう。
 いや待て。そもそもこの体調で周りへの迷惑など考えている余裕があるのか。もっと自分のことを優先して考えた方が良いのではないか。いやいや、こんな私でも最低限のプライドと自制心はある。可能な限りは人に迷惑をかけない方法を取るべきではないか。

 その後、いくら考えても答えは出ず、その事実がまた気分を悪くさせた。

 こうやって、何にあたっても迷う性格がいけないのだ。自分が行っていることすべてが間違っているように思えてしまう。
 生来、自分を信じて何かをやりきれた試しなど一度もない。

 この文もそうだ。当初はもっと、繊細で深みのある私の魅力的な人物像が浮かび上がってくるようなものにしたかった。
だが途中で悪い癖が出てしまい、ただの愚痴と後悔を連ねただけのものになってしまった。初志貫徹など望むべくもない。
 そう、私は根っからの不真面目な人間なのだ。

 駄目だ。このままではさらに気分が悪くなる。
 私はその場でしゃがみこんだ。目を閉じ、目蓋の裏をひたすら眺めることにした。

 そして、どれぐらいの時間が過ぎただろう。頭痛が少し収まってきて、部屋に戻ろうかロビーの様子を見に行こうか考えていたときだった。

────あの、大丈夫ですか?
 急に話しかけられた。
 驚いて振り向くと、知らない女性がしゃがんでこちらを見ていた。
 誰だ。何故私に話しかけるんだ。何か返事をしなければ。もともと人と話すのが苦手な私だが、女性と話すのは特に苦手である。急に女性に話しかけられて、まともな返事などできる訳がなかろう。嗚咽のような、声にならない声しか出なかった。

「少し待っていてください。水を買ってきます」
 その女性はすっくと立ち上がると、船内に向かって走っていった。

 私の頭は混乱していた。彼女は何者なのか、何故私を介抱しようとするのか。
美人局か詐欺か、それとも宗教か何かの勧誘か。いや、わざわざフェリーの上でそんなことをするやつがいるか。だが私にはそんな理由しか思い浮かばなかった。

 それはそうと、先程の嗚咽のような声はなんだ。女性と話すのが苦手なのは事実だが、もう少し何とか言えなかったのか。いや、今の私は非常に体調が悪いのだ。いつもの調子であれば普通に会話ができていたはずだ。
 いやそんなことよりもどうする、彼女が戻ってこないうちにこの場を離れるか。だが場を離れるとしてもどこに行く。あの地獄のような二等客室か、居心地の悪いロビーか、アベック蔓延る展望デッキか。
 この船上に逃げ場はない。

 いくら考えても答えは出ず、私は結局しゃがみこんだままその場を動くことができなかった。

 そうしていると、船内からこちらに向かってパタパタと走ってくる彼女の姿が見えた。その手にはペットボトルが握られている。
「水です。どうぞ」
 再び私の前にしゃがんだ彼女は、そう言ってペットボトルを差し出してきた。ミネラルウォーターだった。
 私はそのペットボトルを見つめたまま、しばらく動くことができなかった。
「水を飲めば、少しは楽になると思います」
「あ、ああ、ありがとう」
 私はぎこちなく応え、ペットボトルを受け取った。何故彼女が私を介抱しようとするのは分からないが、ここまで来たらもう覚悟を決めるしかない。私は思いきってペットボトル半分ほどの水を一気に飲んだ。
 冷たい水を飲むと、酒の方の酔いは幾分か楽になったような気がした。というか、何故私は今まで水を飲むということを思いつかなかったのだろう──。

 ふぅ、と息をつく。
 落ち着いて目の前の女性を見てみると、端正な顔立ちをしていた。はっきり言って美人だ。目も眉もはっきりとしていて、なんとなく意思の強さを感じる。
「落ち着きましたか?」
 しまった。不躾に顔をまじまじと眺めてしまった。
「あ、ああ。落ち着いた。ありがとう」
 なんだか分からないがとりあえずこの場を離れなければ。
「それじゃ悪いがこれで失れ……」
 失礼、と言いかけたところで私は急に吐き気を催し、くるりと回って海に向かって吐き出した。
「おえええ」
 吐瀉物の半分は海に落ちていったが、もう半分はべったりと船体に付いてしまった。船の人、申し訳ない。
 水を飲み落ち着いたと思ったが、まだ酔いは治ってなかったようだ。しかも、吐いたら今度はまた頭痛が戻ってきた。
「うぅ……」
 私は再びその場にしゃがみこんだ。

「風にあたっていると治るものも治りません」
 彼女が話しかけてきた。
「部屋に戻って休んだ方が良いと思います」
 そうなのか。いや確かにそうなのだろう。だが、きっと彼女はあの二等客室の酷さを知らないのだ。
「部屋は駄目だ。あの部屋は駄目だ……」
 私は頭痛と吐き気を飲み込みながら絞り出すように応えた。
「ではロビーで休むのはどうですか?」
 部屋が駄目ならロビー。至極当然の提案だ。誰だってそうするだろう。だがあんなところで休むぐらいなら、デッキでのたうち回っていた方がまだマシだ。
「嫌だ……。ロビーも嫌だ……」
 初対面で、しかも自分のことを介抱してくれている人に対して、本当に失礼な奴である。だが、部屋もロビーも嫌なのだ。こればっかりは譲れない。

 それからも彼女はいくつかの提案をしてくれたが、私はそのすべてを断った。
「大丈夫だ……。もう大丈夫だから放っておいてくれ……」
「どう見ても大丈夫ではありません。……まったく、しょうがない人ですねぇ」
 彼女が立ち上がる気配が感じられた。やっとこれで、このよく分からない状況から解放される。
 そう思ったそのとき。
「よ……っと」
 彼女は私に肩を貸そうとしているのか、私の手をとって肩にかけた。そういった心得があるのか、その動作が素早く自然過ぎて私は一瞬何をされているのか理解ができなかった。
「それでは持ち上げますよ」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。流石に立つぐらいはできる」
 私は焦って立ち上がった。
「なら良かったです。歩けますか?」
「あ、ああ」
「ではついてきてください」
 彼女は踵を返すと、船内に向かって歩きはじめた。

 ついてきてと言うが、どこへ行くつもりなのだ。のこのことついて行ったら、怖いお兄さんが出てきやしないか。いや、それは先ほども考えたではないか。わざわざフェリーのうえでそんなことをする必要はないだろう。それに上手く説明はできないが、今までの彼女とのやり取りからは純粋な親切心のようなものが感じられた。
「何をしてるんですか。やっぱり肩を貸しましょうか?」
「い、いやいい。いま行く」

 最終的な決め手は、今となっては分からない。なんとなく感じた親切心なのか、彼女の提案を断り続けたことに負い目を感じていたからなのか、単に彼女の美貌に釣られただけなのか。
 ただこのときの私は混乱しながらも、彼女の後をついていくことにしたのだった。

 船内に入って少し歩くと、あの憎きロビーが見えてきた。相変わらず男女二人組ばかりで居心地が悪そうである。早く寝ろと言ってやりたい。というか何故こいつらは部屋でイチャつかないんだ。人に見せつけたいのか。
「ロビーは嫌なんですよね?」
「絶対に嫌だ」
 私は即答した。
「はぁ。では……。ついてきてください」
 彼女は諦めたようにロビー横の階段を上りはじめた。
 彼女は階段をどんどん上っていくが、酔っ払いの私には富士登山に比する険しい道のりだった。階段を一段上るごとに体力がなくなっていくのが分かる。彼女から再び肩を貸す提案をされたが私は断った。男らしさなど欠片もない私だが、流石に女性に肩を貸してもらうのは憚られた。
「水を……水をくれ……」
 途中、水を求める度に彼女はペットボトルを顔の前に差し出してくれた。ご主人から餌をもらう飼い犬にでもなったような気分だった。

 そうして何とか階段を上っていき、船の2階に行き着いた。ここは確か一等客室や、船内から外を見渡せる展望ロビーがある階のはずだ。それ以外にも何かあったと思うが忘れた。
 私はかなり息が上がっていたが、2階まで上りきった達成感で気分も少し高揚していた。
「それで……どこで休めるんだ?」
「もう1フロア上です」
 高揚していた気分は一気にどん底まで落とされた。2階まで上るだけでこれだけ疲れたのに、まだ上るというのか。それに上の階へと続く階段の前にはポールパーテーションが置かれていて、明らかに私のような輩の侵入を拒んでいた。
 確かにこの上の階には特等室があるはずだ。勝手に上がって警備員に呼び止められでもしたら面倒くさいことになる。そんな私の心配を知ってか知らずか、彼女はパーテーションを気にすることなくその脇をすり抜けて行った。もうどうなっても知らん。仕方なく、私は彼女の後をついていくことにした。

 2階から3階への道のりは、控えめにいっても地獄だった。
 手摺に寄りかかり、足が次の段を踏んでいるか一歩ずつ確かめながら上っていった。階段の上方はおろか前すらも向けず、ひたすら自分の靴が左右交互に現れる様を見ていた。
「がんばれがんばれ」
 彼女の応援が聞こえてきた。顔は見えなかったが、なんとなく笑っているような雰囲気が感じられる。こいつ、このような状態の私を見て楽しんでいるな。くそう。あのときデッキに残る選択をしていれば、あのとき彼女についていかなければ、このような苦痛を味わうこともなかっただろうに。
 後悔を反芻しながら、私は交互に現れる自分の靴が次の段を踏む様を凝視していた。そうしていなければ今にも階段を踏み外しそうなほど私は消耗していた。2階から3階に上るまで、半刻ほどかかったように感じた。

 そうして3階まで上りきった頃、もはや私は極限状態にあった。
 頭痛と吐き気と疲れと眠気。
 そいつらは入れ替わり立ち替わりに自らをアピールし、私の体力と精神を削っていった。今すぐにでも倒れてしまいたい。それに3階の廊下の絨毯の何と柔らかいことか。二等客室のベッドよりも明らかに上等である。しかも、船の揺れも振動も二等客室より静かだ。この廊下なら気持ち良く寝られるのではないか。というかもうここでいい。ここがいい。あとはここで丸太の様に横になるだけだ。そんな思考を最後に、私の意識は途絶え──
「何をしてるんですか」
 彼女の声で、朦朧としていた私の意識は現実に戻された。
「もうここで寝る」
「阿呆ですか」
「もう一歩も動けん」
「こんなところで寝たら警備員さんに叩き出されますよ」
 そこは嘘でも良いから、風邪を引きますとか言って欲しかった。
「そのときは警備員と寝る」
「……まったく、しょうがない人ですねぇ」
 彼女が近づいてくる気配が感じられた。
「よ……っと」
 何度目かの正直である。彼女は私に肩を貸そうとしているのか、私の手をとって肩にかけた。流石に、このときはもう抗うことができなかった。
「それでは持ち上げますよ」
 返事を待たず、彼女は私に肩を貸すかたちで持ち上げた。
「もう少しで部屋ですから、頑張って歩いてください」
 部屋? 部屋って誰の部屋だ。まぁ横になれるのなら何でもいいか。朦朧とした意識のなか、半分は自分の足で、半分は彼女に支えられながら私は部屋まで歩いていった。部屋に着くまでもずっと、この廊下で今すぐ寝られたらなぁと考えていた。

 部屋のドアは開いていた。先に彼女が開けておいたのだろう。肩を貸された状態でフラフラしながらも、私たちは部屋に入ることができた。
 その部屋は、いわゆる特等室だった。いや一等客室にすら私は入ったことがないのだが、どう考えても特等室だろうと一目で分かる空間だった。壁紙、絨毯、ベッド、どれをとってもあの二等客室とは別物である。壁には絵画がかけられていて絨毯は柔らかく厚い。荒波による揺れや振動もほとんど感じられない。この部屋なら床で寝ても熟睡できるだろう。ベッドは二つ並んでいた。いわゆるツインルームというやつだ。
 というかここは誰の部屋だ? 彼女が開けたのだから彼女の部屋なのだろう。ということは私は彼女の部屋に入ったということか。
──彼女の部屋? 私が女性の部屋にいる? 私は何故ここにいる? どうやってここに来た? いやそんなことを考えてもしょうがない。というよりも今の私には考える余裕がない。考えるよりももう倒れてしまいたい。ずっと続いている頭痛と吐き気と疲れと眠気。もはや私は限界である。

──だが、今の私にはそんな体力的な限界を抑えて自分を立たせる、新たな何かが生まれはじめていた。
 完全に体重を預けているわけではないが、大の男に肩を貸しここまで歩いてきた彼女は息が上がっていた。はあはあと聞こえる彼女の吐息は何故か艶かしく感じられた。目を移せば、髪の間から彼女のうなじが見える。薄く汗が浮かびしっとりとしたうなじは、私の男を掻き立てるには十分な魅力をもっていた。今すぐこの白い首筋にかぶりつきたい。
 この部屋には私と彼女しかいない。というかこの空間を私と彼女だけにしたのは彼女の方ではないか。押し倒されても文句は言えないだろう。

──いやいや、いかん。私はなんてことを考えているのだ。彼女は善意で私を介抱してくれている。理由は分からないが、きっと私が全快することが彼女の望みなのだ。ここは大人しく寝て体調を取り戻すことが、彼女の善意に報いることなのではないか。

 だが、それでも、いやしかし。
 私は理性と本能の狭間で何度も問答を繰り返した。こうやって何にあたっても迷う性格がいけないのだ。自分が行っていることすべてが間違っているように思えてしまう。とにかく自信がないのだろう。たまには迅速果断といきたいところだが、そうしたらしたできっと即決したこと自体に後悔をする未来が見える。

 それに悩むことも悪いことばかりではない。これだけ自問自答を繰り返したおかげで、私はかなり理性を取り戻しつつあった。この調子なら低俗な本能なんぞに振り回されずに済む。私は人間だ。本能で動く動物ではなく、理性で動く人間なのだ。今日は彼女の善意に甘え、この部屋で寝かせてもらうとしよう。そして明日は謝罪と感謝の気持ちを伝えたうえでお礼の食事に誘い、軽快なトークとウィットに富んだジョークで彼女を楽しませるのだ。しかるのちに──
「もう、ベッド、ですよっ」
 急に、私に話しかけながら身体をこちらに向けようとする彼女と目が合った。知らないうちにベッドの近くまで歩いていたらしい。私の視線は彼女の潤んだ瞳から唇に移り、白い首筋へ。その後はだけた胸元へ移ったあたりで、私のなかの何かがぷつっと切れる音がした。さらば理性、ようこそ本能。
「御免!」
 私は、彼女をベッドに押し倒した。
「ちょっと、待っ……!」
 彼女のその言葉を最後に、今度こそ私の意識は途絶えた。


──波の音が聞こえる。
 それは、幾度となく繰り返した後悔の波ではなく、優しい波の音だった。打ち寄せては引いていき、引いていきは打ち寄せ。波とは海の呼吸であり鼓動なのだ。その一定のリズムとたまに現れるゆらぎは、不思議と私の心を穏やかにさせた。波音に耳を傾けている間は、いつもの後ろ向きな考えを止められる気がする。そう、昨晩彼女を押し倒したことだって前向きに考えれば──


「考えれば?」
 私は覚醒した。
 ここはどこだ。空は白んでいる。私は上等なベッドで寝ていた。記憶をたどる。昨晩、私は地獄のような二等客室を飛び出し、居心地の悪いロビーから逃げ出し、アベック蔓延る展望デッキを諦め、人気のないデッキで回復を図っていた。

 そうだ。そこに彼女が現れたのだ。彼女の介抱を受けた私は死にそうになりながらも彼女についていき、この部屋にたどり着き、そして──彼女を押し倒した。
 なんてことを。私はなんてことをしてしまったのだ。これでは私はただの犯罪者だ。後悔という度合いを超えている。
──いや待て、押し倒したところまでは覚えているが、その後の記憶がない。私は着衣を確認した。シャツのボタンは留まっているが、ズボンのベルトは外れている。だがズボンのボタンは留まっている。中途半端な状態だ。記憶だけで判断するのならば、恐らく、多分、私は押し倒した勢いでそのまま気を失ったのではないか。昨晩何があったのか、それを知るのは彼女だけだ。

 そこまで考えてから、私は彼女がいないことに気がついた。辺りを見渡す。部屋には誰もいなかったが、微かに物音が聞こえた。浴室の方だ。浴室のドアに近づくと、シャワーの音が聞こえた。彼女がシャワーを浴びているのだろう。どうする。いやドアを開けるか開けないかで悩んでいるのではない。このまま部屋に留まるか、あの二等客室に戻るか。このまま部屋に留まったとして、浴室から出てきた彼女と何を話すのだ。せめて謝罪の言葉だけでも伝えたいが、昨晩私が行ったことは謝罪して許されるようなものではない。いや、足がもつれたということにすれば何とか弁解できないか。
 しかし、やはりその後の会話のイメージが浮かばない。どうする。私は浴室のドアの前をウロウロと歩き続けた。だがこのまま悩み続けていたら彼女が浴室から出てきてしまう。よし、ここはまず自分の部屋に戻ろう。これは決して逃げるわけではない。考える時間を作るための戦略的撤退である。 
 ただ、二度と彼女に会えない可能性も考慮し、机に置かれたメモ台にお礼の言葉を書き残しておくことにした。
『ありがとう』
 と書いてから思ったが、ありがとうだけでは味気ないか。ありがとう、そして申し訳ない。いや違う気がする。ありがとう、改めてお礼をしたい。いや、もし会えなかったときに嘘になってしまうし、何か名状しがたい気持ち悪さを感じる。ありがとう、ありがとう、ありがとう──
 そこまで考えてから、浴室からシャワーの音がしなくなっていることに気がついた。まずい、もう彼女が出てきてしまう。私は結局『ありがとう』とだけ書いたメモを残し、彼女の部屋から逃げ出した。
 もとい、彼女の部屋を後にした。

 外はもう明るくなっていた。
 体調はすっかり良くなり、あれだけ苦労した階段はあっという間に下りることができた。部屋に戻る途中であの忌まわしきロビーの前を通ったが、昨晩と違い家族連れが数組見えるだけだった。あのけしからんアベックたちは朝日にあたったことで消滅したのだろう。早起きな子どもに連れられ寝惚け眼をこすっている親御さんを横目に、私は軽い足取りで自室に戻った。

 二等客室は相変わらず揺れと振動が激しかったが、身体が慣れたのか昨晩ほどの気持ち悪さは感じなかった。ただベッドに横になる気にはなれず、私は鞄から歯ブラシと歯みがき粉を取り出し、洗面に向かうことにした。顔を洗い歯をみがくと、そこから今日という日がはじまる気がする。昨晩の出来事は夢だったのではないか。そんなことを考えながら、私はいつもより長く歯をみがいていた。

 そうして身支度を整えたあと、私の足は自然と昨晩の大部分を過ごしたデッキに向かっていた。悪い思い出しかないデッキだが、今の時間と体調であればまた違った景色が見えるだろう。私は途中の売店でパンと牛乳を買い、デッキで海を眺めながら朝食をとることにした。

 程なくしてデッキが見えてきた。昨晩ここを歩いた記憶が少しずつよみがえってくる。あのときは大変だったなぁ。船酔いと悪酔いが同時に襲ってくるなんて思いもしなかった。そんなことを考えながら、昨晩寄りかかっていた手摺の方に歩いていくと──そこには彼女がいた。
 昨晩とは違う服を着ていたが、間違いない。彼女だ。青い空と海を背景に、白いワンピースが映えていた。
 いや見とれている場合ではない。幸いなことに、彼女はまだこちらには気づいていなかった。彼女の近くには船員と思われる人がいて、彼女は昨晩私が吐いたあたりを指差して船員に何かを伝えていた。

 どうする。このまま立ち去るか、声を掛けるか。昨晩の謝罪とお礼を伝えたいのは山々だが、何と言って声を掛ければ良いのだ。おはよう? いや、私と彼女はそんな気軽に挨拶をするような間柄ではない。昨晩は申し訳ありませんでした! と滑り込みながら謝罪でもするか。いやそれではただの変な人だ。
 私は物陰に隠れながら彼女との会話のきっかけを考え続けたが、まともな案は出てこなかった。

 もっと早くこの状況を想定していれば、そもそも彼女の部屋から逃げ出さなければこのようなことにはならなかったのに。そんな後悔をしたあたりで、彼女と船員の会話は終わり、船員はどこかへ去っていった。持ち場にでも戻ったのだろう。
 彼女は一人で昨晩私が吐いたあたりを見ていた。やめてくれ。私が責任をもって掃除しておくから、そんな汚いものを見ないでおくれ。私は一人でいたたまれない気持ちになっていた。

 いや、そんなことよりもどうする。彼女に声を掛けるチャンスはこれで最後のような気がする。もしロビーや食堂で姿を見かけても、いま以上に難易度が上がるだろう。そうなったらもう絶対に声を掛けられない。よし、「昨晩は申し訳なかった。そしてありがとう」これだけ伝えて逃げよう。三十六計逃げるに如かず。私のような口下手が生兵法であれこれと策を講じるより、きっとその方が良い。

 落ち着け、伝えるのはものの数秒だ。伝えた後は返事を待たずに退散するのだ。もし私が昨晩何かをやらかしていたとしたら、彼女は追いかけてくるだろう。何もしていなければそれで終わりだ。昨晩の出来事は、私のなかではちょっときれいな、彼女のなかではちょっと汚い思い出として残るだけである。
 よし、がんばれ私。謝罪とお礼を伝えるだけではないか。君はできる男だ。行くぞ、行くぞ、行くぞ──
 その刹那、突然こちらへ振り返った彼女と目が合った。
「あ」
 と彼女の声が聞こえた気がした。まずい。これは想定外だ。彼女はその場から動かない。私はこの場から動けない。逃げろ、逃げろ、逃げろ。蛇に睨まれた蛙というのはきっとこのような心持ちなのだろう。どうする。ここはもう一度、戦略的撤退を選ぶべきか。いや、それはつい先ほど後悔したばかりではないか。何でも良い。何でも良いから、まずは話しかけるのだ。

「ちょ、朝食を買ってきたぞ」
「阿呆ですか」


 やはり私は彼女に声を掛けたことを後悔することになるのだが──それはまた別の機会に書くこととしよう。
 今日はもう書く時間がないし、きっと不甲斐ない自分への愚痴と後悔を連ねたものとなるに違いない。

「何をしてるんですか。もうすぐ船が出ますよ」
「あ、ああ、すまない。いま行く」


今日も今日とて今日がはじまる

そして 今日も明日も明後日も 昨日のような終わらない後悔の日々が続くのだろう

だがそんな後悔も悪くはない
これが私の人生だ

逆風満帆 波高し
微速前進 宜しく候

さぁて 今日も頑張って行こうかい

後悔しながら 生きてゆく

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